このように書いていけば、サイボーグの行き着く先についての高橋先生の解答も自ずとわかってくるだろう。
人工知能や拡張現実の技術によって、知性も世界も〈規定〉なく、その形を変えていく。もう、すでに知性と世界の境界は溶け始めているのかもしれない。
サイボーグ化とは、ぼくたちを含む世界全体の〈他者化〉なのだ。サイボーグの行き着く先の世界に知性と呼びうる何かが存在したとしても、それは今のぼくたちとはまるで似ていない〈他者〉であることは確かだろう。
VR元年の今、これから注目するべき最先端技術を哲学的立場から予想してもらおうなどと考えていたぼくは、インタビュー冒頭から「サイボーグの行き着く先は表象不可能である」というお話をうかがって途方に暮れてしまった。
サイボーグが未規定であるがゆえに表象不可能であるならば、表現することはもちろんのこと、想像することすらできない。じゃあ今回のエッセイは何も書けない、ということにもなりかねない。第8回と第9回の小池龍之介くんに聞いた「仏教は想像しない」という言葉を思い出した。小池くんもインタビューの日時を決める電話でそのような話をしたのだった。
予知しようとするときにはまず自分のことを知らなければならないというのは第10回と第11回の平野多恵先生に教わった〈おみくじ〉を引くまえの基本的な姿勢だったが、サイボーグ化によって自分も世界も変わるから未来は想像できないというのは哲学的な、すなわち論理的な不可視性と言えるだろう。
だから、サイボーグ化が進む世界でどう生きるべきか、あるいは未来をあらかじめ知るためには、どの分野を調べていけばいいのかといったことを訊いたところで――そんな質問をしたぼくが哲学的に甘かったのだけれど――高橋先生としては哲学的に「わからない」と答える他なかったのだった。以降も哲学的に突き詰めていない質問をぼくはしたはずだが、先生は終始にこやかに答えてくださった。
ということで今回はぼくのサイボーグ観――生物と機械を最先端の科学技術によって統合的に拡張したものとしてのサイボーグ――をまさにサイボーグ的に拡張する必要があって、実はここまで書くのにかなり苦労したのだけれど、こうして無事にエッセイを書いていることからも明らかなように、サイボーグの他者性や不可視性を確認しただけでサイボーグ哲学は終わらない。むしろ〈表象不可能性〉とは現代哲学の出発点なのだ。
哲学は常に疑い続ける。こういう知的不屈性を哲学が内在しているからこそ、ぼくは哲学を信頼し、折にふれて哲学を参照しているのだろう。
気を取り直して、不可視なものに対する哲学者の〈想像力〉についてうかがった。高橋先生はヴァルター・ベンヤミン(1892―1940)を例に話し始めた。ベンヤミンはドイツの哲学者であり批評家だ。ユダヤ人家庭に生まれた彼はナチス・ドイツからフランスに亡命し、その後アメリカに渡るためスペインに入国しようとするが――当時のフランコ政権は親枢軸国的だったため――逮捕されてフランスに強制送還されることになり、その夜モルヒネを大量に飲んで自殺した。
ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において、人間が機械との共同作業に慣れるための知的〈練習〉について考察している。これは芸術論上もっとも有名な論文の一つだ。1935年に書かれ、翌年には第二稿が書かれている。
サイボーグ化の行く末が見えなくとも、たとえばAIが生み出す絵画や音楽そして小説などのアート作品に慣れ親しむことは、人間とは異なる存在の〈ものの見方〉に習熟するための――すなわちサイボーグ化する世界で生きるための――知的な〈練習〉になるだろうと高橋先生は指摘する。
ベンヤミンは複製技術によってオリジナルとコピーの差異が消失し――といった、すべてがデジタル量として処理される現在となっては当然のことを先駆的に指摘しており、結果として芸術の〈アウラ〉が失われたことを確認したのだが、そのことを彼は別に悲嘆してはいないし、そこで論を終えていない。彼による〈アウラ〉の定義は「どんなに近くにあっても遥かな、一回限りの現象」というものだが、これはつまり〈近寄りがたさ〉のことだ。古代から芸術は祭儀すなわち政治の道具であり、一部の特権階級だけが近づけたのだが、複製技術によって〈アウラ〉が失われ、誰もが近寄れるようになった。
そして複製技術時代の芸術と触れることは、科学技術との共同作業に慣れるための知的〈練習〉となり――ナチスによる芸術の政治利用に抗いつつ――大衆の知覚が活性化する可能性があるとベンヤミンは希望的に論じている。彼の時代には映画を見ることが知的〈練習〉と捉えられたが、現代ではAIが生み出すアートを鑑賞したり、あるいはVR技術を体験することが〈練習〉になるのだろうか。
高橋先生はサイボーグの哲学を研究することで、〈哲学のサイボーグ化〉を考えている。これまでの哲学が暗黙裡に前提としていたような自然のままの――もちろん保留付きの「自然」の――人間存在という問題設定では、サイボーグ化の進むこの現実に対応できないからだ。
哲学自体が人間の思想的拡張すなわちサイボーグ化の一環みたいなものだろう。であるとすれば〈哲学のサイボーグ化〉はサイボーグ化のサイボーグ化、すなわち二重にサイボーグ化することだと言えるかもしれない。これはおそらくぼくたちがサイボーグ化する世界に慣れるための〈練習〉の一つなのだ。
では、〈哲学のサイボーグ化〉のためには誰の哲学を活かしていけるのだろう。ぼくがそううかがうと、ニーチェを参照するべきだと先生は語った。ニーチェは、人間の思考は人間の生という生物学的条件に制約されていると主張し、『ツァラトゥストラはかく語りき』において人間を超越した表象不可能な存在として〈超人〉という有名な概念を提示した。
もちろんニーチェは主に価値観や世界観において人間を超え出た存在として〈超人〉を考えたのであって、〈サイボーグ〉を意図していたのではない。これまでの哲学の蓄積をいくら精査しても、そっくりそのままの形でサイボーグ化以後の世界にも通用するような記述は見つからないだろう。人間のことを数千年間にわたって考察してきた哲学の枠組みが、科学技術によって根底から覆されるのが〈サイボーク化〉という事態なのだから。
しかしそれでもなお既存の哲学には無数のヒントが内包されている。それは哲学が多くの人々が追求した〈ものの見方〉――つまりは〈理論〉の総体だからだ。事実というものは、視点の移動によって真偽がひっくり返ることもある。だが理論は論理の連なりであって、それ自体は論理的整合性さえあれば成立するのであって、人間用もサイボーグ用もない。どの時代のどんな哲学であっても、現代化ないしは〈サイボーグ化〉することができれば、部分的にしろ過去の哲学をサイボーグ化以後においても参考にすることができるだろう。先生によれば〈超人〉概念は――ニーチェの予想を超えて――〈ポスト・ヒューマン〉を示唆している。
サイボーグ化する世界や人間のための〈哲学のサイボーグ化〉は、既存の哲学に留まっていては達成できず、どうしても他の科学分野への〈越境〉が必要となる。いや――そもそもサイボーク化そのものが〈越境〉なのだろう。
高橋先生はいま経済についての研究を進めている。サイボーグ化によって人間の基本的な諸条件が変われば、現在の貨幣経済はやがて有用な情報を交換するような経済システムに変わっていくだろうというのが先生の予測だ。
経済の研究は哲学者である先生にとって〈越境〉に他ならない。ここ五年ほど経済学部や大学院のカリキュラムなどを参考に、マクロ経済学やミクロ経済学の教科書から始めて、徐々に最新の知見に触れていったという。
自らが慣れ親しんだ領域からの〈越境〉はひどく困難なことだ。研究者である高橋先生にとっては――研究とは一つの分野について専門的に追求することだから――なおさらだろう。それでも先生は〈越境〉すべきだという。
「どうして専門領域を区切っちゃうんだろうと思うんです。区切るのは構わないんです。そうしないと問題の整理もできないし。でも学問の領域は常に変化していって、扱う対象も変わっていくわけです。ある時点でたまたま区切られたところがその学問の領域だと言われても、ぼくはいつも足元を疑ってかかるタイプなので。不用意に〈越境〉するのは軽率でしょうが、十分に準備していくのであれば、むしろ他の分野との対話は進めていくべきだと思いますね。そうすれば新しい問題領域だって見えてくるでしょうし、ぼくはいつもオープンでありたいなと思っています。態度としてそのほうが面白いかなと思うし、独文から始めて今はサイボーグ哲学をやっているのもそういう理由なんですけどね」
ということで――インタビュー冒頭にサイボーグは〈未規定性〉ゆえに「表象不可能」とうかがって今度のエッセイは書くことがないと落胆しかけたのはさておき――この連載で新しいSFの言葉を求めて〈越境〉を試み続けているぼくとしては先生の言葉に大いに励まされたのだった。
もしかすると、この連載全体が〈越境〉の準備なのかもしれない。そしてそれはサイボーグ化する世界に慣れるための〈練習〉であると同時に、ぼく自身を〈サイボーグ化〉していく過程でもあるのだろう。いつかサイボーグ化された言葉を見つけるために。
(※次回は7月5日頃掲載です。サイボーグ化する世界における知的〈練習〉の具体的な実践方法について、ひきつづき高橋先生にうかがいます。)
高橋 透(たかはし・とおる/早稲田大学文化構想学部複合文化論系教授)
1963年東京都生まれ。早稲田大学文学研究科ドイツ文学専攻博士後期課程満期退学、文博(早大)。専攻は表象・メディア論、テクノロジーの哲学、特にサイボーグ哲学思想。著書に『サイボーグ・エシックス』(水声社)、『サイボーグ・エシックス』(NTT出版)、『ドイツ観念論を学ぶ人のために』(共著、世界思想社)などがあり、訳書にダナ・ハラウェイ『サイボーグ・ダイアローグズ』(水声社)、ジョン・D・カプート『デリダとの対話』(法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『メタフラシス』(未来社)などがある。また最近の記事に【快感を貨幣に。「人類サイボーグ時代」の経済システム(http://www.sensors.jp/post/cyborg.html)】、【ハイパーAIを恐れながら、望んでやまない人間の限りない「欲望」(http://ironna.jp/article/3251)】がある。
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人工知能や拡張現実の技術によって、知性も世界も〈規定〉なく、その形を変えていく。もう、すでに知性と世界の境界は溶け始めているのかもしれない。
サイボーグ化とは、ぼくたちを含む世界全体の〈他者化〉なのだ。サイボーグの行き着く先の世界に知性と呼びうる何かが存在したとしても、それは今のぼくたちとはまるで似ていない〈他者〉であることは確かだろう。
VR元年の今、これから注目するべき最先端技術を哲学的立場から予想してもらおうなどと考えていたぼくは、インタビュー冒頭から「サイボーグの行き着く先は表象不可能である」というお話をうかがって途方に暮れてしまった。
サイボーグが未規定であるがゆえに表象不可能であるならば、表現することはもちろんのこと、想像することすらできない。じゃあ今回のエッセイは何も書けない、ということにもなりかねない。第8回と第9回の小池龍之介くんに聞いた「仏教は想像しない」という言葉を思い出した。小池くんもインタビューの日時を決める電話でそのような話をしたのだった。
予知しようとするときにはまず自分のことを知らなければならないというのは第10回と第11回の平野多恵先生に教わった〈おみくじ〉を引くまえの基本的な姿勢だったが、サイボーグ化によって自分も世界も変わるから未来は想像できないというのは哲学的な、すなわち論理的な不可視性と言えるだろう。
だから、サイボーグ化が進む世界でどう生きるべきか、あるいは未来をあらかじめ知るためには、どの分野を調べていけばいいのかといったことを訊いたところで――そんな質問をしたぼくが哲学的に甘かったのだけれど――高橋先生としては哲学的に「わからない」と答える他なかったのだった。以降も哲学的に突き詰めていない質問をぼくはしたはずだが、先生は終始にこやかに答えてくださった。
ということで今回はぼくのサイボーグ観――生物と機械を最先端の科学技術によって統合的に拡張したものとしてのサイボーグ――をまさにサイボーグ的に拡張する必要があって、実はここまで書くのにかなり苦労したのだけれど、こうして無事にエッセイを書いていることからも明らかなように、サイボーグの他者性や不可視性を確認しただけでサイボーグ哲学は終わらない。むしろ〈表象不可能性〉とは現代哲学の出発点なのだ。
哲学は常に疑い続ける。こういう知的不屈性を哲学が内在しているからこそ、ぼくは哲学を信頼し、折にふれて哲学を参照しているのだろう。
気を取り直して、不可視なものに対する哲学者の〈想像力〉についてうかがった。高橋先生はヴァルター・ベンヤミン(1892―1940)を例に話し始めた。ベンヤミンはドイツの哲学者であり批評家だ。ユダヤ人家庭に生まれた彼はナチス・ドイツからフランスに亡命し、その後アメリカに渡るためスペインに入国しようとするが――当時のフランコ政権は親枢軸国的だったため――逮捕されてフランスに強制送還されることになり、その夜モルヒネを大量に飲んで自殺した。
ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において、人間が機械との共同作業に慣れるための知的〈練習〉について考察している。これは芸術論上もっとも有名な論文の一つだ。1935年に書かれ、翌年には第二稿が書かれている。
サイボーグ化の行く末が見えなくとも、たとえばAIが生み出す絵画や音楽そして小説などのアート作品に慣れ親しむことは、人間とは異なる存在の〈ものの見方〉に習熟するための――すなわちサイボーグ化する世界で生きるための――知的な〈練習〉になるだろうと高橋先生は指摘する。
ベンヤミンは複製技術によってオリジナルとコピーの差異が消失し――といった、すべてがデジタル量として処理される現在となっては当然のことを先駆的に指摘しており、結果として芸術の〈アウラ〉が失われたことを確認したのだが、そのことを彼は別に悲嘆してはいないし、そこで論を終えていない。彼による〈アウラ〉の定義は「どんなに近くにあっても遥かな、一回限りの現象」というものだが、これはつまり〈近寄りがたさ〉のことだ。古代から芸術は祭儀すなわち政治の道具であり、一部の特権階級だけが近づけたのだが、複製技術によって〈アウラ〉が失われ、誰もが近寄れるようになった。
そして複製技術時代の芸術と触れることは、科学技術との共同作業に慣れるための知的〈練習〉となり――ナチスによる芸術の政治利用に抗いつつ――大衆の知覚が活性化する可能性があるとベンヤミンは希望的に論じている。彼の時代には映画を見ることが知的〈練習〉と捉えられたが、現代ではAIが生み出すアートを鑑賞したり、あるいはVR技術を体験することが〈練習〉になるのだろうか。
〔かつての科学技術は自然を統御しようとしたが、現代の〕技術はむしろ、自然と人間との共同の遊戯をめざすものであって、こんにちの芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することなのだ。(野村修訳「複製技術時代の芸術作品」より)
高橋先生はサイボーグの哲学を研究することで、〈哲学のサイボーグ化〉を考えている。これまでの哲学が暗黙裡に前提としていたような自然のままの――もちろん保留付きの「自然」の――人間存在という問題設定では、サイボーグ化の進むこの現実に対応できないからだ。
哲学自体が人間の思想的拡張すなわちサイボーグ化の一環みたいなものだろう。であるとすれば〈哲学のサイボーグ化〉はサイボーグ化のサイボーグ化、すなわち二重にサイボーグ化することだと言えるかもしれない。これはおそらくぼくたちがサイボーグ化する世界に慣れるための〈練習〉の一つなのだ。
では、〈哲学のサイボーグ化〉のためには誰の哲学を活かしていけるのだろう。ぼくがそううかがうと、ニーチェを参照するべきだと先生は語った。ニーチェは、人間の思考は人間の生という生物学的条件に制約されていると主張し、『ツァラトゥストラはかく語りき』において人間を超越した表象不可能な存在として〈超人〉という有名な概念を提示した。
もちろんニーチェは主に価値観や世界観において人間を超え出た存在として〈超人〉を考えたのであって、〈サイボーグ〉を意図していたのではない。これまでの哲学の蓄積をいくら精査しても、そっくりそのままの形でサイボーグ化以後の世界にも通用するような記述は見つからないだろう。人間のことを数千年間にわたって考察してきた哲学の枠組みが、科学技術によって根底から覆されるのが〈サイボーク化〉という事態なのだから。
しかしそれでもなお既存の哲学には無数のヒントが内包されている。それは哲学が多くの人々が追求した〈ものの見方〉――つまりは〈理論〉の総体だからだ。事実というものは、視点の移動によって真偽がひっくり返ることもある。だが理論は論理の連なりであって、それ自体は論理的整合性さえあれば成立するのであって、人間用もサイボーグ用もない。どの時代のどんな哲学であっても、現代化ないしは〈サイボーグ化〉することができれば、部分的にしろ過去の哲学をサイボーグ化以後においても参考にすることができるだろう。先生によれば〈超人〉概念は――ニーチェの予想を超えて――〈ポスト・ヒューマン〉を示唆している。
サイボーグ化する世界や人間のための〈哲学のサイボーグ化〉は、既存の哲学に留まっていては達成できず、どうしても他の科学分野への〈越境〉が必要となる。いや――そもそもサイボーク化そのものが〈越境〉なのだろう。
高橋先生はいま経済についての研究を進めている。サイボーグ化によって人間の基本的な諸条件が変われば、現在の貨幣経済はやがて有用な情報を交換するような経済システムに変わっていくだろうというのが先生の予測だ。
経済の研究は哲学者である先生にとって〈越境〉に他ならない。ここ五年ほど経済学部や大学院のカリキュラムなどを参考に、マクロ経済学やミクロ経済学の教科書から始めて、徐々に最新の知見に触れていったという。
自らが慣れ親しんだ領域からの〈越境〉はひどく困難なことだ。研究者である高橋先生にとっては――研究とは一つの分野について専門的に追求することだから――なおさらだろう。それでも先生は〈越境〉すべきだという。
「どうして専門領域を区切っちゃうんだろうと思うんです。区切るのは構わないんです。そうしないと問題の整理もできないし。でも学問の領域は常に変化していって、扱う対象も変わっていくわけです。ある時点でたまたま区切られたところがその学問の領域だと言われても、ぼくはいつも足元を疑ってかかるタイプなので。不用意に〈越境〉するのは軽率でしょうが、十分に準備していくのであれば、むしろ他の分野との対話は進めていくべきだと思いますね。そうすれば新しい問題領域だって見えてくるでしょうし、ぼくはいつもオープンでありたいなと思っています。態度としてそのほうが面白いかなと思うし、独文から始めて今はサイボーグ哲学をやっているのもそういう理由なんですけどね」
ということで――インタビュー冒頭にサイボーグは〈未規定性〉ゆえに「表象不可能」とうかがって今度のエッセイは書くことがないと落胆しかけたのはさておき――この連載で新しいSFの言葉を求めて〈越境〉を試み続けているぼくとしては先生の言葉に大いに励まされたのだった。
もしかすると、この連載全体が〈越境〉の準備なのかもしれない。そしてそれはサイボーグ化する世界に慣れるための〈練習〉であると同時に、ぼく自身を〈サイボーグ化〉していく過程でもあるのだろう。いつかサイボーグ化された言葉を見つけるために。
(※次回は7月5日頃掲載です。サイボーグ化する世界における知的〈練習〉の具体的な実践方法について、ひきつづき高橋先生にうかがいます。)
高橋 透(たかはし・とおる/早稲田大学文化構想学部複合文化論系教授)
1963年東京都生まれ。早稲田大学文学研究科ドイツ文学専攻博士後期課程満期退学、文博(早大)。専攻は表象・メディア論、テクノロジーの哲学、特にサイボーグ哲学思想。著書に『サイボーグ・エシックス』(水声社)、『サイボーグ・エシックス』(NTT出版)、『ドイツ観念論を学ぶ人のために』(共著、世界思想社)などがあり、訳書にダナ・ハラウェイ『サイボーグ・ダイアローグズ』(水声社)、ジョン・D・カプート『デリダとの対話』(法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『メタフラシス』(未来社)などがある。また最近の記事に【快感を貨幣に。「人類サイボーグ時代」の経済システム(http://www.sensors.jp/post/cyborg.html)】、【ハイパーAIを恐れながら、望んでやまない人間の限りない「欲望」(http://ironna.jp/article/3251)】がある。
(2016年4月5日)
■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!