こうして、50年代の終盤から、ヒッチコック・マガジンがリッチーの主戦場となりますが、前回読んだ作品と同時代の短編を、さらに読んでみましょう。まず、松本清張のアンソロジーに四編が入っていました。
「つながれた男」は、新聞社の社主に、同紙の敏腕記者が陰謀を持ちかけます。郡保安局を牛耳る悪徳保安官を罠にかけるために、その記者が社主を殺したと見せかけて逮捕させて、強引な手口を暴こうというのです。記者に私怨があったり、社主と悪徳保安官が実は通じていたりという展開も平凡ですが、後半、事態が思わぬ方向に動き始めてから説得力が欠けていくのが難点でした。「完全殺人を買う」(ちなみに、小鷹リストでは「完全犯罪を買う」と誤記されています)は、リッチー得意の主人公が殺し屋の話です。私書箱を通じて依頼人とやり取りする主人公に来たのは、彼自身を殺す依頼だったという冒頭ですが、どうにも、主人公の行動が不用心にすぎて、話に説得力がない。「信用できる男」は、ギャングのボスのもとに、切り取られた指が送られてきて、以後、身代金を払うまで、身体の一部を切り取っては送って来ると脅迫されている。誘拐されたのはそれほど大切な部下でもありませんが、警察沙汰になると、誘拐は連邦犯罪なので、FBIが介入するため、それだけは避けたいというジレンマがある。主人公は、外部の「信用できる男」として、事態を究明する。前二作ほどではないものの、犯人を突き止めるまではともかく、話を収束させるところで、強引になってしまっていました。
 三作に共通するのは、展開に都合の良さが見えるところで、「クライム・マシン」(が、もう一編の収録作でもあります)の時も指摘しましたが、こうした失敗作で、それはいっそう顕著になります。この弱点は、リッチーのひねりやドンデン返しの手つきに、ついて回ることになります。
「いまから十分間」の犯行の段取りは、私には、どう考えても都合が良すぎるように思えます。「貯金箱の殺人」は、二十七ドル五十セントで大おじさんを殺してほしいという少年が、主人公の前に現われます。「おじさんはプロの殺し屋ですか」「もちろん」という会話から始まり、いつもの殺し屋が主人公の話かと思わせて、そこから逸れていく展開は、凡手ではありません。この少年が、たいへん利発で、主人公が振り回された果てに、後述するリッチーらしいエンディングに向かいます。ですが、それにしても、この展開が、すべて少年の読み通り――少なくとも、読みの範囲――というのは、ちょっと信じがたい。これが少年の側から描かれていたら、そうでもないのかもしれませんが、そうすると、この小説そのものが成り立たないでしょう。こうしたリッチーの弱点がもっともよく分かるのが「子供のお手柄」です。前回、都筑道夫がホックの「長方形の部屋」と比較したというのが、これです。都筑道夫は、犯人がムダな危険を冒しすぎる上に、いったい犯行が成就したら、どこまで殺人を続けるつもりだったのかと、疑問を呈して、ディテクティヴストーリイとして難ありと言っているのです。私に言わせれば、それ以前に、この犯行は無意味でしょう。連続殺人のつながりがなかなか分からない。分からないならば、それぞれ単独に捜査される。だから、手紙で一連の殺人だぞと伝える。それでも理由が分からないので、捜査側は連続殺人のつながりに気づく前に、そのうちのひとりが真のターゲットではないかと気づいています。つまり、計画は意味を成していません。「縄張り荒し」の三人組を思わせるオソマツさではないでしょうか。

 ショートショートであれば、こうした登場人物の行動についての説得力が薄いといったことは、あまり目立ちません。「味を隠せ」「正当防衛」「円周率は殺しの番号」「ジェミニ74号でのチェス・ゲーム」といった作品の軽い楽しさは、リッチーの持ち味のひとつでもあります。「殺人光線だぞ」の楽しさは、ノンシャランなSFの楽しさでもあり、フレドリック・ブラウンとかウィルスン・タッカーあたりを連想させます。「無罪放免」など、アイデア一発の典型でしょう。ただし、同じアイデア一発でも「殺人哲学者」の結末が不気味さを持っているのは、なぜなのか? それは、単なる意外性の効果を超えた、刑法の持つ根本的な問題が視野に入ってきてしまっているからだとは言えないでしょうか?
 逆に言えば、こうした段取りが説得力充分なとき、リッチーの短編は面白くなります。「誰が貴婦人を手に入れたか」は、フランスからやって来る名画を奪取する完全犯罪と見せかけて、という話でした。絵画鑑定の裏側のディテイルを巧みに用いながら、コミカルなクライムストーリイに仕上げています。「世界の片隅で」は、善良そのものの主人公が、ギャングの手先とおぼしい叔父さんの、集金強奪計画の片棒をかつがされます。叔父さんが集めた大金を、酒場でのホールドアップに見せかけて奪ってしまおうというもの。大金を盗まれましたでは、ギャングは簡単に許してくれないでしょうが、そこはリスクをとった叔父さんが、ぬらりくらりとかわそうという魂胆です。ところが、酒場で主人公の覆面が取れたために、叔父さんは警察に甥が犯人だったと証言せざるをえなくなる。当然、親分にも、そう報告することになります。しかし、叔父さんは金をあきらめるつもりはなく、作戦を修正していくことに……。もっとも、「地球壊滅押しボタン」は、そういう意味での段取りは巧妙に出来ています。出来ていますが、同時に、不満も覚えます。いっそボタンひとつで地球が壊滅するものなら、という願望を持つ人間に、そんなボタンを持ってくる男がいたら……。しかし、ここには、リチャード・マシスンの「運命のボタン」のようなショックはありません。これほど露骨ではありませんが、同じようなことは「クライム・マシン」にもあてはまって、所詮は、現実的に巧くやった者が勝つコンゲームの話になるのかという気持ちが湧くのを、押さえることが出来ないのです。
「トニーのために歌おう」は、陰惨な死刑のがれの計画が、寸分もらさず実行されていきます。有力政治家の息子を巧妙に殺人の依頼者に仕立てることで、無理やり死刑の道連れにして、恩赦を勝ち取ろうというのです。死刑囚の兄の手となって、計画を実行するのは西海岸からやって来た弟です。計画はうまくいくかに見えましたが、身びいきは政治的に損と、有力政治家は取引に応じません。刑の執行は近づき、このままでは、ふたりとも死刑です。その後の展開の皮肉な切れ味とある種の残酷さは、秀作と呼ぶに充分値しますし、リッチー作品の中でもユニークなものでしょう。こうしたやるせなさは「戦場のピアニスト」の結末にも共通していて、戦友の再会の一景という、このショートショートに奥行を与えていました。
「ビッグ・トニーの三人娘」は、ビッグ・トニーの娘たちが嫁ぐ話ですが、家族の話というのはリッチーが好んで描くところです。初期の「パパにまかせろ」「仇討ち」あたりからしてそうですし、「トニーのために歌おう」は、それが暗い形で現れることで効果的でした。「貯金箱の殺人」も、回りくどい計画の果てに生まれた、新しい家族が描きたかったのだと、私は思います。「三番目の電話」は、主人公の警官が不審な電話をかけるところから始まり、なぜそんなことをしたのかが明らかになるまでの話ですが、「新パパイラスの舟」で、小鷹信光に「甘すぎる」と評された結末ですが、この甘さはリッチーの特徴のひとつではなかったでしょうか。
「吸血鬼は夜駆ける」「殺人境界線」「10ドルだって大金だ」に連なる、リッチーのユーモリストの側面が、前面に出た作品です。こうしたユーモア小説を上手に仕上げる人は、なかなかいないものです。そういう意味で大切に味わいたいと考えます。
 50年代から60年代にかけてのジャック・リッチーは、アイデアをクライムストーリイに落とし込むことで、数々の短編を書いていきました。そうすることで、スレッサーと並び称される作家となりました。70年代以降のリッチーは、さらに、また異なった作家としての進み方をしますが、それはまた別の機会に書くことになりそうです。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。

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