長編に手を染める前のダシール・ハメットを読み返すことで、ハードボイルドミステリの発生に到る道筋を確認する作業の一環として、当時のブラック・マスクの他の作家の小説に目をやっておきましょう。といっても、20年代のブラック・マスクの作品は、あまり翻訳が多くありません。おそらく、質も低いのだろうと、私には、数少ない邦訳作品から判断するしかないのですが、断定的なことは言わないでおきましょう。
 1980年代の半ばに、小鷹信光が編者となって、国書刊行会から『ブラック・マスクの世界』という6巻のアンソロジー(5巻プラス別巻1)が出ています。正直に言えば、面白い作品はあまり多くなくて、ポール・ケインの『裏切りの街』を1~5巻に分載した(その後、河出文庫に入りました)ことと、当時としては珍しかったハメットの作品――「帰路」「血の報酬」――を収めたことで、評価されるものでしょう。第5巻と別巻に掲載された、各務三郎と小鷹信光の対談が、私には有益でしたが、それを有益と感じる人がどれくらいいるかは、分かりません。
 ブラック・マスク創刊号に掲載されたという、スチュワート・ウェルズの「白い手の怪」が、このアンソロジーの第1巻には収録されています。歓談の席で、中のひとりが怪異な経験談を話すという、当時としても古典的な設定の怪談と見せかけてという話でした。ハードボイルドミステリの雑誌という誤った先入観を持って読むと、戸惑う人もいるかもしれません。出だしこそ、この連載の最初の回で紹介した、リチャード・ハーディング・デーヴィスの「霧の夜」に似ていないでもありませんが、話の落としどころも軽めなら、「霧の夜」にあった、世紀末ロンドンの不気味さという、厚みにも欠けています。もちろん、軽さが生きることは、ショートストーリイに珍しくはありません。とくに、毎月なり毎週なりの雑誌を埋めていくには、そうした才能が必要なことは確かです。この問題は、今後も折にふれ出てくるでしょう。ただし、「白い手の怪」は、最大限認めても、その程度の出来だと考えます。
 小鷹信光は第1巻の解説で、創刊号12編の内容を分類・紹介していますが、そのうち「内容別にみてみるといちばん多いのは『怪奇ミステリー』の四編」で、「白い手の怪」もそこに含まれ、その他に、謎解きミステリ、幻想と怪奇、犯罪小説、ロマンスとあって、「寄せ集めの読物雑誌の印象が強い」としています。
 第4巻にはJ・ポール・スターの「蛇の尾」という1927年の作品が入っています。これが、ドーント神父という探偵の活躍するシリーズもので、謎解きミステリなのです。博物館に展示されている、貴重な蛇のお守りがある。密閉したガラス容器に入ったそのお守りが、ある日ふたつに増えているという、そこだけ取り出せば、現代でも通用しそうな冒頭です。ガラス容器は小さな密室で、なぜ、こんなことが起きたのか首を傾げているうちに、翌晩、新たに現われたお守りが消え失せ、警備員が殺される。この事件を解くのが、ドーント神父なのです。運転手として神父につき従うスタッブスが泥棒あがりというのは、ブラウン神父のさらに俗なパクリという気がします。派手な冒頭のわりには、解決には驚きもなければ工夫の跡もない。シャーロック・ホームズのライヴァルたちの、さらに通俗的な縮小再生産とでも言うべき作品でした。ポール・スターの名は、森英俊編著の『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』にもありませんし、この作品がすぐれているから、小鷹信光が採ったとも思えません。おそらく、この手の退屈なミステリというか犯罪読物は、巷に溢れていたと思われます。そして、現在の眼で見て、この「蛇の尾」と、たとえばC・E・ベチョファー・ロバーツの「イギリス製濾過器」『世界傑作短編集3』に収められた26年の作品です)との間に、どれだけの差を見ることが出来るのでしょう?

 ハメットと並んで、初期のブラック・マスクの人気作家であり、ハメットに先んじて私立探偵を主人公にしたとして、歴史に名を刻んでいるのが、キャロル・ジョン・デイリイです。探偵の名はレイス・ウィリアムズ。『ブラック・マスクの世界』の第1巻に、その初登場作品「KKKの町に来た男」が収められています。ミステリマガジンの〈ブラック・マスクの伝説〉という特集号(1977年5月号)にも「脅迫者を暴け」という32年の中編が訳されていて、レイス・ウィリアムズものの翻訳は、このふたつだけのようです。
「KKKの町に来た男」は、当時隆盛を極めたKKK(作中でも「上り坂の組織」と書かれています)を題材にして、KKKに息子が目をつけられた金持ちの父親の依頼で、組織に牛耳られた町に、レイス・ウィリアムズが乗り込みます。「脅迫者を暴け」は、深夜、郊外にウィリアムズが呼び出されているシーンから始まり、すぐにウィリアムズが襲撃されます。事態は曖昧なまま、危険を切り抜けたウィリアムズのもとに、翌日、奇妙な依頼が舞い込みます。
 ウィリアムズは私立探偵というよりは、ガンマンであって、拳銃にものを言わせることが多く、自身もそう語ります(彼の一人称なのです)。事件の展開も、多分に力任せで、構成にクレヴァーなところが見られないとはいえ、テンポよく進むので、そう悪いものではありません。「KKKの町に来た男」には、町で唯一KKKとあからさまに敵対している一家という、味のある脇役が出てきて(ちょっと西部劇的な登場の仕方が面白い)、スパイスを利かせています。
 ただし、ウィリアムズ氏のいきがりようは、さすがに、げんなりです。「そりゃあ、たまには正当な一発ってやつを撃つ――仕事のうちだからな。だけど良心の咎めを感じないのは、殺されて当然のやつしか撃たないからだ。それにいつ何時でも悪党どもを出し抜ける自信はある」「銃を手にしたら、俺は危険人物なのだ――これほどの悪はないほどにな!」といった文章には、説明を通り越して、読者に対する必死の説得を見る思いがします。また、「脅迫者を暴け」には「おれは脳天に銃を振り降した、残酷だと言われても仕方がない。こいつは、か弱い娘をかどわかし、殺そうとしているのだ」という文章があります。私立探偵の無軌道な行動には、あくまでも言い訳が必要なのです。また、「おれは奴が嫌いで、正義が好きだ。正しいことをしたような気になっていた」「動き回るのが、おれは好きだ」といった文章が、アクションの合間に表われます。こうした、いきがっているようで、かつ一方では弁明的な文章は、程度の差と表現上の巧拙の差こそあれ、ミッキー・スピレインや、それ以後の通俗ハードボイルド(という表現が、そもそも懐かしいというか、いまや死語でしょうか)まで、連綿と続くことになります。
 小鷹信光の解説によれば、編集長のジョゼフ・T・ショウは、デイリイを好まなかったようです。やがて、デイリイはブラック・マスクと決別し、そして忘れ去られていきます。



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