ネヴィンズJr.の『エラリイ・クイーンの世界』によると、『エラリー・クイーンの冒険』に収められた短編は、おそらく32年から34年にかけて書かれ、大部分はパルプマガジンが初出となりました。短編集の刊行も34年ですから、すぐに本になったわけです。アガサ・クリスティも、このころまでに大半の短編を書いていて、とくに、謎解きミステリは多くを20年代に書いていますから、比べると、クイーンの方が細かな工夫が見られます。『ポワロの事件簿』の刊行が24年。この10年の差がいかに大きいかということです。
 たとえば「首つりアクロバットの冒険」の導入部などは、小手先の技かもしれませんが、ありきたりを排そうとしています。「アフリカ旅商人の冒険」(これだけは雑誌掲載がないようです)は、ネヴィンズJr.が誉めるほどのアイデアとは思えませんが、エラリーが大学のゼミの授業として学生たちに事件を推理させるという話で、アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』ふうのやり方です。「一ペニイ黒切手の冒険」は、ある一冊の本が盗まれたり買い占められたりするという事件から入っていって、遡って、本題の貴重な切手の強奪事件とその隠し場所の謎が、後から登場します。「チークのたばこ入れの冒険」も、ある大きなアパートで起きた連続盗難の捜査を依頼されているところに、そこの一部屋で殺人が起こります。
 エラリー・クイーンといえば、ダイイング・メッセイジがつきものですが、すでに第一短編集において2編書かれています。しかし『Xの悲劇』がそうであったように、まだ、このころのダイイング・メッセイジの取り扱いは、慎重を極めていて、単なる人当て問題とは一線を画すように工夫がなされています。「ひげのある女の冒険」は、いまとなってはこの答えは、読者の第一観、誰しも言い当ててしまうでしょう。ですが、事件の前日に子どもが髭をいたずら描きしたというエピソードが配置されています。つまり、難解なダイイングメッセイジを被害者が残すという、ある種不自然な事態に、心理的な補強を与えようとしているのです。さらに「ガラスの丸天井付き時計の冒険」は、死の直前の被害者がふたつのものを掴んでいるという複雑さの上に、それをわざわざ選んで掴んだという論証も丁寧(きっちり伏線を張っていて)で、さらに、メッセイジの内容もかなり複雑なものです。しかも、そのメッセイジそのものが、実は……と一ひねり加えていて、通常ここまでやると、不自然なものになってしまうのですが、それを救っているのが、犯人の書いた手紙が示している彼の性格です。心理的あるいは文学的な伏線なので、エラリーの解決には用いられていません(あるいは作者も気づいていないのかもしれません)が、この手紙を書くような男だからこそ、この犯行があったのです。
 こうした工夫の多くは、導入から中盤にかけて、いかに読者を惹きつけるかという点に、問題意識があるように見えます。ただし、それらの工夫が、功を奏しているかというと、必ずしもそうは言いきれません。
「首つりアクロバットの冒険」は、雰囲気を出すという枝葉の工夫が露骨なため、かえって謎解きの興を削いでいる。解決そのものも平凡ですしね。「見えない恋人の冒険」は絶対に人など殺さないと町じゅうの人が思っている男の拳銃が、明らかに犯行の凶器であり、しかも、その本人が拳銃は絶対に盗まれたりしていないと断言している。この不可能興味はちょっとしたものですが、犯行現場にエラリーが抱く違和感から、真犯人の犯行を解明するプロセスが複雑にすぎて、不可能興味はそこそこに、プロセスの解明に進まざるをえない。極端なハウダニット(犯行方法さえ解明すれば犯人が分かるようなハウダニット)の弱点がここにあります。これが長編だったら、また違ったかもしれません。ちなみに、この犯人の設定は古畑任三郎に同じものがあり、古畑が犯人を怪しむきっかけに巧いアイデアが使ってありました。この犯人の設定はもともと、どちらかというと倒叙向きだと思いますが、見えない恋人というアイデアは倒叙には不向きでした。巧緻を極めた「ガラスの丸天井付き時計の冒険」の論証にしても、精巧さに感心はしても感動は薄い。『Xの悲劇』のようなある種の単純さが、ダイイング・メッセイジには必要なのかとも考えますが、どうも、それだけのことではないように思います。ここでの巧妙さは、所詮、段取りの精密さではないのかと、読者に思わせてしまう何かが、クイーンにはあるように思うのです。その点を払拭し、読者を圧倒する中編を、数年後にクイーンは書くのですが、その前に、クイーンは待望のスリックマガジン進出を果たします。『エラリー・クイーンの冒険』の掉尾(翻訳書には未収録。『世界短編傑作集』の4巻に入っているからです。出来れば、こういう状態は改善した方がいいと思います)を飾っている「は茶め茶会の冒険」「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」)です。

『エラリー・クイーンの冒険』の中で、語り口の工夫が生きていて、構成とも噛みあっているものは「双頭の犬の冒険」「は茶め茶会の冒険」だと考えます。前者の初出はミステリー・リーグ。クイーン自身の雑誌です。そして後者がレッドブック。ネヴィンズJr.によると「クイーンが原稿料の高い高級雑誌(スリックマガジン)への売り込みに成功した最初の短編」です。
「双頭の犬の冒険」はニューイングランドの海沿いの宿における、炉辺の怪談噺から始まります。エラリーが部屋を求めたその宿は、半年ほど前に、犬を連れた怪しい泊り客があって、それが有名な宝石泥棒だと分かる。男を追跡してきた探偵が深夜現われたのです。しかし、彼らが捕まえたのは犬だけだった。そして、その夜から、男の泊まったキャビンに客が入ると怪しい音が聞こえるようになる。偶然の暗号か、怪談噺のメンバーは捕り物の当夜以来の顔合わせがそろっていて、各人が部屋に戻ると、その夜、かつて男の泊まった部屋をとっていた男が、喉を掻き切られて殺される。
「は茶め茶会の冒険」は、雨の中、エラリーがロングアイランドの知人宅を訪ねるところから始まります。高名な女優(に、エラリーは会いたかった)が、当地で「不思議の国のアリス」の舞台をかけていて、後援者であるエラリーの知人の息子の誕生日のために、彼の家で友人たちを役者にして、ワンステージだけアリスをやろうとしています。人間関係に不穏な感じがあり、エラリーは寝つけぬ夜を過ごします。案の定、翌朝になると、家の主人が行方不明になっています。
 2作に共通するのは、エラリーが乗り込んでいった場所で事件が始まるというところです。事件が起きたところへ行って、エラリーが過去について訊問するのではなく、事件の渦中にエラリーがいるのです。ある意味、巻き込まれ型と言っていいかもしれません。同時に、クロノロジカルな展開が基本になっているのです。ただし、この2編の出来には差があって、「は茶め茶会の冒険」は、ありていに言えばインチキでしょう。アリスにちなんだ趣向にあふれ、居合わせた人々に、次から次へと贈り物が届くという明るいサスペンスが見事なだけに、解決は肩透かしとしか言いようがない。すっきりとしたパズルストーリイに仕上がった「双頭の犬の冒険」の方が数倍勝っていると思います。
 作家エラリー・クイーンの、30年代における、こうした短編ミステリでの試行錯誤の結果、輝かしく実をむすんだのが、中編「神の灯」であることは、どこからも異論が出ないのではないでしょうか。偏屈な老人がどこかに全財産を隠したらしい古い屋敷。そこに外国からやって来た女性の相続人。彼女を快く思わない屋敷の人々。不穏な空気に弁護士からクイーンが同道を求められ、乗り込んだところに事件が起きます。離れの屋敷「黒い家」が一夜にして消え失せるのです。ディクスン・カーばりのはなれわざですが、トリックの作家ではなく手がかりの作家であるエラリー・クイーンは、作家が一生に一度だけ思いつけるような見事な伏線一発で、このマジックを成立させてみせます。
 ポオの「モルグ街の殺人」が、密室殺人であることよりも、周囲の人々の食い違う奇妙な証言(どこの言葉だか分からないが、外国の言葉だと、皆が皆言う)の解明に、現代でも通用する美点があったように、「神の灯」も、家屋消失トリックではなく、解明に到る伏線の美しさにこそ、より大きな価値があると私は考えます。
「神の灯」は1940年の『エラリー・クイーンの新冒険』の劈頭を飾りました。この短編集は、宝捜しゲームの展開に犯人の心理を織り込んだ「宝捜しの冒険」という佳作を含んでいますが、一方で、トリックのためのトリックでしかない「暗黒の家の冒険」や、まるでクリスティみたいに事件がなかなか起きない、しかし、クリスティならもっと巧くやっただろうなと思わせる「血をふく肖像画の冒険」といった作品も入っています。クリスティならもっと巧くというのは、クイーンに対して、いささか公平ではなくて、クリスティでも、そうした行き方が成功するのは長編の場合でした。
 冒険と新冒険の短編が書かれたのは、時期的には、国名シリーズからハリウッドものにかけてです。ここでのクイーンの試みは、価値のある試みだったと思います。しかし、第二次大戦とライツヴィルものの執筆を経て、第二次大戦後のクイーンの短編には、ほとんど見るべきものはないように思います。むしろ、30年代の自らの試みからも後退していると感じさせることの方が多い。しかし、この時期、作家クイーンの短編ミステリでの試みよりも、はるかに短編ミステリの進歩と発展に寄与する活動を、エラリー・クイーンは開始します。次回はそこを見ていくことにしましょう。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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