「解ってるって」
息を深く吸い込んで、ちょっと止めてみた。一、二、三、四……二十数える位なら簡単に出来そうだ。もう一度空気を吸いなおし、思い切って目を開けたまま顔を浸けてみる。途端に視界がぼやけ、しかしその先で、水底に何かが光るようだった。
「ぷはっ」
すぐ顔を上げて息を吐く。そして、心配そうな主に目配せすると、二度三度、同じことを繰り返してみた。目に塩水が入るのは決して気持ち良くはなかったが、さればとて、心配していた程難しいこともなさそうだ。繰り返していくうちに余裕も出来、やがて一分位は水の底を眺めやることが出来るようになってきた。
「一度上がられたら如何ですか」
「うん、そうしようか」
主の提案で腕に力を入れる。足が宙ぶらりんであるにしては、体は意外にすんなり持ち上がった。柵を乗り越えて地下室に這い上がると、彼がタオルを渡してくれる。全くこの男は、何処からこんな物を出して来るのだろう。
「何か見えましたか?」
「いや、今のところ何も――。ただ、底の方が思ったより明るい気がする」
「光が届くんですかね」
「そうじゃない。何かが自分で光ってるんだ」
体の水分を拭き取ると、海の傍らに身を横たえる。主が上から覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、別に心配は――。ただ、水に入るってのは結構疲れるもんだな。次の時は腕を離してみるよ」
「そうですか」
横たわったまま全身の力を抜くと、冷たい空気に体温が奪われていくようだ。慌てて衣服を取り上げ、肩から下の上半身に掛ける。余り長くこうしていると、風邪を引きそうだ。
「おい、そういえば店は開けっ放しじゃないのか」
顔を上げて尋ねると、主は事もなげに答えた。
「何、平気ですよ。前にも鍵を掛けないで外に行っちまったことがあるけど、別に何もありませんでしたから」
「そうかい」
まあ、当人が言うのだから心配しても仕方あるまい。それから、しばらく深呼吸を繰り返しているうち、次第に体が楽になってきた。
「よしっ」
がばっと起き上がると、再び水に足を入れる。そしてさっきと同じように、縁につかまりながらそろそろと体を沈めていった。主が上から声を掛けてくる。
「ははあ、そういう風に体を真っ直ぐに伸ばせばいいんですね。そうすると浮くんですか。なるほど、そう難しいことでもなさそうだな」
「やってみるかい?」
「いえいえ、滅相もない。まあ、ここで拝見させていただくだけにしますよ」
「じゃ、ちょっと手を離してみるから、もしも危ないと思ったら、すぐに腕を伸ばしてくれ」
「そりゃあ、やれと言われればやりますがね。あんまり役には立たないと思いますよ」
「多分そんなに大変なことは起きないよ。今までここに入った奴らも、みんな無事だったんだろう?」
大きく息を吸い込んで、顔を浸ける。そっと手を離し、全身を伸ばしたまま徐々に力を抜いていくと、案の定、体は沈まないようであった。
「大丈夫だ」
ぷはっと息を吐いて、目配せする。それからしばらく手を離したり、或いは水の中で体を動かしたりという行為を繰り返した結果、どうやら水中を自由に動けるようになってきた。唇を舐めてみると、やはり生臭い塩の味がする。
「やりましたね」
水から上がると、主がタオルを渡してくれる。見ると、酒瓶はどれも皆空になっていた。横の床を、鼠がちょろちょろ走り廻っている。
「何だ、全部飲んじまったのか」
「あ、こりゃすみません。行って、取ってきましょう」
「いいよいいよ、さっきも言ったように、ここで飲むつもりはないんだ。でも、そう言われると咽が渇いてきたな。塩水のせいだろう。酒は店に戻ってからでいいから、今は水が欲しい」
「じゃあ、やっぱり上に行って来ます。なあに、すぐ帰って来ますから」
彼が階段を上って行くのを見送りながら、一人残されて考える。一体、人間の体は自然に水に浮くようである。練習の成果というより、元々その機能が備わっているようだ。何故なのだろう。 「お待たせしました」
主が瓶をぶら下げて戻って来た。さっきより大振りのが二本、うち一つが蓋を開けて渡される。 「どうぞ」
「有り難う」
「では、あたしはこちらを戴きます」
主が手酌でワインをやるのを見つつ、受け取ったミネラルウォーターの瓶に口を付ける。それはひんやり心地好く、塩の味をすっきり流してくれた。
「やっぱり、底に行くにつれて広くなってるみたいだ」
「じゃあ、次はいよいよ――」
「うん、出来るだけ深い所まで行ってみる」
瓶を片手に持ったまま柵を背にして凭れて座り、天井を見詰める。古びた蛍光灯の光が、ぼんやりと目に滲んだ。
――ここを最初に作ったのは、どんな奴らなんだろう。
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
この海が人工の産物とは思えない。どういう偶然か、地下深くにこれを発見し、それから……?
気がつくと、鼠が体に這い上がってちょろちょろと歩き廻っていた。肌に直接爪が当たり、くすぐったくてたまらない。と思った途端、それは肩まで登って来ると、あっと言う間もなく柵に駆け上がり、そのまま水に飛び込んだ。
「おい!」
「解ってます」
慌てて二人で駆け寄ると、驚いたことには、上手に四肢を動かして水面を進んでいる。そして、しばらく遊んでいたかと思うと、すうっと水に潜って行き、再び水面から顔を出してこちらを見詰めた。
「どうやら、鼠の方が手慣れてるみたいだな」
「そのようですね」
すいすいと柵に辿り着き、爪を立てて這い上がるのを見ながら、自分もあんな風に出来ればいいのに、と思う。その間にも、鼠はさっさと床に飛び降り、全身を震わせて毛に付いた水を振り飛ばしていた。
「よし、行ってみるか」
「くどいようですけど、無茶はしないで下さいよ」
「大丈夫。何かあっても、鼠が助けてくれるさ。さて、行くぞ」
この頃には大分慣れてきて、ただ水に入るだけなら造作もなかった。手を離しても、少しの動作で浮いていられる。すぐに、今度は潜ることの方が難しいと気がついたが、それも手足の動かし方でどうにかなりそうだ。
「行ってくる」
「お気をつけて」
深く息を吸い込んでから、手を振る主を後に、静かに水に潜って行く。目を開けると、確かに海は円錐形に広がっており、緑の視界の底には、何処まで続くとも知れない深淵が掘り抜かれていた。足の動きにつれて体はどんどん沈んで行き、いつしか周りは、壁すら見えぬくらいに広い緑色の空間に取り囲まれている。
だが、ここまで来ても、視界はさほど暗くはならなかった。あの、底から来る光の為である。目の前に手を持ってくると、指紋すらはっきり判るようだ。
見上げると、遥か頭上に四角い光の窓が切り抜かれている。あの柵の縁である。もはや体を浮かすのも楽に出来るようになっており、少なくとも帰れなくなることだけはなさそうだ。
力を得て、尚も深みに向かって降りて行く。光を放つ水底を見る限り、確かにこの海は、限界のない底無しの深淵などではないようだ。だが、とにかく急がなくてはならない。息が持たなくなったらそれまでだ。
しかし幾ら潜っても、光の源にはなかなか辿り着かなかった。緑色の空間が広くなるばかりで、まるで底が見えてこない。そもそも真っ直ぐ降りているのだろうか。
再び上を見ると、さっきの光の窓は、星のように小さな点になっていた。まあ、あれが見える限りは大丈夫だろう。いずれにせよ、この海が円錐形を成しているならば、とにかく上に昇って行けば自然に帰れる筈である。
それにしても、どうしてこんなに深く潜ることが出来たのか。もう随分来たと思うのに、少しも苦しくなってこない。上で練習した時に比べて、また、莫迦に息が続くようだ。
そう思った時――。
――おや、お前も来ていたのか。
気がつくと、すぐ横で先程の鼠が水を掻いていた。そいつもまた、この何処まで続くとも知れぬ深みに挑戦しているようで、まるで競争するかのように手足をちょこちょこ動かしている。
――よしっ。
負けじとばかりに筋肉に力を入れる。この深さまで来ると、もはや周りの壁が何処まで退いたのかも完全に判らなくなり、深くなる緑色だけが、未だこの海が円錐形に広がり続けているらしきことを物語っていた。鼠は――。
そう、鼠だけが、この緑色の視界の中で、唯一周囲の色を押し退けている。その体の白さのお陰で、周りを包む緑色が、実は光の加減によるものであると、初めて判った。彼方に見える深淵の明かりは次第に強さを増していき、明らかにこの海の底面が、前後左右、果てしのない距離に向かってずっと拡がっていることが見て取れる。そして深みに向かうにつれ、どうやら鼠の体までもがぼうっと光り始めたようである。
やがて――。
光の底はようやく手の届く距離にまで近づき、鼠とともに、舞い上がる砂地に足をつけられる所まで辿り着く。この柔らかい平面が海の底だ。もう上からの光は少しも届かず、代りに一面の砂と鼠の体が光源となり、地平線――いや、このような水の底でも地平線と呼ぶのだろうか――の彼方まで続く淡い光だけが、この海の底の広さを物語っていた。
――お前もよく来たな。
鼠を見下ろして、心の中で話し掛ける。すると、それはまるで、今回が初めてではないとでも言いたげに、こちらを見上げてきた。
なるほど、そういうこともあるかも知れない。あの地下室に、二年以上も閉じ込められてきたのだ。海に飛び込んだこと、そこで自分の力を試したこと、光の床まで到達したこと、この鼠なら全て経験済みでもおかしくはなかろう。
底にしゃがんで手を伸ばすと、砂は光を撒き散らしながら、靄の如く水中を舞い上がる。その様子は、大地に一面にとまった蛍が、安息を掻き乱されてうるさげに飛び立つようでもあった。手に取っても少しも留まらず、水が微かに動いただけで舞い上がり、一粒も残らず逃げていく。
――持って帰るのは無理みたいだな。
幾度かの試みののち、袋を持参しなかったことを後悔する。素裸では何処にも砂を入れる所とてなく、手で握ったまま持っていっても、途中でこぼれてしまうだろう。あきらめて足を踏み出すと、何かが爪先にぶつかった。
――?
砂の中に埋まった、滑らかな丸い筒のような物体。透明な表面を透かして、水と光の砂が詰まっていることが判る。屈んで掘り出してみると、それはさっきまで飲んでいたのと同じ、古い葡萄酒の瓶であった。
――あそこから落としたのだな。
考えてみれば、地下室から物置まで、わざわざ瓶を持ち帰る必要もない訳だ。海を見た者が、これが全てを飲み込んでくれると考えるのも無理はない。
そう思って辺りを見廻すと、酒瓶は今見つけた物だけではなく、あちらに一つ、こちらに一つと、かなりの数が光る砂床に顔を出していた。主が過去に案内したという二人の客、それ以前にこの海を訪れた者達――途中の物置に気づいたのも、一人や二人ではなかった筈だ。
だからといって、そのどれかに砂を詰めて行くのも難しそうであった。手に持ったまま水を掻くのは困難だし、重過ぎて途中で落としてしまうだろう。ここは素直にあきらめるしかない。
そのまま、頭上に目を向ける。まさか、今この瞬間に瓶が投げ込まれもすまいが、もしそんなことがあれば、それはどんな風に見えるのだろうか。気がつけば、先程より次第に息が苦しくなってきている。
――行こう。
傍らの鼠に心の中で話し掛けると、それは、解ったというように砂を蹴り、手慣れた四肢の動きで、つい、つい、と水中を昇って行き始めた。その姿を追って手を伸ばすと、予想通り体は楽に浮かび上がる。あとは手足を少し動かすだけで、すぐに上まで出られるだろう。
やがて、光る底面は遥か下方に沈んでいき、いつか、あの四角い窓が前方に見え始めた。
■ 平田真夫(ひらた・まさお)
1958年1月6日、東京都生まれ。83年、東京工業大学大学院理工学研究科化学専攻修士修了。在学中は東京工業大学SF研究会に所属。84年、日本SF大会EZOCON2主催の小説賞「エゾコンSFコンテスト」に「マイ・レディ・グリーン・スリーヴス」が入選し〈SFマガジン〉に掲載されデビュー。86年、小学館発行のパソコン雑誌〈ポプコム〉にアドベンチャーゲームを連載。87年には、森山安雄名義でゲームブック『展覧会の絵』(創元推理文庫)を発表。同書は当時刊行されていた社会思想社発行のゲームブック専門誌〈ウォーロック〉誌上で毎月開催されていた「読者による人気投票」の第1位を長らく獲得しつづけた。2011年3月発売の『水の中、光の底』は、文芸書での初めての書籍となる。
・ホームページ「平田工房」URL http://www.hirata-koubou.com
SF|東京創元社
息を深く吸い込んで、ちょっと止めてみた。一、二、三、四……二十数える位なら簡単に出来そうだ。もう一度空気を吸いなおし、思い切って目を開けたまま顔を浸けてみる。途端に視界がぼやけ、しかしその先で、水底に何かが光るようだった。
「ぷはっ」
すぐ顔を上げて息を吐く。そして、心配そうな主に目配せすると、二度三度、同じことを繰り返してみた。目に塩水が入るのは決して気持ち良くはなかったが、さればとて、心配していた程難しいこともなさそうだ。繰り返していくうちに余裕も出来、やがて一分位は水の底を眺めやることが出来るようになってきた。
「一度上がられたら如何ですか」
「うん、そうしようか」
主の提案で腕に力を入れる。足が宙ぶらりんであるにしては、体は意外にすんなり持ち上がった。柵を乗り越えて地下室に這い上がると、彼がタオルを渡してくれる。全くこの男は、何処からこんな物を出して来るのだろう。
「何か見えましたか?」
「いや、今のところ何も――。ただ、底の方が思ったより明るい気がする」
「光が届くんですかね」
「そうじゃない。何かが自分で光ってるんだ」
体の水分を拭き取ると、海の傍らに身を横たえる。主が上から覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、別に心配は――。ただ、水に入るってのは結構疲れるもんだな。次の時は腕を離してみるよ」
「そうですか」
横たわったまま全身の力を抜くと、冷たい空気に体温が奪われていくようだ。慌てて衣服を取り上げ、肩から下の上半身に掛ける。余り長くこうしていると、風邪を引きそうだ。
「おい、そういえば店は開けっ放しじゃないのか」
顔を上げて尋ねると、主は事もなげに答えた。
「何、平気ですよ。前にも鍵を掛けないで外に行っちまったことがあるけど、別に何もありませんでしたから」
「そうかい」
まあ、当人が言うのだから心配しても仕方あるまい。それから、しばらく深呼吸を繰り返しているうち、次第に体が楽になってきた。
「よしっ」
がばっと起き上がると、再び水に足を入れる。そしてさっきと同じように、縁につかまりながらそろそろと体を沈めていった。主が上から声を掛けてくる。
「ははあ、そういう風に体を真っ直ぐに伸ばせばいいんですね。そうすると浮くんですか。なるほど、そう難しいことでもなさそうだな」
「やってみるかい?」
「いえいえ、滅相もない。まあ、ここで拝見させていただくだけにしますよ」
「じゃ、ちょっと手を離してみるから、もしも危ないと思ったら、すぐに腕を伸ばしてくれ」
「そりゃあ、やれと言われればやりますがね。あんまり役には立たないと思いますよ」
「多分そんなに大変なことは起きないよ。今までここに入った奴らも、みんな無事だったんだろう?」
大きく息を吸い込んで、顔を浸ける。そっと手を離し、全身を伸ばしたまま徐々に力を抜いていくと、案の定、体は沈まないようであった。
「大丈夫だ」
ぷはっと息を吐いて、目配せする。それからしばらく手を離したり、或いは水の中で体を動かしたりという行為を繰り返した結果、どうやら水中を自由に動けるようになってきた。唇を舐めてみると、やはり生臭い塩の味がする。
「やりましたね」
水から上がると、主がタオルを渡してくれる。見ると、酒瓶はどれも皆空になっていた。横の床を、鼠がちょろちょろ走り廻っている。
「何だ、全部飲んじまったのか」
「あ、こりゃすみません。行って、取ってきましょう」
「いいよいいよ、さっきも言ったように、ここで飲むつもりはないんだ。でも、そう言われると咽が渇いてきたな。塩水のせいだろう。酒は店に戻ってからでいいから、今は水が欲しい」
「じゃあ、やっぱり上に行って来ます。なあに、すぐ帰って来ますから」
彼が階段を上って行くのを見送りながら、一人残されて考える。一体、人間の体は自然に水に浮くようである。練習の成果というより、元々その機能が備わっているようだ。何故なのだろう。 「お待たせしました」
主が瓶をぶら下げて戻って来た。さっきより大振りのが二本、うち一つが蓋を開けて渡される。 「どうぞ」
「有り難う」
「では、あたしはこちらを戴きます」
主が手酌でワインをやるのを見つつ、受け取ったミネラルウォーターの瓶に口を付ける。それはひんやり心地好く、塩の味をすっきり流してくれた。
「やっぱり、底に行くにつれて広くなってるみたいだ」
「じゃあ、次はいよいよ――」
「うん、出来るだけ深い所まで行ってみる」
瓶を片手に持ったまま柵を背にして凭れて座り、天井を見詰める。古びた蛍光灯の光が、ぼんやりと目に滲んだ。
――ここを最初に作ったのは、どんな奴らなんだろう。
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
この海が人工の産物とは思えない。どういう偶然か、地下深くにこれを発見し、それから……?
気がつくと、鼠が体に這い上がってちょろちょろと歩き廻っていた。肌に直接爪が当たり、くすぐったくてたまらない。と思った途端、それは肩まで登って来ると、あっと言う間もなく柵に駆け上がり、そのまま水に飛び込んだ。
「おい!」
「解ってます」
慌てて二人で駆け寄ると、驚いたことには、上手に四肢を動かして水面を進んでいる。そして、しばらく遊んでいたかと思うと、すうっと水に潜って行き、再び水面から顔を出してこちらを見詰めた。
「どうやら、鼠の方が手慣れてるみたいだな」
「そのようですね」
すいすいと柵に辿り着き、爪を立てて這い上がるのを見ながら、自分もあんな風に出来ればいいのに、と思う。その間にも、鼠はさっさと床に飛び降り、全身を震わせて毛に付いた水を振り飛ばしていた。
「よし、行ってみるか」
「くどいようですけど、無茶はしないで下さいよ」
「大丈夫。何かあっても、鼠が助けてくれるさ。さて、行くぞ」
この頃には大分慣れてきて、ただ水に入るだけなら造作もなかった。手を離しても、少しの動作で浮いていられる。すぐに、今度は潜ることの方が難しいと気がついたが、それも手足の動かし方でどうにかなりそうだ。
「行ってくる」
「お気をつけて」
深く息を吸い込んでから、手を振る主を後に、静かに水に潜って行く。目を開けると、確かに海は円錐形に広がっており、緑の視界の底には、何処まで続くとも知れない深淵が掘り抜かれていた。足の動きにつれて体はどんどん沈んで行き、いつしか周りは、壁すら見えぬくらいに広い緑色の空間に取り囲まれている。
だが、ここまで来ても、視界はさほど暗くはならなかった。あの、底から来る光の為である。目の前に手を持ってくると、指紋すらはっきり判るようだ。
見上げると、遥か頭上に四角い光の窓が切り抜かれている。あの柵の縁である。もはや体を浮かすのも楽に出来るようになっており、少なくとも帰れなくなることだけはなさそうだ。
力を得て、尚も深みに向かって降りて行く。光を放つ水底を見る限り、確かにこの海は、限界のない底無しの深淵などではないようだ。だが、とにかく急がなくてはならない。息が持たなくなったらそれまでだ。
しかし幾ら潜っても、光の源にはなかなか辿り着かなかった。緑色の空間が広くなるばかりで、まるで底が見えてこない。そもそも真っ直ぐ降りているのだろうか。
再び上を見ると、さっきの光の窓は、星のように小さな点になっていた。まあ、あれが見える限りは大丈夫だろう。いずれにせよ、この海が円錐形を成しているならば、とにかく上に昇って行けば自然に帰れる筈である。
それにしても、どうしてこんなに深く潜ることが出来たのか。もう随分来たと思うのに、少しも苦しくなってこない。上で練習した時に比べて、また、莫迦に息が続くようだ。
そう思った時――。
――おや、お前も来ていたのか。
気がつくと、すぐ横で先程の鼠が水を掻いていた。そいつもまた、この何処まで続くとも知れぬ深みに挑戦しているようで、まるで競争するかのように手足をちょこちょこ動かしている。
――よしっ。
負けじとばかりに筋肉に力を入れる。この深さまで来ると、もはや周りの壁が何処まで退いたのかも完全に判らなくなり、深くなる緑色だけが、未だこの海が円錐形に広がり続けているらしきことを物語っていた。鼠は――。
そう、鼠だけが、この緑色の視界の中で、唯一周囲の色を押し退けている。その体の白さのお陰で、周りを包む緑色が、実は光の加減によるものであると、初めて判った。彼方に見える深淵の明かりは次第に強さを増していき、明らかにこの海の底面が、前後左右、果てしのない距離に向かってずっと拡がっていることが見て取れる。そして深みに向かうにつれ、どうやら鼠の体までもがぼうっと光り始めたようである。
やがて――。
光の底はようやく手の届く距離にまで近づき、鼠とともに、舞い上がる砂地に足をつけられる所まで辿り着く。この柔らかい平面が海の底だ。もう上からの光は少しも届かず、代りに一面の砂と鼠の体が光源となり、地平線――いや、このような水の底でも地平線と呼ぶのだろうか――の彼方まで続く淡い光だけが、この海の底の広さを物語っていた。
――お前もよく来たな。
鼠を見下ろして、心の中で話し掛ける。すると、それはまるで、今回が初めてではないとでも言いたげに、こちらを見上げてきた。
なるほど、そういうこともあるかも知れない。あの地下室に、二年以上も閉じ込められてきたのだ。海に飛び込んだこと、そこで自分の力を試したこと、光の床まで到達したこと、この鼠なら全て経験済みでもおかしくはなかろう。
底にしゃがんで手を伸ばすと、砂は光を撒き散らしながら、靄の如く水中を舞い上がる。その様子は、大地に一面にとまった蛍が、安息を掻き乱されてうるさげに飛び立つようでもあった。手に取っても少しも留まらず、水が微かに動いただけで舞い上がり、一粒も残らず逃げていく。
――持って帰るのは無理みたいだな。
幾度かの試みののち、袋を持参しなかったことを後悔する。素裸では何処にも砂を入れる所とてなく、手で握ったまま持っていっても、途中でこぼれてしまうだろう。あきらめて足を踏み出すと、何かが爪先にぶつかった。
――?
砂の中に埋まった、滑らかな丸い筒のような物体。透明な表面を透かして、水と光の砂が詰まっていることが判る。屈んで掘り出してみると、それはさっきまで飲んでいたのと同じ、古い葡萄酒の瓶であった。
――あそこから落としたのだな。
考えてみれば、地下室から物置まで、わざわざ瓶を持ち帰る必要もない訳だ。海を見た者が、これが全てを飲み込んでくれると考えるのも無理はない。
そう思って辺りを見廻すと、酒瓶は今見つけた物だけではなく、あちらに一つ、こちらに一つと、かなりの数が光る砂床に顔を出していた。主が過去に案内したという二人の客、それ以前にこの海を訪れた者達――途中の物置に気づいたのも、一人や二人ではなかった筈だ。
だからといって、そのどれかに砂を詰めて行くのも難しそうであった。手に持ったまま水を掻くのは困難だし、重過ぎて途中で落としてしまうだろう。ここは素直にあきらめるしかない。
そのまま、頭上に目を向ける。まさか、今この瞬間に瓶が投げ込まれもすまいが、もしそんなことがあれば、それはどんな風に見えるのだろうか。気がつけば、先程より次第に息が苦しくなってきている。
――行こう。
傍らの鼠に心の中で話し掛けると、それは、解ったというように砂を蹴り、手慣れた四肢の動きで、つい、つい、と水中を昇って行き始めた。その姿を追って手を伸ばすと、予想通り体は楽に浮かび上がる。あとは手足を少し動かすだけで、すぐに上まで出られるだろう。
やがて、光る底面は遥か下方に沈んでいき、いつか、あの四角い窓が前方に見え始めた。
■ 平田真夫(ひらた・まさお)
1958年1月6日、東京都生まれ。83年、東京工業大学大学院理工学研究科化学専攻修士修了。在学中は東京工業大学SF研究会に所属。84年、日本SF大会EZOCON2主催の小説賞「エゾコンSFコンテスト」に「マイ・レディ・グリーン・スリーヴス」が入選し〈SFマガジン〉に掲載されデビュー。86年、小学館発行のパソコン雑誌〈ポプコム〉にアドベンチャーゲームを連載。87年には、森山安雄名義でゲームブック『展覧会の絵』(創元推理文庫)を発表。同書は当時刊行されていた社会思想社発行のゲームブック専門誌〈ウォーロック〉誌上で毎月開催されていた「読者による人気投票」の第1位を長らく獲得しつづけた。2011年3月発売の『水の中、光の底』は、文芸書での初めての書籍となる。
・ホームページ「平田工房」URL http://www.hirata-koubou.com
(2010年2月5日)
SF|東京創元社