■そして『水の中、光の底』へ――日常性、ファンタジー、シュルレアリスム
岡和田 日本ゲームブック界の最重要作家の一人であるフーゴ・ハルさんは、ゲームブックを書くにあたり、物語という名の迷宮を設計するような、いわばイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』(河出文庫)のような書き方を選択していました。絵画のモチーフで言えば、シュルレアリスム絵画をそのままゲーム化してしまうような。
そこでも、やはり語られている作品の「外部」との照応関係が生じれば、読者=プレイヤーの楽しみはいや増すと思います。作品の自律的な完結性というのは、ゲームというジャンルでは逆に自閉的になりやすく思いますし、文芸的に見ても、外部にある広義のテクストとを取り結ぶ、いわば間テクスト性は、もとの作品自体の価値を貶めることにはならないと思います。
平田 それは『水の中、光の底』にも関係しますね。
岡和田 『水の中、光の底』は『展覧会の絵』から25年近く経って世に出た作品で、一見なんの因果関係もなく見えます。しかし書き方のスタンス、ひとつの大きな主題のある絵画の中を歩いていくような読後感は『展覧会の絵』と通じるように感じました。
平田 『水の中、光の底』の収録作は、もともと日本SF大会の企画「SF創作講座」に毎年提出していたものです。創作講座は「ひとり1編ずつ作品を出し、それを冊子にまとめてそれぞれ講評を受ける」という形式をとっています。1年1作です。最初の作品はCAPRICON1(1998年)だから10年以上前ですが、これは単行本に収録していません。入れたのは2作めから。いくつかは外して、新作を入れたりしています。
岡和田 少しずつ熟成された作品集なのですね。連作ということは当初から意識されていたのですか。
平田 それがねえ……2作めの「潮騒」を書いたときに、「あれ、そういえば去年も漢字2文字、酒場ではじまったぞ」と気づいたんです(笑)。それで3作めから連作を意識しました。
そのとき思ったのが、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』(岩波現代文庫)でした。あれと同じに、ちょっとした小ネタを尻取り形式に取り入れていけば全体でひとつの本になるぞ、と欲をかきまして。
岡和田 『鏡の中の鏡』の話題が出たのでお訊きしますが、ファンタジーや幻想文学はよく読まれていたのでしょうか。
平田 いえ、『ナルニア国ものがたり』(岩波少年文庫)も読んでいません。“剣と魔法”ものでは『指輪物語』(評論社文庫)と『ゲド戦記』(岩波書店)くらいかな。
ファンタジーと言うより日常幻想文学みたいな作品は、SFでも筒井康隆さんがいますし、山尾悠子さんも好きです。同世代なんですが、同人誌時代の川上弘美さんは大好きでした。
岡和田 当時の川上弘美さんというと、〈NW‐SF〉(NW‐SF社刊。山野浩一さんが主催したSF雑誌)ですか?
平田 お茶の水女子大学SF研究会の同人誌〈コスモス〉で読みました。
岡和田 〈NW‐SF〉に載った小川項や山田弘美名義の作品には、私もシビれました。今の川上作品よりもこの頃のほうが好きです。「累々」は最高ですよね。
平田 「累々」は〈コスモス〉からの転載です。
岡和田 あれは恐ろしい傑作です。なるほど、『水の中、光の底』には、そうした作品とそこはかとなく響き合っているのを感じますね。どこかで見たような世界が硬質の文体で描かれ、気づいたら見知らぬ領域に入り込んでいるさまは、いま挙げられた、いわゆる日常系ファンタジーにも通じる部分があります。
平田 さきほどシュルレアリスムの話が出ましたが、芸術では20世紀初頭から少しずつ前衛というものが現れてきて、それまでの成果をなんとか超えられないかという模索がはじまりました。科学方面で非ユークリッド幾何や相対論などが出てきたのと同時期なのが面白い。
問題なのは、例えばモーツァルトは大衆にも人気があったのに、現代の前衛は大衆から遊離しだしています。というより、そもそもいつまで頑張っても主流にならない。音楽はいまだに昔ながらの音階を持つものが中心だし、美術でも抽象画はさほど受け入れられていると思えない。
岡和田 シュルレアリスムや抽象表現主義のイメージは、さりげなく広告やコマーシャルなどでよく見るように思うのですが。
平田 そうですね。主流にならないといっても、成果がゼロというわけではないんです。例えば現代音楽はSFやホラーのBGMには使われますよね。
岡和田 テルミンがホラーのBGMとして用いられている例でもよいかもしれません。
平田 それらの前衛音楽を大衆化しようとした人たちがいます。『展覧会の絵』にも関係することなのですが。それがさっき名前のあがったELPたちの運動、つまりプログレッシヴ・ロックです。
岡和田 ああ、納得できます。プログレ、ポストニューウェーヴ、サイケデリックなどの実験精神ですね。確かにあれは前衛と大衆音楽の融合です。
平田 そもそもロックとSFは次の点で似ています。
テクノロジーへの憧れ、いわゆる芸術性・思弁性などの要素の取り入れ。しかしながら、あくまでもエンターテインメントであること。自由であること。
SFはやはり娯楽が主流、いや、大衆文学だと言うほうがいいかな。星新一さんが「SFのいいところは問題提起を娯楽の形で提供できることだ」と言っています。つまり一見小難しい話でも、あくまでもその小難しさを楽しむことができる。そしてロックは、どう考えても大衆のものですよね。
自由であること、というのは、こういうことです。ELPのアルバム『ELP四部作』のなかに「ピアノ協奏曲第一番」という作品があります。本物のオーケストラを使ったソナタ形式三楽章のピアノ協奏曲なんですが、あくまで精神はロック。ロックは他のあらゆるジャンルの音楽を貪欲に取り入れ、それでもロックでありつづけました。
SFでは小松左京さんの「汚れた月」や豊田有恒さんの歴史小説は、別の作者のものだったらジャンルSFに容れてもらえないでしょうが、われわれSFファンはそれをSF的視点から読みます。星新一さんのショートショートにもジャンルSFには容れがたい作品がたくさんあります。何でもありの世界であって、それでもSFは貪欲にそれらを取り入れる。そこが似ていると思うんです。
岡和田 よくわかります。この貪欲さは時として批判されますが、とかくタコツボ化しがちな世界の中では、もっと評価されてもよいと思います。
平田 パンクやら何やらに対比すると、ロックの中心がハードロックなら、いみじくもSFにはハードSFがあります。ニューウェーヴもある……けど、これは違うものか。そうだなあ、プログレがニューウェーヴ、ポップロックがスペースオペラ、と、なんとなく対比できませんか。
プログレッシヴ・ロックの話をつづけますが、ドイツのバンド、タンジェリン・ドリームをご存知ですか。
岡和田 タンジェリン・ドリーム! 『ハイパーボレア』!(アルバム名)
平田 グループのリーダー、エドガー・フローゼが昔いっていたんですが、「私たちがやりたいのは、リゲティなどの現代音楽作家のつくった成果を、純粋にエモーショナルなものに持っていくこと」だと。すなわち、前衛芸術の成果から、映画のBGMなどではなく、本当に美しい、大衆にわかる音楽をつくること。
その最大の成果がアルバム『フェードラ』です。なんとこの曲、メロディもろくにないのに、電子楽器のリズムで非常に美しい音楽がつくりあげられているのです。
岡和田 前衛性を翻訳して「純粋にエモーショナルなもの」を味方につけるわけですね。80年代に、サイバーパンクの立役者ブルース・スターリングが「俺たちはポップ・スターだ!」と言い切ったことを思い出しました。
そういえば『フェードラ』は、サミュエル・R・ディレイニーの 『アインシュタイン交点』(ハヤカワ文庫SF)が、たぶん出典なんですよね。『アインシュタイン交点』では、PHAEDRAという固有名が重要な役割を果たすのです。
平田 あ、そうなんですか。ひとつ利口になりました。
私のやりたかったのは、ともすれば大衆から遊離しがちな、前衛的な、ありえない世界や幻想性を使って、そこから美しい宝石を磨き出し、癒しを与えることなんです。
岡和田 その意気ごみは一読者にもよく伝わってきます。「癒し」と言うとエモエモな泣き小説みたいに聞こえますが、『水の中、光の底』で与えられるものはそれとは違う。さきほどトールキンのconsolationという言葉を使いましたが、これはある翻訳では「慰め」となっています。「往きて還りし物語」を経て、何かしら新しいものが見えてくる。あるいは傷ついて別の世界へ去るかもしれないが、それを含めたconsolation、ということでしょうか。
平田 というより、現実世界があまりに嫌なことが多いから、純粋に美しい世界に遊んでもらいたかったんです(笑)。自分が現世で嫌な思いばかりしているので、タンジェリン・ドリームやマイク・オールドフィールドの曲のような、美しさに癒される話が読みたかった。だから自分で書きました。
岡和田 私もマイク・オールドフィールドは大好きです。彼の「To France」は、何度聴いたかわかりません。
平田 私のホームページのその部屋(http://www.hirata-koubou.com/music/oldfield/)も、どうぞお読みください。
さっき私は、『展覧会の絵』は私の作品ではない、私は編曲者だと言いましたが、じつは私も作曲するんです。
岡和田 ホームページに記載がありますね。
平田 例えばこんな言い方はどうでしょう。「私は作曲はするが、曲を『作った』ことはない」と言ったらどうお思いでしょう。芸術家によっては同じことを言う人がいます。
岡和田 書くべき曲はすでに先に誰かに書かれていた、あるいは自分が書くものは他の誰かの書いたもの、影響を受けたものの変奏にすぎない、ということでしょうか?
平田 ピアノの鍵盤は88しかありませんし、音は決まっています。つまり、作曲とはそれをつなげる作業にすぎません。私は「最良と自分が思う音とその配列を『見つけた』」だけなんです。
岡和田 わかります。自身作曲家でもあるラングドン・ジョーンズというSF作家が、「音楽創造者」(ハヤカワSFシリーズ『ニュー・ワールズ傑作選1』所収)でその問題を扱いつつ、「音楽の意味するものは、死だ」と、極限の認識まで行き着いたことを思い出しました。
平田 『水の中、光の底』はかなりの部分が、夢や、周囲の景色から、まず美しいものを見つける、探すことから書きはじめました。次にそれを表現するのに最良の言葉を探します。『展覧会の絵』で、原曲という素材を見つけて、それを解釈したように。
岡和田 モチーフをご自身の周辺から探し出し、研磨されるわけですね。
平田 「モチーフを周辺から」と言っていただいたのは大切な要素です。それが私の作品が「SFというよりファンタジー」と言われても“剣と魔法”風の異世界にはならない理由でしょうね。
岡和田 異界の構成原理が異なるのでしょう。ソード&ソーサリー(剣と魔法)やヒロイック・ファンタジーは「反近代を志向した近代人による神話の再生の試み」であり、それゆえに例えば英雄という要素が重要になる、というのが私の持論なのですが、一方で平田さんの方法論は、日常の周辺からモチーフを紡ぎ上げることで、それをざらざらした現実に対抗するための場として磨き上げています。それもまた、ファンタジーを構成するための極めて重要な出発点だと考えます。
平田 そう考えていただいていいのかな。ロートレアモンのシュルレアリスムに関する言葉はご存知ですか。アンドレ・ブルトンなどのシュルレアリストが評価した19世紀の詩人で、「ミシンと蝙蝠傘が手術台の上で出会った」ように美しいと言ったんですが、この言葉はこうは言われていません、「スミアプトミマルマがカニノクントとタセインシスで出会った」とは。
岡和田 何も意味のない言葉の羅列ではないということですね。
平田 そう、ミシンも傘も手術台もすでに存在しているものであって、それをありえない組み合わせにするだけで、美しい。でも、ミシンと傘を解剖台に乗せて、本当に美しいと普通の大衆は思うでしょうか。
岡和田 思わないでしょうね。
平田 ところがルネ・マグリットの絵画には、普通の人も感動する、展覧会に出かけさせるだけの力がある。空に巨大な鳥が飛んでいる、それは鳥の形をしているが、じつは雲の後ろに見えた青空なんです。
私は教員をやっていまして、『水の中、光の底』の第1話「循環――夜の車窓」は、高校でテスト監督をしているとき、ふと校庭を見たんです。そのときたまたまふと、ポール・デルヴォーの絵を思い出した。デルヴォーは鉄道をよくモチーフにします。 そこで、校庭に電車の駅があったら幻想的で面白いと思ったのです。「ミシンと蝙蝠傘」の代わりに「学校の庭と路面電車の駅」です。タンジェリン・ドリームの言う前衛の大衆化と同じ手法で、ありえない組み合わせのなかから美しくなりそうなものを見つけた。
もう一人、大事な画家がいます。ジョルジュ・デ=キリコです。キリコの絵に対する感想として「何処かで見た風景」だと言う人が多いらしいんですね。もちろん実際には見たことがないのに、ですよ。
岡和田 キリコについては確かに既視感がありますね。なぜかはわかりませんが。
平田 『水の中、光の底』を読んでくださった方から「どうも妙な既視感がある」という感想をいただくんですが、これもシュルレアリスムから借りた手法と言えます。そうした感覚を大切に出来ないかと思ったんです。
岡和田 お話を伺って、アラン・ロブ=グリエを連想しました。シュルレアリスムに強い関心を寄せていた20世紀フランスの小説家で、彼の作品で最も有名なのは、脚本をつとめた映画 『去年マリエンバートで』でしょう。
『幻影都市のトポロジー』(新潮社)という小説では、それこそデルヴォーの絵から出発した異界像が描き出されます。ロブ=グリエはキリコも高く評価していたように記憶していますが、彼の場合は、シュルレアリストが用いたような、既視感のある題材に迷宮的世界、そしてエロティシズムが重要なファクターでした。
いっぽう平田さんは、既視感から出発し、光というイメージへ近寄っていくところが独創的に思えます。「曇天」や「潮騒」のラストなど、まったく難解ではないのですが、ラスト近辺の光の描写には娑婆の毒気を浄化するような機能があるように思いました。
特に「潮騒」に描かれる光の底、あるいは水の底にまでつづく淡い光と鼠の情景。これはSFやロックの流れで考えると、じつに自然ですね。
平田 私がやりたいのは、美しい宝石を磨くことなんです。何よりも自分がその美しさに癒されたいし、だったら他の人にも通じるのではないかと思うんです。
宝石には原石が必要ですから、それを日常から探します。そのときにタンジェリン・ドリームと同様に、前衛の手法を借ります。前衛の難解さを引き継ぐのではなく、前衛の成果を普通に美しいものに変える、応用するという考え方です。
そして見つけた原石を磨いて、人に見せられるようにします。しかしそれは言葉でやらなければなりません。私はそれを書きますが、決してゼロから出発しているわけではありません。私は適切な言葉を探し、それを紡ぎます。ちょうど楽器の音という素材をつなげる最良のやり方を見つけるように。
岡和田 非常に明快で、よくわかります。『展覧会の絵』と『水の中、光の底』の2冊を置いてこの基本思想を確認しなおすと、おっしゃるような『展覧会の絵』の基本的な行為である「紡ぎ」の姿勢とも重なるのではないかと考えます。
ところで、私が『水の中、光の底』を読んですぐ連想したのは、村上春樹の『東京奇譚集』(新潮文庫)でした。村上春樹はテーマ性のはっきりした作品を打ち出す傾向が強いと思っていたのですが、ここでは日常から取り出された素材が投げ出され、意味を結ぶ手前で撹乱されている。目指すところが、おっしゃるような「美」とは違うかも知れませんが、方法的な意識は近しいものがあるのかも知れないと考えました。
平田 すみません。村上春樹は初期作品以外ほとんど読んでいないんです。勉強不足で申し訳ない。
岡和田 いえ、平田さんが村上春樹フォロワーかどうかということではなくて、日常から外れた奇想、モチーフの転がし方です。出来上がったものはもちろんまったく違いますが、いわば、手つきです。
平田 手つきといえば、作品をもっとおどろおどろしくする方はたくさんいらっしゃいます。そうした方の手つき、というか方法論かな、それをもとにして、もっと純化された透明な――ああ、気恥ずかしい言葉だな。それこそ今すぐはうまく「見つかり」ません――ものを紡ぎたいのです。それこそマイク・オールドフィールドのような。
SF小説|東京創元社




