さて、ここらで、23年から24年にかけて書かれた、コンティネンタル・オプもの以外の作品をながめておきましょう。
「緑色の悪夢」は、HMMに掲載されたとき、訳者の稲葉明雄が書いているほど凡庸な作品とは思えませんが、前回指摘した「黄金の蹄鉄」よりもさらに、ウールリッチに接近しています。掲載誌がスマート・セットということも、関係があるかもしれません。「死体置場」「深夜の天使」「犯罪の価」は、軽いオチのある犯罪を素材にした短編で、短い作品です。後のふたつの翻訳掲載誌がヒッチコックマガジンであったことが、その内容を如実に示しています。「ついている時には」はある賭博師の少々向こう見ずな冒険という点で、翌年の「悪夢の街」と共通しています。中身、書き方ともに雑なところも同じです。ハメットの内部に騎士物語を志向する部分があるのは、『マルタの鷹』を読めば分かることでしょうが、それが無造作に出るとこうなるという見本でしょう。「悪夢の街」の根本にあるアイデアは、かなり素晴らしいのですが、それを生かすには、50年ほど早すぎた気がします。アーサー・ヘイリーとかフレデリック・フォーサイス以降の長編作家が、扱うべき発想でした。「紳士強盗イッチイ」と「判事の論理」はサタイアないしはユーモアを目指したものですが、ハメットには似合わないものでした。それでも「判事の論理」はガードナーばりの法廷ミステリのアイデア――それもペリー・メイスンというよりはラム&クール――を、ショートショートの器に押し込んだもので、一読愉快ではあります。「紳士強盗イッチイ」は新聞記事からミステリ(おそらくはイギリス産の。なんたって、イッチイはグラマースクール中退ですからね)まで、様々な媒体によってでっちあげられた、ありえない犯罪者のイメージ(紳士強盗)を、主人公が逆に守ろうとするナンセンスですが、堅さが抜けていないのが難点です。もっとも、こういう異議申し立ての意識が、ハメットのクライムストーリイを生んだのかもしれません。
 そして、24年の1月に、ハメットはブラック・マスクに、もうひとつの注目すべき短編を発表します。「ダン・オダムズを殺した男」です。
 小説は「ダン・オダムズを殺した男」が監房にいるところから始まります。すぐに男は脱獄し逃避行となります。逃げる男だけを執拗に描いて、みごとな追跡劇にするあたり、ハメットの筆は冴えています。この小説は一種の西部小説ということになるのでしょう。しかし、電線が重要な小道具として現われていますから、完全な未開の地ではありえません。「新任保安官」がそうであったように、開拓時代の終わりを告げる話なのです。男は追手の銃弾で負傷し、「谷間の岐れ道に、這いつくばるようなかっこうで建って」いる家に逃げ込みます。そこには小柄な婦人と12歳くらいの子どもがいます。男は自分が人を殺して追われていることを話し、さらに逃亡を続けようとしますが、婦人は休むよう勧め、息子を見張りに立てます。男の子は丘の頂上で腹這いになったまま、見張りを続けます。
「休日」同様、この作品も、外面描写の正攻法で話が進んでいきます。ハードボイルドを文章のスタイルと考えるなら、この小説はハードボイルドであるかもしれません。しかし、それと同時に、この小説が意図して図式的な設定を取っていることも確かです。もちろん、その図式性の最たるものは、主人公の名前がなく、終始「ダン・オダムズを殺した男」としか呼ばれないことです。一方で、殺されたダン・オダムズは、ただの一度も登場しません。また、最後には追手に討ち取られる主人公の邂逅は、そのまま受け取れば、呆然とするような偶然の産物です。つまり、細部においてリアリスティックでありながら、その実、象徴的な理解を求めるプロットないしは状況設定なのです。私は中期以降のロス・マクドナルドを連想しましたが、短編である分、図式性がむき出しです。
 この主人公に必要な属性は「ダン・オダムズを殺した」という事実なのです。しかも、では、ダン・オダムズとはどういう人間かというと、そんなことは、どうでもいい(ダン・オダムズは登場しません)のです。人を殺した人間は名乗れない側に追いやられ、その命で贖うまで、逃亡を余儀なくされる。殺す人間と殺さない人間とは画然と区別される。あるいは、殺す(側にまわる)ことで、人間のなにかが変わる。この認識は、ハメットにとって大切なものだったかもしれません。ただし、ここには陥穽がひとつあります。「帰路」の探偵は、二年かけて追いついた相手をニューヨークに連れ戻そうとしますが、「ダン・オダムズを殺した男」を追う男たちは、そして、その手引きをする人たちは、「ダン・オダムズを殺した男」を殺すことで、殺す側にまわるのです。この小説は、幸いなことに、その点が目立たずにすんでいます。というのも、結末で明かされる、もうひとつの図式性が、小説をフィクショナルなものにすると同時に、その点を呑み込みやすい因果応報に落とし込んでいる(しかも、子どもはへとへとになって眠っているという、平和が保証されています)からです。ですが、このことは忘れずにおきましょう。

 こうして、初期のハメットのコンティネンタル・オプもの以外を読んでいくと、ふたつの特徴に気づきます。ひとつは捜査の物語がないということです。探偵はコンティネンタル・オプの専売特許であり、捜査の物語とはすなわちオプの物語でした。オプ以外の私立探偵が登場する、数少ない例外のひとつは、ブラック・マスク初登場の「帰路」ですが、それは捜査の部分を省略した物語でした。もうひとつは、圧倒的に三人称の小説が多いということです。一人称は「判事の論理」や「毛深い男」といったところですが、ともに傍観者的な立場の男の一人称で、語り手自身はあまり活躍しません。ただし「判事の論理」は三人称の小説になりうるかもしれませんが、「毛深い男」は、あまり能動的ではない男が、作中の人間関係のこの位置に必要なので、一人称であることは動かせないと思います。「毛深い男」は、エラリー・クイーンがEQMMで発掘した際に、読者への挑戦をつけた短編で、HMMに翻訳が掲載されたとき、訳者の小鷹信光がこの小説へのロス・マクドナルドの言及――これが、また、らしいと言えばらしいのですが――を引きつつ、クイーンの読みを批判する解説をつけた曰くつきの作品です。クイーンのやったことは、少々むちゃだと私も思いますが、クリスチャンやユダヤ人の感覚は、結局よく分からないのです。
 ハードボイルドは一人称による客観描写が基本という考えは、このころのハメットには、まだ、あてはめることが出来ません。「休日」のような端正な作品は、おのずと贅肉がとれていて、そっけなさすれすれの描写が積み重なっていくのですが、「悪夢の街」なんかは、まるっきり通俗ハードボイルドですからね。登場人物にしても、タフでハードな人物が必ず出てくるとはかぎらない。むしろ、私にはジグザグな試行錯誤のプロセスに見えます。「休日」が23年7月号掲載で、「悪夢の街」が24年も暮れに発表されているのです。コンティネンタル・オプものも手探りで進化していったことは、前回書きました。
 そして「忍び寄るシャム人」(「うろつくシャム人」)で、一時、ブラック・マスクと決別する直前に、ハメットは「殺人助手」で、三人称による私立探偵の捜査の物語を書きます。ここに登場するボルティモアの探偵アレグザンダー・ラッシュは、事務所を構えたコンティネンタル・オプとでもいうべき探偵です。今回彼を訪れた依頼人は、まず、名乗ろうとしません。そして、ある女性が尾行されているようだから、それを確かめ、本当なら理由をつきとめたいという、奇妙な仕事を持ち込みます。しかも、調べてみると、その女性には殺し屋が差し向けらている。
「ターク通りの家」以降のオプものも、プロットに複雑さが出てきていますが、この「殺人助手」はその上をいきます。「殺人助手」は、それなりに面白いハードボイルドミステリには仕上がっているものの、アレグザンダー・ラッシュをハメットが再登場させることはありませんでした。三人称で描く探偵の捜査の物語は、ひとまず棚上げにされ、ハメットが選んだのは、コンティネンタル・オプを描ききることでした。


■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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