――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。
第25回 持続可能な言葉をさがして
高島 雄哉 yuya TAKASHIMA(写真=中野佳裕、著者/カット=meta-a)
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2016年はVR元年と呼ばれていた。二年目である今年も、VRあるいはAR技術は次々と発表されている。
それ以前からも、現実と仮想現実を混合させる〈Mixed Reality,MR(複合現実)〉や、現実と別の現実に差し替える〈Substitutional Reality,SR(代替現実)〉、あるいは軍事作戦で兵士が利用する〈Tactical Augmented Reality,TAR(戦術的拡張現実)〉など、様々な〈R〉が提案されてきた。そしてそれらを総称する〈XR〉という言葉まで生まれている。
これらはすべて、ぼくたちの環境に手を加え、新しい環境を作り出す技術だ。さらには技術であることを超えて、ぼくたちの新しい環境そのものにもなりつつある。
とすれば、ぼくたちがその新しい環境に適応するまでには、大なり小なり、なんらかの〈XR環境問題〉が生じうるだろう。
一方で、自然環境における環境問題は、もちろん今でも存在している。どの問題がどれくらい深刻なのか、そしてどう対処すべきなのか。
環境問題については早い段階で専門家にインタビューをしたかったのだけれど、調べれば調べるほど、実に多くの分野があり、さらには分野を超えた研究もまた特定の分野を形成していて、どの分野のどなたにお話をうかがうべきかをずっと決められないでいた。
この二つの環境は、ぼくたちの生に深く関わっているはずなのに、どちらもぼくたちから離れている気がする。
といったことを考えていたとき、本棚にあったセルジュ・ラトゥーシュ著『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社、2010年)が目に入った。それは二年前の同窓会で中学卒業以来ひさしぶりに会った同級生の中野佳裕くんが訳したものだ。同窓会のあと、購入していたのだった。
ラトゥーシュは、環境問題も格差社会もその原因は経済成長を基本方針とした社会にあると指摘し、〈脱成長社会〉、〈定常経済〉に移行していくべきだと主張する。現在の経済は自然環境や人間生活に対して、かなりの負荷をかけている。その現れが環境問題であり、様々な社会問題なのだ。
〈環境負荷〉はある程度であれば自然が吸収してくれるのだが、限度を超えてしまえば、環境は修復不可能なレベルで破壊される。人間社会はそもそも自然環境を基盤としていることを思い出せば、環境負荷をコントロールする必要があるのは明らかだ。
中野くんとぼくは瀬戸内海に面した山口県光市の中学校に通っていた。学校は象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)という、本州から一キロほど突き出た小さな岬の中ほどにあって、グラウンドのすぐ外には砂浜が広がっていた。
彼の実家は江戸時代から続いた老舗和菓子店で、鼓乃海(つづみのうみ)という銘菓は光市や山口県内はもちろん遠方にも知られている。紡錘形のお菓子で、餡を包むかわには肉桂が使われていた。ぼくも彼に中学で出会うまえから鼓乃海のことは知っていたし、食べていたのだった。過去形なのは、残念なことに昨年お店が閉店してしまったからだ。下の写真は中野くん撮影による最後の鼓乃海だ。
木造瓦屋根の伝統ある店舗と工房が一階にあり、工房の外はすぐ瀬戸内海で、中野くんは高校を卒業するまで家族と共にその二階に住んでいた。そこでの生活が今の研究の原点だという。
「工房では、伝統的な材料と技法によって、鼓乃海が作られていました。たとえば肉桂は瀬戸内海を通って運ばれてきて、職人さんたちが昔ながらの手作業をします。工房は、歴史が語り継がれ、多様な文化が入り交じる、非常に豊かな空間なんですよね。ところが店頭に並べられた途端、お菓子は価格という一つの数値だけで測られて、文化についての言語が失われてしまうのは一体どうしてなんだろうと、ずっと考えていました」
市場経済によって失われる文化的多様性について、言語の問題として捉えるというのは、新しい言葉を探しているぼくにとっては非常に興味深いものだった。
なお、インタビューは当然タメ口で行われたが、彼の大学での講義の口調と合わせるため、すべて丁寧語に統一した。
さて、中野くんは早稲田大学で政治や経済を学んでいたのだが、ますます言語学への興味が強くなりイギリスに留学したのだった。語られないままの言語をいかにして語るのかを研究するために。
今回、中野くんにはまず二時間弱のインタビューをお願いして、その一週間後に国際基督教大学で彼が受け持っている「平和研究Ⅱ」という講義を見学させてもらった。
国際基督教大学(International Christian University, ICU)は東京都三鷹市にある。東京駅からICUの最寄り駅(武蔵境駅)までは快速で三十分ほど。三鷹には大きな公園が点在しており、国立天文台や三鷹の森ジブリ美術館もある。
ぼくが暮らす杉並区は二十三区の西の端にあり、西側は三鷹市と接している。だからとても近くなのだが、ICUに行くのは今回が初めてだった。大学正門からまっすぐに桜の並木がのびて、緑あふれるキャンパスに繋がっている。並木を抜けると、正面に大学礼拝堂があって、右手に広がる芝生では学生たちがフリスビーをしていた。
芝生の奥の大学本館に、中野くんが助手を務める社会科学研究所がある。中野くんは〈社会哲学〉を専門とする研究者なのだ。社会の諸問題に対して哲学的にアプローチする。
ぼくが訪ねたのは九月の初旬、秋学期が始まったばかりの頃だった。ICUは秋入学制度があるから、ぼくと同じように教室を探していたのは新入生だったのかもしれない。
中野くんの講義はこの日が初回だった。毎回四時間の授業で、あいだに十分間の休憩が二回入る。三部構成というわけだ。
第二部の最後にドキュメンタリー映画『セヴァンの地球のなおし方』の冒頭部が流された。環境問題活動家であるセヴァン・スズキは1992年──彼女が十二歳のとき──子供たちによる環境団体ECO(Environmental Children's Organization)を代表して、国連主催の国際会議においてスピーチを行った。次の一節が映画冒頭で流れた。
If you don't know how to fix it, please stop breaking it. (それの直し方を知らないのなら、それを壊すのはやめてください)
ここで「それ」が指示しているのは、たとえばオゾン層であり、絶滅危惧種あるいは絶滅種のことだ。彼女は、語らないすべてのものたちに代わって語ったのだった。
ラトゥーシュのいう〈脱成長〉や〈定常経済〉をどう考えるかは、彼女の言葉をどう受け止めるかということと強く結びついている。
彼女の言葉とは真逆の、「直し方を知らなくても壊していい」という主張は大いにありうる。オゾン層に穴を開けて、生物多様性を損なっても構わないではないか、と考える向きもあるはずだ。
しかしそれが言えるのも、この世界が存続しているからだ。あるいはオゾン層に穴を開けることが「できる」のも、現行の経済が存在しているからであり、ぼくたちの大多数は──破綻した終末の世界よりも──〈持続可能な社会〉を望んでいると考えていいだろう。
そのためにはこれ以上、人間による自然環境への負荷──〈環境負荷〉を増やすことはできない。〈環境負荷〉が限度を超えているからこその環境問題なのだ。
地球環境を好きなだけ拡張できるなら、環境問題も起きないのだが、そういうわけにもいかない。経済活動を抑えて、発生する〈環境負荷〉を減らしていくしかないのだ。
だから〈持続可能な社会〉を求めるのであれば、これ以上の経済成長のない〈定常経済〉へと移行しなければならない。
もっとも〈環境負荷〉はすでに限度を超えていて、先進国については定常経済どころか縮小経済にしなければならないという試算もある。発展途上国についても、成長を止めるわけにはいかないものの、現状の開発を〈持続可能な開発Sustainable Development, SD〉に変えて、環境負荷の少ない経済成長を進める必要がある。
ここで確認しておきたいのは──ぼくも中野くんに確認したのだけれど──〈持続可能な社会〉において、すべての分野のあらゆる種類の成長が止まるわけではない、ということだ。
経済という強い条件づけを外されて、自由で多様な成長が可能になる。
いわゆる成長神話は、ぼくたちにとっての〈大きな物語〉、〈形而上学〉として──つまり、ぼくたちのすべての文化や言葉を方向づける言葉として──機能している。生活のほとんどは〈生産〉と〈消費〉という経済用語によって理解されてしまう。
新しい〈形而上学〉が成立し、別の価値軸が生まれれば、それに対応する新しい経済活動が生まれ、新しい経済学が発展する。その前後に生まれるであろう新しい科学や文化は、今とはまったく違う様相を呈するはずだ。
それゆえ、〈持続可能な社会〉は生産や消費といった経済行為を変えるだけでなく、ぼくたちの〈形而上学〉そのものを書き換え、多様な文化を活性化させるだろう。
このような社会を実現していくために、〈ベーシックインカム〉や〈環境税〉といった個々の社会的施策も重要なのだけれど、それと同時に、ぼくたちがどのように世界を感じているのか、どのように生きていきたいのかという人間的な問題を根源から考え直さなければならない。それは量ではなく質の問題であり、つまりはぼくたちの〈感性〉が問題になるのだ。
授業の冒頭で中野くんが語った。
「思想的な原点まで遡ってみることは非常に大事です。その思想がそもそもどのような経緯で生まれたのかを知ることで、問題をより深く理解することができます」
環境問題のうち少なくともいくつかは、人間の営為によって生じたものに違いない。
中野くんによると、現代の環境問題の始源は三十年戦争にあるという。
三十年戦争(1618 - 1648)は宗教対立に端を発して、ヨーロッパ全体を巻き込むことになった戦争であり、四百万人の犠牲者の半数が民間人だった。ドイツでは1,600万人だった人口が600万人まで激減し、人口比で言えば二つの世界大戦よりも被害は大きかったと考えられている。
この悲劇を繰り返さないために、多くの思想家が様々な提案をした。
デカルト『方法序説』は三十年戦争中の1637年に刊行されている。デカルトは三十年戦争に従軍していて、それについての言及もある。彼もまた三十年戦争の混沌を乗り越えるべく、世界を理性的に把握しようとして〈機械論的自然観〉を確立する。
自然は機械のように何かしらの自律的なメカニズムをもっていて、それを解明しさえすれば、自然を理解することはもちろん、自然を操作することも可能だと考える自然観だ。
我々が直面している環境問題は、この自然観に由来している。直し方を知らないなら壊さないで、とセヴァンは言っていた。
また、終戦から三年たった1651年には、ホッブス『リヴァイアサン』が発表された。ホッブスは人間の自然状態を〈万人の万人に対する闘争〉と考え、一人一人の市民が国家と〈社会契約〉を結ぶことで闘争を避けられると主張した。
ここで中野くんが専門とする〈社会哲学〉という哲学領域が生まれる。以降、人文科学では基本的に、人間のあいだの関係性、すなわち社会が研究の対象となる。本来はあったはずの人間と自然の関係性への視座が失われ、切り離された自然については自然科学の研究領域とされてしまったのだ。
中野くんは、〈社会契約〉に続く新たな契約として、〈自然契約〉を結ぶ必要があると言う。
社会のことを考えること自体に誤りはない。ただしぼくたちは社会のなかで生きながら、同時に自然のなかでも生きている。ところが三十年戦争をきっかけに、社会と自然を切り離して考えるようになったために、〈環境問題〉が起きてしまったのだ。
そして〈環境問題〉は、自然も社会も破綻させうる問題なのだ。ぼくたちはぼくたちの環境を一体のものとして考える必要がある。
こうして世界全体の〈持続可能性〉を志向する、〈脱成長〉〈定常経済〉が二十世紀末から徐々に主張され始めたのだった。
だから〈定常経済〉は理想主義的な経済などではなく、むしろ現実問題としての環境問題を解決するための経済なのだ。
また、これまでの成長経済は〈生活必需品の不足、希少性scarcity〉を満たすことを至上命題としてきたわけだけれど、そういった生活面での問題についても、先進国を中心に解決されつつある。このような経済を〈ポスト希少性経済post-scarcity economy〉という。
スタートレック・シリーズの『新スタートレック』および『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』ではポスト希少性経済の、貨幣経済もなくなった世界を舞台として、人はみな人類全体に貢献するために働いている。むろん衣食住が整ったところで世界から問題が消えるわけではないから、登場人物たちはいつも苦労しているのだけれど。
さて、〈持続可能な社会〉を達成するためには、様々な経済政策が必要となる。そのひとつが〈ベーシックインカムbasic income,BI〉だ。最低限の生活費は支給される制度であり、実現すればぼくたちの働き方や生き方は大きく変わる。
ベーシックインカムで支給される金額や制度、それから理念や実現方法については様々な意見があるのだが、実現するのはそう遠くないのかもしれない。スイスでは2016年に導入の是非を問う国民投票が行われ、そのときは賛成23%反対77%で否決されたものの、その後も様々な国や地域で議論が進んでいる。
なお〈BI(ベーシックインカム)〉は、〈AI(人工知能)〉の全面的な社会への導入とペアで論じられることも多い。〈AI〉が労働して、それに対して税金をかけて、〈BI〉の財源にするというアイデアもある。
いずれ〈持続可能な社会〉が実現すれば──それは環境負荷がないということと同義なのだから──原理的に自然環境における環境問題は存在しなくなる。
ではVRやARといったすべての現実が統合される〈XR〉においては、環境問題は発生しうるのだろうか。
第9回小池龍之介くんの回で言及したように、小松左京さんは1968年発表の「仏教と未来社会」 (『ニッポン国解散論』所収)において、科学技術の発展によって生活上の困難が次々と解消した末に、「人間が巨大な「余暇」のなかにほうり出され」て、「途方にくれるでしょう」と書いた。さらに「さまざまな娯楽や快楽も、けっしてその空虚さを完全にはみたしてくれない」と続けている。
このときの小松さんは余暇を「空虚さ」と呼んで、ぼくたちがいずれ直面する──「途方にくれる」──困難だと予言したわけだ。
AIは労働を含むすべての社会的行為をぼくたちの代わりに行うようになり、BIはぼくたちと経済の新しい関係性を作り出す。ぼくたちにとってAIやBIは新たな〈インフラストラクチャーInfrastructure(下部構造)〉あるいは〈インターフェイスinterface(接触面)〉になる。〈XR〉という言葉からの類推で、AIやBIといった〈I〉のすべてを統合する、〈XI〉を考えることも可能だろう。
〈XR〉はぼくたちの空間を拡張し、〈XI〉はぼくたちの時間を拡張する。二つの〈X〉が協働して、ぼくたちの〈余暇〉は限りなく延長されていくのだ。〈X余暇〉とでも呼ぶべきだろうか。
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