ハメットがブラック・マスクで活躍していた時期の、もうひとりの大物に、アール・スタンリイ・ガードナーがいます。アメリカ本国でも超の字のつくベストセラー作家でしたし、ペリイ・メイスンものをはじめとして、翻訳数も多いのですが、あくまで、それは名を成したのちの長編の話です。パルプマガジン時代の伝説として語り継がれる執筆ペースから考えれば、短編集にまとめられたものは、ほんの一部としか考えられません。まして、その翻訳においてをや。幸い、The Erie Stanley Gardner Pageというウェブサイトが、雑誌初出のリストを作っているので、そこに依拠しながら、初期作品をいくつか読んでみましょう。
『ブラック・マスクの世界』は第5巻が〈異色作品集〉となっていますが、チャールズ・M・グリーン名義で24年にガードナーが発表した珍品「毒蛇の部屋」を掲載しています。
 冒頭で、いきなり、女が自分の夫に、遺言状を書き換えて、自分が死んでも財産の大部分が夫にいかないようにしたと宣言します。金目当ての結婚だと気づいたのです。これはこれで、ガードナーらしいと言えなくもありません。しかし、その夫の反撃が、密閉した部屋で妻を一晩毒蛇と過ごさせて、発狂を狙うというのですから、唖然とします。ミステリマガジンのガードナー追悼号(1970年9月号)には「雨の魔術」という28年の作品が訳されていますが、アフリカの猿人の村に紛れ込んだアメリカ人の幻想的な冒険を、その当人にアメリカの砂漠で出会ったガードナーが、体験を物語化する権利を買い取って書き上げたという設定です。30年の「小さな恐怖の谷」は、EQの名作発掘として翻訳されました。砂漠の町に流れてきた気弱な男が、その町の簡易食堂の女将ビッグ・バーサ(どうしたってA・A・フェアを連想しますね)と出会うことで、ひとかどの男になるという、西部小説です。
 ガードナーが職人的なパルプ作家であったことは、こうした作品群を読むだけでも了解可能でしょう。しかし、ブラック・マスクにおけるガードナーの活躍の主流を成すのは、怪盗エド・ジェンキンズものでした。29年の「ネックレスを奪え」、35年の「法のおよばざるところ」といった作品は、悪名とはいえ名声を得たジェンキンズが、それゆえに、やっていない犯罪まで警察当局から押しつけられて、そのために表立って動けないというジレンマの中での冒険物語でした。陽光の下にいられない暗さが、ジェンキンズにはつきまといますが、その暗さが洗い落とされ、同じく怪盗という言葉が付されていても、さながら冗談のような設定(犯罪者の上前をはねる怪盗の家に、召使いとして警察のスパイが潜入している)で、ゲーム感覚が前面に出てくるレスター・リースのシリーズを、ガードナーは29年に書き始めます。そんなゲーム感覚が、長編ミステリで開花したのが、ペリイ・メイスンなのではないでしょうか。

『ブラック・マスクの世界』に、もう少し目をやることにします。
 トム・カリーの「強盗クラブ」は、第3巻に収められている27年の作品です。小鷹信光は、語り口が古めかしいと解説していますが、潜行刑事マクナマラが過去の成功談を、新聞記者に語って聞かせるという形をとっています。実話かどうか知れたものではない犯罪実話がたくさん書かれ、形式だけが小説として残ると、こういうものになるのでしょう。
 同じく27年の作品なのが、第5巻のフレデリック・ネベル「致命傷」です。チャンピオン確実の若いボクサーと、彼に寄生する謎の男の話ですが、グッドストーンの「パルプ・マガジンの時代」のところで読んだ、ポール・ギャリコの「臆病者マイク」の方が、一枚上手でした。もっとも、ネベルの本領はミステリにあるようです。ネベルについては、ハメット以後のブラック・マスクのところで、もう一度読むことにしましょう。
 のちに、もう一度とりあげる点では、ホレス・マッコイも同様ですが、第1巻の「黒い手帳」は、テキサス航空警備隊長ジェリー・フロストのシリーズで、30年の作品です。これも、後年の輝きを予感させるものはありません。警察や新聞を金の力で買収した地方ギャングの町に、フロストがやって来るのですが、作家が凄みをやりくりしようとする姿勢は、キャロル・ジョン・デイリイと、大差ないのです。
 拾いものだったのは、N・L・ジョーゲンセンの「新しいボス」と、エド・ライベックの「重要証拠」の二作でした。前者は第1巻に、後者は第3巻に収録され、ともに32年に書かれたものです。
「新しいボス」は、賭博師ブラック・バートンが主人公です。バートンは賭博師であるため、名家の娘との結婚を一族あげて反対された過去があり、その結婚もいまでは破綻しています。そんなところへ、あるギャングの罠にかかり、ヤクの売人にされそうになった、妻の一族の大学生が、助けを求めてくる。ギャングと決別しようと対決したところ、相手を撃ってしまったというのです。バートンが動き始めると、撃たれたギャングは死んでいて、ナンバー2の男が、これを好機と捉え、新しいボスになろうとしている。そのためには、ボスを殺した男として大学生を組織に差し出さなければなりません。バートンはすぐに、実際にボスにとどめをさしたのが、ナンバー2の男だとあたりをつけます。全編アクションまたアクションで、少々強引ながら、ボスの死を契機にうごめくギャングたちの企みを、バートンが巧みに粉砕していきます。
「重要証拠」は酔いどれ新聞記者ハリガンが主人公です。市政腐敗の記事を社長に潰されたところから、小説が始まります。怒りをぶちまけるハリガンは、編集部長になだめられる。そこへ社長から話があるから家に来てくれと電話が来ます。行ってみると社長は殺されていて、ハリガンに殺人容疑がかかります。という始まりは、およそ平均的な新聞記者ものですが、ハリガンという主人公が、記者離れしているというか、社会人としてはいささか壊れたところがあって、それが後半の展開をとても平均的とは言えないものにしていました。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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