2011年3月発売、新人作家・平田真夫の『水の中、光の底』《梶尾真治氏推薦》。ほんの少しずつ重なり合った10の短編世界。そのなかで“酒場の主人”だけが同じ人物で共通しているという趣向の連作集です。新しくて懐かしいSF幻想。〈Webミステリーズ!〉では、発売に先がけて収録作の1編「潮騒――矩形の海」を特別公開いたします。
「ここには海があるそうだな」
カウンター越しに言うと、主(あるじ)は、おや、という顔をして、瓶を持つ手を止めた。
「ご存じなんですか?」
「誰でも知ってるさ。わざわざ訊く奴が少ないだけだ」
「そうですかね」
蓋を開け、冷たくしたグラスに注いでくれる。
「ご覧になりたいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、後程ご案内しましょう。まずは、これをどうぞ」
グラスが置かれる。狭い店内には他に客もいない為、カウンター周り以外の灯りは程々に落としてあった。薄暗い照明の下で、主の禿頭と眼鏡だけが光っている。彼の動きに連れて、大きな影が移動して行った。
「どうしてそんな物があるんだ?」
グラスに口を付けながら尋ねてみる。味は水晶のように透明で、酔いだけが廻っていくようだ。始めはただの水ではないかと思ったくらいだが、飲み進むにつれて、たまにはこういう酒も悪くないと感じ始めた。
「さあ――あたしはよく知りません。先代から受け継いだだけなものでして。ここが建った時からあるそうですが――余り興味はありませんから」
「でも、時々は降りて行くんだろ。中を見た奴も、何人かいるそうだぜ」
「そりゃまあ。でも、あたしはやったことはありませんよ。あ、もしかしてお客さんも?」
「そうだ。潜ってみたい」
「ふうん、そうですか」
折しも窓の外では、地平線から月が昇ろうとしていた。地平線とは言っても、単に家並が続いているだけだ。屋根屋根の上に差し懸かった月は、空にある時に比べて妙に大きく見える。何かの本に、地上に近い月が大きいのは、そばに比べる物がある故の錯覚だと書いてあったが――。
ぐっと飲み干して、グラスを置く。勘定をしようとすると、主は痩せた手を上げて押し留めた。
「後で結構です。まずは地下にご案内しましょう」
言われてみれば、戻ってから飲み直すこともありそうだ。支払いはそれからの方がよかろう。立ち上がると、心なしか冷たい風が吹いているような気がする。
「さ、こちらです」
カウンターの左には古びた木の扉があり、主が先に立ってそれを開ける。中から冷えた空気が流れ出し、今の風が気のせいではないと判った。建付けの悪くなった隙間から吹き込んでいたのだ。それは冷たいだけでなく、水を含んでじっとりしていた。中は明かりも届かず、真っ暗だ。
「滑りやすいから、足元に気をつけて下さい。電灯はあるんですが、しばらく使ってないから点くかどうか――いや、大丈夫みたいだ」
主が手を伸ばして内側の壁を探ると、カチリと音がして裸電球の黄色い光が点された。彼の肩越しに覗くと、電灯に積もっていた埃のせいだろう、微かに焦げくさい空気が漂ってくる。先程の水を含んだ風と混じって、妙に黴臭い。左右の壁は漆喰も剥げ、もう何年何ヶ月も人の手が入っていないことが見て取れた。
「済みませんねえ、掃除が行き届かなくて。普段あんまり降りないもんだから、放っぽらかしなんですよ」
言いながら、先に立って主が入る。そこは小さな踊り場で、人一人がやっと通れそうな狭い階段へと続いていた。溜まった塵に、細い靴跡が点々と付いていく。
「さあ、行きましょうか。結構降りますよ」
後に着いて行くと、石で出来た階段は十段も行けばすぐ向きを換え、狭い踊り場を繰り返しながら螺旋状に下っていた。限りのある面積を利用しているのだから仕方なかろうが、それにしても狭い。ちょっとでも足を滑らせたら、あちこちにぶつかりながら落ちて行くことになりそうだ。そうして、下に着く頃には、体中の骨がばらばらになっているのに違いない。
主は先を歩きながら、時々壁のスイッチを押していく。そうすると、今通り過ぎたばかりの階の灯りが消え、同時に前方の電球が点るのだ。電力を無駄にしない為の配慮なのだろうが、これでは自分達がいる所以外は真っ暗である。誰かが上から覗いても、人がいるとは判るまい。つまりは、何かうまくない事態が起きても助けは期待出来ない訳であり、そう考えると不安になってくる。
「どれだけ深いんだ?」
つい大きな声を出してしまい、反響にぎょっとする。上にも下にも木霊が走り、無数の自分がいるようだ。思わず声の調子が下がり、今度は囁くように後を続けた。
「随分降りたと思うんだが……」
すると、足元が危ない為だろう、主は振り向きもせずに答えた。
「申し訳ありませんが、まだ半分も来ちゃいません。さっきも言ったけど、相当あるんですよ。正確にはどの位だったかなあ。あたしも二年ばかり行ってないもんでして。何しろ暗いし、一人で行くにはちょっと――。答になってなくて済みませんが――」
「いや、いいんだ。元々俺が来たいと言い出したんだし」
さもありなんというところか。誰でも、ここから先はお前だけで行けと言われたら、考えてしまうだろう。
「で、前に潜った奴はどの位いるんだ?」
「さあてねえ。あたし自身は二人ばかりご案内しましたが、先代や先々代、それより昔なんかはどうなっていたのか」
「変なことは起きなかったのかな」
「そりゃ、別にご心配には及びません。あたしがご案内したお二人もですし、先代からも妙な話は聞いちゃいません。皆さん、ぴんぴんして上がってらっしゃいますよ。でなきゃ、とっくに封鎖してます」
これで少し安心した。確かに、こんなことで他人を嵌めても何の価値もない。
「で、みんな上がってきた後に何と言ってる?」
「特に何も。別に言う程のこともないんじゃないですか。あたしも尋ねないし」
「ふうん」
気がつくと、途中の踊り場の横にさっきと同じような木の扉があった。立ち止まって手を掛けると、気配に感づいた主が振り返る。
「どうかしましたか」
「この中には何があるんだ?」
「見てもいいけど、面白くはありませんよ。ご自分で開けて下さい。鍵は掛かってませんから」
確かに扉は苦もなく開いた。当然ながら中は真っ暗だ。扉の横にスイッチがあるので点けてみると、がらんとした部屋に、店で使うグラスや古い酒瓶が転がっているだけで、要はただの物置らしい。いつの間に忍び寄ったのか、すぐ後ろから主の声がした。
「あれらの酒も、店で出せるといいんですがねえ。調べてみると、結構年代物のいい奴が見つかるんです。先代もたまにしか降りて来なかったそうだし、そのまま放っておいたんでしょうな。何しろ、一人でまとめて運ぶにゃ重過ぎて、こんな下からじゃとても無理な訳でして。途中でひっくり返しでもしたら、元も子もありません。それで、こんな風にお客さんの案内で降りて来た時に、ちょこっと持って帰るくらいなんですよ。せいぜいがとこ、一本か二本ですけどね」
「何だってまた、こんな不便な所まで持って来たんだろう」
「さあ。泥棒が怖かったにしても、ちょっとやり過ぎですよね。そもそも、こんな下に酒蔵を作ってどうしようってんだか。だけど、店が出来た時のことなんざ、話が古過ぎて判りません」
「一本貰えないかな。代金は、後でつけてくれればいいだろ? ――いや、待ってくれ。年代物だとすると、高いのか」
「そうですねえ、ものによると値が張るのもあるんですが、どっちにせよ、お客さんが来たいとおっしゃらなければ放りっぱなしになってた訳だし――。ちょっと待ってて下さい」
主は先に立って入口をくぐると、無造作に転がしてある瓶の中から一本を拾い上げた。
「この辺りなんかは、そんなでもない筈なんですけどね。……ああ、やっぱりこりゃ、わざわざ店に持ってってもしょうがない酒だな。――いいでしょう、代金はいりません。その代り、あたしもお相伴に与ります。何だったら、ご一緒に二、三本持ってきませんか」
よっしゃとばかりに、二人で適当な瓶を漁ることにする。そして、余り大きくないのを二本ずつ取り上げ、それぞれ両手にぶら下げた。
「グラスも持って行きましょう。でないと、喇叭飲みになっちまう」
瓶をそばにおいて、足のないグラスを二つ、ポケットにねじ込む。
「行きましょうか」
再び階段を降り始める。二人とも何も言わず、足音だけが上下に向かって響いていた。
やがて主が、沈黙を破った。
「ああ思い出したぞ。ここで壁の色が変わるんだ。なら、もうすぐの筈です。――ほら、見えるでしょう」
主の頭越しに見ると、ようやく辿り着いた地下室の入口には扉も無く、向こうから何か生臭い匂いがした。踊り場の明かりが差し込んで、板張りの柵のような物が見える。
「ええと、スイッチは何処だったかな。ああ、ここだここだ」
主が入って壁を探ると、すぐに灯りが点された。一瞬、目が眩む。ここは階段と違って蛍光灯だ。青いような光に照らされて、先程の木の柵が十メートル四方の正方形であると判る。中には縁すれすれにまで、重たく淀んだ水が張ってあった。
「海です。結構大きな物でしょう。深さもかなりあるんですよ。それに、どうやら底に行く程広がってるみたいなんです」
見廻すと、地下室はほとんど海で一杯である。床と呼べる部分は柵の手前数メートルしかなく、残りの三方は直接漆喰の壁に接している。壁はもはや灰色に薄汚れ、あちこちに大小のひびが走っていた。見ると、正面の壁に大きな振子時計が掛けられ、コチコチと音を起てている。二年前に来たのが最後だとすれば、その間止まらずにいたのだろうか。
と、主が声を上げて、入口のそばにしゃがみ込んだ。
「お前、まだ生きてたのか」
床に置いてあった鉄の籠を取り上げて、ロイド眼鏡の奥から覗き込んでいる。からからと何かが回転する音、真っ白な二十日鼠が一匹、取り付けてある運動用の輪の中を走っているのだ。
「一体、何を食べてたんだろう。ずっと放っぽらかしだったのに。――あ、なんだ。壊れて穴が開いてるんだ。それで何処ぞに餌探しに行けたんだな」
主は籠を置いて腰を伸ばした。
「いやなにね、二年前に来た時、どうしても餌を食べずに息も絶え絶えだったんで、どうせ死ぬんだろうって放っぽっといたんですよ。まさか、自分で元気になるとはなあ」
一人でしきりに感心している。鼠はそんなことは意にも介さず、相変わらずからからと車を廻し続けていた。
「さて、それよりもこっちですね。潜るとおっしゃってましたが、ほんとに大丈夫なんですか」
「ああ、迷惑を掛けるようなことはないつもりだ」
「そうですか。まあ、あたしなんざ、とても実行しようという気にはなりませんけど。でも、無理はしないで下さいよ」
「解ってるって」
心配そうな主に答を返してから、柵に手を掛けて中を覗き込む。視界は一面の緑色、水は深々と光を飲み込み、下に何があるのかは全く判らない。ただ、少なくとも水質は透明で、ある程度は蛍光灯の光も届いているようだ。何も反射する物がないから、先が見えないのだろう。生臭い匂いは明らかにこの水から立ち上っており、しかしそれは決して不快なものではなかった。指を浸けて味を確かめてみると、噂通り、人の体液のように塩辛い。
「さあて、まずは慌てないで、さっきの奴を開けましょうよ」
言われて、持ってきた瓶のことを思い出す。いつの間に取り出したのか、主は布巾のような物でグラスを磨いており、やがて真っ赤な液体が注がれた。
「ふむ、悪くなってはいないな」
鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、くい、とグラスを傾ける。そして満足そうな表情で、海の方を眺めやった。
「こんなことなら、チーズの一つも持って来りゃ良かったですね。鼠にもやれたし」
「いいさ、何も飲みに来た訳じゃない」
これからしようとしていることを思うと、そんなに酔ってしまう訳にもいかなかった。店で飲んだ分は階段を降りるうちにすっかり醒めていたが、ここは控え目にしておこう。
持って来た瓶が小さかったので、互いのグラスに縁まで入れると、もう空になる。一杯目を空けると、すぐに主が次の瓶の封を切った。これでは、ついつい過ごしてしまいそうだ。だが、上で飲んだ酒とは逆に、濃厚な味の割には余り酔いが来なかった。これなら、そう心配することもあるまい。
ちびちびと二杯目を舐めながら尋ねてみる。
「前に潜ったとかいう連中は、何を見ようとしたのかな」
「さあねえ。想像もつかないなあ。何度も言うけど、自分じゃあ、入ってみようなんて考えはおきませんから。お客さんだって、どういうおつもりなんですか?」
「単なる好奇心だよ。ここにこれがあるって聞いてから、一度は来ようと思ってた。底が見えない程の深い水――その先に何があるのか、誰も教えてくれない」
「解りませんねえ。こう言っちゃなんだけど――いや、怒っちゃいけませんよ。飲んだ上でのことだって許して下さい。ただ、こんなつまらない水溜りの何処が面白いのか、訳が解らないものでして」
「いいさ。だいたい、これに興味がないから、先代に選ばれたんだろう?」
「まあ、そうですね。自分で興味津々の奴に継がせると、そのうち地下室に入ったまま出て来なくなりゃしないか心配だ、って言われましたよ」
しばらくは黙ったまま海を見続ける。こんなに大規模に塩水が集まっているのは、他では見られない光景だ。
「もう一本開けましょうよ。持って帰るのも面倒だし」
「いや、この辺で止めておくよ。酔っちまうとまずいだろ。あとは、一人でやってくれ。元々、あんたの店の酒だし」
「そうですか。じゃ、お言葉に甘えて」
主は新しい栓を抜き、自分のグラスに注ぐ。先程の鼠が籠から這い出して、彼が転がした空瓶の口を舐め始めた。
「さて、そろそろ取り掛かるとするか」
「そうですか。で、どういう風にするんで?」
「はあてねえ。とにかく入って、適当に体を動かせば様子が分かると思うんだ。出来れば腰に縄でも付けて行きたいとこだが、そんな物は無いようだな。まあ、危ないと思ったらすぐに中止するよ」
立ち上がって服を脱ぐ。主の前で自分だけ裸になるのは気恥ずかしかったが、彼は余りじろじろ見るようなことはしなかった。
とりあえず柵を跨ぐと、爪先を水に浸して腰掛けてみる。中は生暖かく、力を抜くとふわりと足が浮くようだ。前を眺めやると、向かいの壁が莫迦に遠く見えた。水に入るという行為そのものは解っているつもりだが、あちらに辿り着くのは結構大変そうだ。してみると、あの時計はどうやって取り付けられたのだろう。
だが、いつまでこうしていても仕方がない。そのまま向きを変えると、手を柵に掛けてそろそろと体を沈めてみる。足を前に伸ばして、触れるものはないかと探ってみたが、それは何処にも届かなかった。木の柵は水面のすぐ下で切れており、下には内壁も何もない。
しかしどうやら有り難いことに、塩水の中では全身が軽くなるようである。手の力を抜いていっても、直ちに沈むことはない。足を後ろに伸ばして少し動かすと、すぐに体が浮かんで水平になった。問題は、いずれ柵から手を離さねばならないことにある。
「どうですか」
主が上から覗いて尋ねた。柵に掴まったまま、足を静かに動かしながら、それに答える。
「何とか行けそうだ。ちょっと顔を浸けてみるよ」
「注意して下さいよ。いきなり手を離さないように。何かあっても、あたしじゃ何も出来ませんから」
■ 平田真夫(ひらた・まさお)
1958年1月6日、東京都生まれ。83年、東京工業大学大学院理工学研究科化学専攻修士修了。在学中は東京工業大学SF研究会に所属。84年、日本SF大会EZOCON2主催の小説賞「エゾコンSFコンテスト」に「マイ・レディ・グリーン・スリーヴス」が入選し〈SFマガジン〉に掲載されデビュー。86年、小学館発行のパソコン雑誌〈ポプコム〉にアドベンチャーゲームを連載。87年には、森山安雄名義でゲームブック『展覧会の絵』(創元推理文庫)を発表。同書は当時刊行されていた社会思想社発行のゲームブック専門誌〈ウォーロック〉誌上で毎月開催されていた「読者による人気投票」の第1位を長らく獲得しつづけた。2011年3月発売の『水の中、光の底』は、文芸書での初めての書籍となる。
・ホームページ「平田工房」URL http://www.hirata-koubou.com
SF|東京創元社

「ここには海があるそうだな」
カウンター越しに言うと、主(あるじ)は、おや、という顔をして、瓶を持つ手を止めた。
「ご存じなんですか?」
「誰でも知ってるさ。わざわざ訊く奴が少ないだけだ」
「そうですかね」
蓋を開け、冷たくしたグラスに注いでくれる。
「ご覧になりたいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、後程ご案内しましょう。まずは、これをどうぞ」
グラスが置かれる。狭い店内には他に客もいない為、カウンター周り以外の灯りは程々に落としてあった。薄暗い照明の下で、主の禿頭と眼鏡だけが光っている。彼の動きに連れて、大きな影が移動して行った。
「どうしてそんな物があるんだ?」
グラスに口を付けながら尋ねてみる。味は水晶のように透明で、酔いだけが廻っていくようだ。始めはただの水ではないかと思ったくらいだが、飲み進むにつれて、たまにはこういう酒も悪くないと感じ始めた。
「さあ――あたしはよく知りません。先代から受け継いだだけなものでして。ここが建った時からあるそうですが――余り興味はありませんから」
「でも、時々は降りて行くんだろ。中を見た奴も、何人かいるそうだぜ」
「そりゃまあ。でも、あたしはやったことはありませんよ。あ、もしかしてお客さんも?」
「そうだ。潜ってみたい」
「ふうん、そうですか」
折しも窓の外では、地平線から月が昇ろうとしていた。地平線とは言っても、単に家並が続いているだけだ。屋根屋根の上に差し懸かった月は、空にある時に比べて妙に大きく見える。何かの本に、地上に近い月が大きいのは、そばに比べる物がある故の錯覚だと書いてあったが――。
ぐっと飲み干して、グラスを置く。勘定をしようとすると、主は痩せた手を上げて押し留めた。
「後で結構です。まずは地下にご案内しましょう」
言われてみれば、戻ってから飲み直すこともありそうだ。支払いはそれからの方がよかろう。立ち上がると、心なしか冷たい風が吹いているような気がする。
「さ、こちらです」
カウンターの左には古びた木の扉があり、主が先に立ってそれを開ける。中から冷えた空気が流れ出し、今の風が気のせいではないと判った。建付けの悪くなった隙間から吹き込んでいたのだ。それは冷たいだけでなく、水を含んでじっとりしていた。中は明かりも届かず、真っ暗だ。
「滑りやすいから、足元に気をつけて下さい。電灯はあるんですが、しばらく使ってないから点くかどうか――いや、大丈夫みたいだ」
主が手を伸ばして内側の壁を探ると、カチリと音がして裸電球の黄色い光が点された。彼の肩越しに覗くと、電灯に積もっていた埃のせいだろう、微かに焦げくさい空気が漂ってくる。先程の水を含んだ風と混じって、妙に黴臭い。左右の壁は漆喰も剥げ、もう何年何ヶ月も人の手が入っていないことが見て取れた。
「済みませんねえ、掃除が行き届かなくて。普段あんまり降りないもんだから、放っぽらかしなんですよ」
言いながら、先に立って主が入る。そこは小さな踊り場で、人一人がやっと通れそうな狭い階段へと続いていた。溜まった塵に、細い靴跡が点々と付いていく。
「さあ、行きましょうか。結構降りますよ」
後に着いて行くと、石で出来た階段は十段も行けばすぐ向きを換え、狭い踊り場を繰り返しながら螺旋状に下っていた。限りのある面積を利用しているのだから仕方なかろうが、それにしても狭い。ちょっとでも足を滑らせたら、あちこちにぶつかりながら落ちて行くことになりそうだ。そうして、下に着く頃には、体中の骨がばらばらになっているのに違いない。
主は先を歩きながら、時々壁のスイッチを押していく。そうすると、今通り過ぎたばかりの階の灯りが消え、同時に前方の電球が点るのだ。電力を無駄にしない為の配慮なのだろうが、これでは自分達がいる所以外は真っ暗である。誰かが上から覗いても、人がいるとは判るまい。つまりは、何かうまくない事態が起きても助けは期待出来ない訳であり、そう考えると不安になってくる。
「どれだけ深いんだ?」
つい大きな声を出してしまい、反響にぎょっとする。上にも下にも木霊が走り、無数の自分がいるようだ。思わず声の調子が下がり、今度は囁くように後を続けた。
「随分降りたと思うんだが……」
すると、足元が危ない為だろう、主は振り向きもせずに答えた。
「申し訳ありませんが、まだ半分も来ちゃいません。さっきも言ったけど、相当あるんですよ。正確にはどの位だったかなあ。あたしも二年ばかり行ってないもんでして。何しろ暗いし、一人で行くにはちょっと――。答になってなくて済みませんが――」
「いや、いいんだ。元々俺が来たいと言い出したんだし」
さもありなんというところか。誰でも、ここから先はお前だけで行けと言われたら、考えてしまうだろう。
「で、前に潜った奴はどの位いるんだ?」
「さあてねえ。あたし自身は二人ばかりご案内しましたが、先代や先々代、それより昔なんかはどうなっていたのか」
「変なことは起きなかったのかな」
「そりゃ、別にご心配には及びません。あたしがご案内したお二人もですし、先代からも妙な話は聞いちゃいません。皆さん、ぴんぴんして上がってらっしゃいますよ。でなきゃ、とっくに封鎖してます」
これで少し安心した。確かに、こんなことで他人を嵌めても何の価値もない。
「で、みんな上がってきた後に何と言ってる?」
「特に何も。別に言う程のこともないんじゃないですか。あたしも尋ねないし」
「ふうん」
気がつくと、途中の踊り場の横にさっきと同じような木の扉があった。立ち止まって手を掛けると、気配に感づいた主が振り返る。
「どうかしましたか」
「この中には何があるんだ?」
「見てもいいけど、面白くはありませんよ。ご自分で開けて下さい。鍵は掛かってませんから」
確かに扉は苦もなく開いた。当然ながら中は真っ暗だ。扉の横にスイッチがあるので点けてみると、がらんとした部屋に、店で使うグラスや古い酒瓶が転がっているだけで、要はただの物置らしい。いつの間に忍び寄ったのか、すぐ後ろから主の声がした。
「あれらの酒も、店で出せるといいんですがねえ。調べてみると、結構年代物のいい奴が見つかるんです。先代もたまにしか降りて来なかったそうだし、そのまま放っておいたんでしょうな。何しろ、一人でまとめて運ぶにゃ重過ぎて、こんな下からじゃとても無理な訳でして。途中でひっくり返しでもしたら、元も子もありません。それで、こんな風にお客さんの案内で降りて来た時に、ちょこっと持って帰るくらいなんですよ。せいぜいがとこ、一本か二本ですけどね」
「何だってまた、こんな不便な所まで持って来たんだろう」
「さあ。泥棒が怖かったにしても、ちょっとやり過ぎですよね。そもそも、こんな下に酒蔵を作ってどうしようってんだか。だけど、店が出来た時のことなんざ、話が古過ぎて判りません」
「一本貰えないかな。代金は、後でつけてくれればいいだろ? ――いや、待ってくれ。年代物だとすると、高いのか」
「そうですねえ、ものによると値が張るのもあるんですが、どっちにせよ、お客さんが来たいとおっしゃらなければ放りっぱなしになってた訳だし――。ちょっと待ってて下さい」
主は先に立って入口をくぐると、無造作に転がしてある瓶の中から一本を拾い上げた。
「この辺りなんかは、そんなでもない筈なんですけどね。……ああ、やっぱりこりゃ、わざわざ店に持ってってもしょうがない酒だな。――いいでしょう、代金はいりません。その代り、あたしもお相伴に与ります。何だったら、ご一緒に二、三本持ってきませんか」
よっしゃとばかりに、二人で適当な瓶を漁ることにする。そして、余り大きくないのを二本ずつ取り上げ、それぞれ両手にぶら下げた。
「グラスも持って行きましょう。でないと、喇叭飲みになっちまう」
瓶をそばにおいて、足のないグラスを二つ、ポケットにねじ込む。
「行きましょうか」
再び階段を降り始める。二人とも何も言わず、足音だけが上下に向かって響いていた。
やがて主が、沈黙を破った。
「ああ思い出したぞ。ここで壁の色が変わるんだ。なら、もうすぐの筈です。――ほら、見えるでしょう」
主の頭越しに見ると、ようやく辿り着いた地下室の入口には扉も無く、向こうから何か生臭い匂いがした。踊り場の明かりが差し込んで、板張りの柵のような物が見える。
「ええと、スイッチは何処だったかな。ああ、ここだここだ」
主が入って壁を探ると、すぐに灯りが点された。一瞬、目が眩む。ここは階段と違って蛍光灯だ。青いような光に照らされて、先程の木の柵が十メートル四方の正方形であると判る。中には縁すれすれにまで、重たく淀んだ水が張ってあった。
「海です。結構大きな物でしょう。深さもかなりあるんですよ。それに、どうやら底に行く程広がってるみたいなんです」
見廻すと、地下室はほとんど海で一杯である。床と呼べる部分は柵の手前数メートルしかなく、残りの三方は直接漆喰の壁に接している。壁はもはや灰色に薄汚れ、あちこちに大小のひびが走っていた。見ると、正面の壁に大きな振子時計が掛けられ、コチコチと音を起てている。二年前に来たのが最後だとすれば、その間止まらずにいたのだろうか。
と、主が声を上げて、入口のそばにしゃがみ込んだ。
「お前、まだ生きてたのか」
床に置いてあった鉄の籠を取り上げて、ロイド眼鏡の奥から覗き込んでいる。からからと何かが回転する音、真っ白な二十日鼠が一匹、取り付けてある運動用の輪の中を走っているのだ。
「一体、何を食べてたんだろう。ずっと放っぽらかしだったのに。――あ、なんだ。壊れて穴が開いてるんだ。それで何処ぞに餌探しに行けたんだな」
主は籠を置いて腰を伸ばした。
「いやなにね、二年前に来た時、どうしても餌を食べずに息も絶え絶えだったんで、どうせ死ぬんだろうって放っぽっといたんですよ。まさか、自分で元気になるとはなあ」
一人でしきりに感心している。鼠はそんなことは意にも介さず、相変わらずからからと車を廻し続けていた。
「さて、それよりもこっちですね。潜るとおっしゃってましたが、ほんとに大丈夫なんですか」
「ああ、迷惑を掛けるようなことはないつもりだ」
「そうですか。まあ、あたしなんざ、とても実行しようという気にはなりませんけど。でも、無理はしないで下さいよ」
「解ってるって」
心配そうな主に答を返してから、柵に手を掛けて中を覗き込む。視界は一面の緑色、水は深々と光を飲み込み、下に何があるのかは全く判らない。ただ、少なくとも水質は透明で、ある程度は蛍光灯の光も届いているようだ。何も反射する物がないから、先が見えないのだろう。生臭い匂いは明らかにこの水から立ち上っており、しかしそれは決して不快なものではなかった。指を浸けて味を確かめてみると、噂通り、人の体液のように塩辛い。
「さあて、まずは慌てないで、さっきの奴を開けましょうよ」
言われて、持ってきた瓶のことを思い出す。いつの間に取り出したのか、主は布巾のような物でグラスを磨いており、やがて真っ赤な液体が注がれた。
「ふむ、悪くなってはいないな」
鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、くい、とグラスを傾ける。そして満足そうな表情で、海の方を眺めやった。
「こんなことなら、チーズの一つも持って来りゃ良かったですね。鼠にもやれたし」
「いいさ、何も飲みに来た訳じゃない」
これからしようとしていることを思うと、そんなに酔ってしまう訳にもいかなかった。店で飲んだ分は階段を降りるうちにすっかり醒めていたが、ここは控え目にしておこう。
持って来た瓶が小さかったので、互いのグラスに縁まで入れると、もう空になる。一杯目を空けると、すぐに主が次の瓶の封を切った。これでは、ついつい過ごしてしまいそうだ。だが、上で飲んだ酒とは逆に、濃厚な味の割には余り酔いが来なかった。これなら、そう心配することもあるまい。
ちびちびと二杯目を舐めながら尋ねてみる。
「前に潜ったとかいう連中は、何を見ようとしたのかな」
「さあねえ。想像もつかないなあ。何度も言うけど、自分じゃあ、入ってみようなんて考えはおきませんから。お客さんだって、どういうおつもりなんですか?」
「単なる好奇心だよ。ここにこれがあるって聞いてから、一度は来ようと思ってた。底が見えない程の深い水――その先に何があるのか、誰も教えてくれない」
「解りませんねえ。こう言っちゃなんだけど――いや、怒っちゃいけませんよ。飲んだ上でのことだって許して下さい。ただ、こんなつまらない水溜りの何処が面白いのか、訳が解らないものでして」
「いいさ。だいたい、これに興味がないから、先代に選ばれたんだろう?」
「まあ、そうですね。自分で興味津々の奴に継がせると、そのうち地下室に入ったまま出て来なくなりゃしないか心配だ、って言われましたよ」
しばらくは黙ったまま海を見続ける。こんなに大規模に塩水が集まっているのは、他では見られない光景だ。
「もう一本開けましょうよ。持って帰るのも面倒だし」
「いや、この辺で止めておくよ。酔っちまうとまずいだろ。あとは、一人でやってくれ。元々、あんたの店の酒だし」
「そうですか。じゃ、お言葉に甘えて」
主は新しい栓を抜き、自分のグラスに注ぐ。先程の鼠が籠から這い出して、彼が転がした空瓶の口を舐め始めた。
「さて、そろそろ取り掛かるとするか」
「そうですか。で、どういう風にするんで?」
「はあてねえ。とにかく入って、適当に体を動かせば様子が分かると思うんだ。出来れば腰に縄でも付けて行きたいとこだが、そんな物は無いようだな。まあ、危ないと思ったらすぐに中止するよ」
立ち上がって服を脱ぐ。主の前で自分だけ裸になるのは気恥ずかしかったが、彼は余りじろじろ見るようなことはしなかった。
とりあえず柵を跨ぐと、爪先を水に浸して腰掛けてみる。中は生暖かく、力を抜くとふわりと足が浮くようだ。前を眺めやると、向かいの壁が莫迦に遠く見えた。水に入るという行為そのものは解っているつもりだが、あちらに辿り着くのは結構大変そうだ。してみると、あの時計はどうやって取り付けられたのだろう。
だが、いつまでこうしていても仕方がない。そのまま向きを変えると、手を柵に掛けてそろそろと体を沈めてみる。足を前に伸ばして、触れるものはないかと探ってみたが、それは何処にも届かなかった。木の柵は水面のすぐ下で切れており、下には内壁も何もない。
しかしどうやら有り難いことに、塩水の中では全身が軽くなるようである。手の力を抜いていっても、直ちに沈むことはない。足を後ろに伸ばして少し動かすと、すぐに体が浮かんで水平になった。問題は、いずれ柵から手を離さねばならないことにある。
「どうですか」
主が上から覗いて尋ねた。柵に掴まったまま、足を静かに動かしながら、それに答える。
「何とか行けそうだ。ちょっと顔を浸けてみるよ」
「注意して下さいよ。いきなり手を離さないように。何かあっても、あたしじゃ何も出来ませんから」
■ 平田真夫(ひらた・まさお)
1958年1月6日、東京都生まれ。83年、東京工業大学大学院理工学研究科化学専攻修士修了。在学中は東京工業大学SF研究会に所属。84年、日本SF大会EZOCON2主催の小説賞「エゾコンSFコンテスト」に「マイ・レディ・グリーン・スリーヴス」が入選し〈SFマガジン〉に掲載されデビュー。86年、小学館発行のパソコン雑誌〈ポプコム〉にアドベンチャーゲームを連載。87年には、森山安雄名義でゲームブック『展覧会の絵』(創元推理文庫)を発表。同書は当時刊行されていた社会思想社発行のゲームブック専門誌〈ウォーロック〉誌上で毎月開催されていた「読者による人気投票」の第1位を長らく獲得しつづけた。2011年3月発売の『水の中、光の底』は、文芸書での初めての書籍となる。
・ホームページ「平田工房」URL http://www.hirata-koubou.com
(2010年2月5日)
SF|東京創元社