さて、補遺に入りましょう。
 2010年に国書刊行会からロバート・バーの『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』が出て、これまで「放心家組合」(健忘症連盟)のみで語られていた、ロバート・バーのウジェーヌ・ヴァルモンのシリーズの姿が、日本でも明らかになりました。ロバート・バーについては、この連載の第5回で触れています。そこではクイーンの「ロバート・バーが意図したものはフランスおよびイギリス両国の警察機構における国家的差異の風刺だった」という評価を引いた上で、「放心家組合」について、その詐欺のトリックや、乱歩が指摘した結末における青年のヌケヌケとした態度よりも、「私立探偵の勝手な行動は、訴追の妨害になり、犯人を利することになるという風刺」の部分を評価しておきました。
 さて、シリーズ第一作「ダイヤモンドのネックレスの謎」で登場したウジェーヌ・ヴァルモンは、「放心家組合」それだけで見るよりも、はるかにアクとハッタリの強い人物でした(従来の「放心家組合」そのものにも、それだけでは、そう見えない理由があったのですが、それは後述します)。この作品は、シリーズで唯一、フランス時代の話を回想する形をとっていますが、ということは、すでにヴァルモンは、フランスの警察を追われ、渡英して成功した(らしい)私立探偵という設定になっているのです。
「ダイヤモンドのネックレスの謎」は、ヴァルモンがフランスの警察を去ることになった事件の顛末です。時価200万フランを超えようという、多数のダイヤモンドで飾られたネックレスが、パリで競売にかけられます。落札主が無事フランスを出国するまで、ヴァルモンは警備にあたります。ところが、アメリカ人らしき落札者は、会場から忽然と姿をくらましてしまう。フランスの交通網を駆使して逃げる怪しい落札者を、ヴァルモンは追います。この小説は、犯人側にトリッキイな企みはあるものの、それは犯人の告白で明らかにされ、謎の解明の物語というよりは、機智に富んだ追跡劇と呼ぶべきもので、シャーロック・ホームズのライヴァルとしては、並の一編でした。問題は、この事件をきっかけにヴァルモンがフランスの警察を追われた理由です。警備に失敗した――と言えるのでしょうか?――からではなく、事件の経緯が新聞に報じられ、警察が笑いものになったために、ヴァルモンは警察をクビになったというのです。
 このあたり、筆も諧謔であり、どこまでまともにとっていいものやら、危ぶまれます。ひとつには、珍しいことに、このシリーズは、ヴァルモンつまり探偵役の一人称で書かれ、しかも、ヴァルモン自身が正確さや正しさよりも、機智や人目に立つような聡明さを重視していて、はっきり言えば、簡単には信用できない。おまけに、フランスとはそういう国だと、お国柄にその理由を回収しているのです。
 続く「シャム双生児の爆弾魔」は、英仏にまたがるアナキストの組織が、訪仏するイギリスの議員団に爆弾を投げる企みを阻止する話です。雑誌発表順を並べかえて二番目にもってきたこの作品で、クイーンの言う「フランスおよびイギリス両国の警察機構における国家的差異の風刺」は顕著になります。まず、推定無罪の原則を、ヴァルモンは、フランスでは無罪と分かるまでは有罪だと嘯いて、軽く蹴とばしてみせる(「無実の人間がときには誤って罰せられることもないとはいえないが(中略)そのような間違いが起きるのは一般で思われているよりもずっと少ない」)のみならず、自宅の一部を改造して、私的な監獄を作り、そこでは拷問も辞さないと主張します。後年、アメリカで「ミランダ警告」として有名になる、逮捕された者への権利の警告――フィクションの世界にも、どれだけ影響を与えたことか――も、それがために自白を取りそこなう、イギリスの警察の失態の例として引かれます。
 ここまでくれば「うっかり屋協同組合」(放心家組合/健忘症連盟)における、証拠の合法的な確保も、同じ流れの中で読み取ることは容易でしょう。ヴァルモンの尊大にデフォルメされた態度がもたらしたのは、英仏の比較というよりも、被疑者の人権を守る捜査法への疑問ないしはあてこすりと取るべきものでしょう。そのあてこすりは素朴なもので、結果、ヴァルモンがしてやられる「うっかり屋協同組合」だけが、生き残ったのでした。
 実際のところ、フランスの警察・司法制度が、ヴァルモンの主張するようなものなのか、私には分かりません。推定無罪の原則はフランス革命時の人権宣言に起源がたどれると言いますが、一方で、20世紀の半ばまでフランスには立法権優位が著しく、違憲立法の審査が制度化されていなかったそうです。しかも、実際の運用となると、さらに話は別で、それは、日本の現実を見てもらえればお分かりのとおりです。以前、平沢勝栄の本を読んでいたら、警察官僚時代に昭和天皇の訪米の警備にあたったときの記述がありました。日本の警察が出した「過度とも思える要求」(と平沢自身が書いている)を、アメリカ側が呑んでくれて――つまり、普段の警備ではやらないことまでやって――あげく、日本人の貧乏旅行者らしき若者を、キャピタルの近辺で発見します。身許を確認し持ち物の中身まで調べる平沢たちのやり方に、アメリカのシークレットサーヴィスが言ったという一言が、忘れられません。「君らのやったことは憲法違反だが、私は君らを頼もしく思うよ」。本気なのか皮肉なのか、私には判断がつきません。
「うっかり屋協同組合」には、従来の訳では省かれていた――おそらく、アンソロジーなどに独立した短編として収録された際に、省かれたのではないかと推測しているのですが――冒頭部分があって、そこでは、フランス時代、上司の家さえ不法に捜索する自慢話が出て来るうえに、ポーの「盗まれた手紙」も――つまり、ミステリというお楽しみの世界も――同様だという指摘があるのです。こうした捜査の合法性というルールが、現実問題として制度的に悲鳴をあげる様子は、70年代以降のアメリカで、とくにはっきりと露呈するのですが、「うっかり屋協同組合」は、それを予見した皮肉な一編として地位を要求できると同時に、その悲鳴と現実の混乱のすさまじさの前には、素朴にすぎるという弱点をも持つことになりました。私はシリーズ中では「銀のスプーンの手がかり」の犯人像に惹かれるものがあり、むしろ、こちらの作品が、これからの評価に堪えるのではないかと思っています。

 2015年という年は、日本において、サキのあたり年になったようです。第一短編集『レジナルド』が、同じくタイトルロールのレジナルドが登場しながら、第二短編集にまわされた一編も含めて、邦訳が出たのみならず、『クローヴィス物語』『けだものと超けだもの』という、サキの作品中でも中核をなすふたつの短編集が、初めて原著どおりの短編集として訳出され、さらに、晩年の作品を中心に未訳作品を拾う形で『四角い卵』が出たのです。
 このうち『レジナルド』は、少々毛色が変わっています。実は、この連載の第3回でサキをあつかったときに、ほぼ手つかずで紹介されずにいた、この第一短編集が気になって、いくつか読んでみようと思ったのです。私の読解力では手が出ないことが分かったので、放り出したのですが、今回翻訳で読んでも、結果はそう変わりませんでした。レジナルドという人物は、のちのクローヴィスの原型のように思えますが、同時に、これら一連の作品は、新聞のコラムや論評から小説へと変化する過渡期のものに見えます。それだけに、当時の社会や風俗という部分での共通理解がないと、面白さどころか話の中身が伝わらないのではないでしょうか?
 端的に言って、論評し批判しときに冷笑するレジナルドには、小説の登場人物としてのアクションに欠けるところがある。たとえば、今回の『クローヴィス物語』で初めて訳された、それだけに平凡な作品のひとつとしか言いようがない「求めよ、さらば」と比べてみてください。そもそも、クローヴィスが出くわすのが、客あつかいで一瞬目が離れたすきに子どもがいなくなるという、非常に具体的な事件です。しかも、ここでのクローヴィスは、客として招かれた家のアスパラガスソースの中身を、なにより気にするという具体的なアクションで、その無責任さが際立つ仕組みです。レジナルドからクローヴィスに変化することで、サキが小説家となっていくように見えるのは、私だけでしょうか?
 実をいうと今回読んだ中で、圧倒的に興味深かったのは、最晩年というよりは死の直前に書かれたとおぼしい「四角い卵」「西部戦線の鳥たち」の2編でした。
「西部戦線の鳥たち」は解説によれば「おそらく生前最後の作品」だそうです。北フランスの鳥たちをスケッチした文章ですが、一瞬たりとも、それが戦争中のものであることを忘れさせません。いや、逆です。戦争のさなかにも鳥はそこらを飛ぶ。ここには、戦争について論評や批判や冷笑する人間は出てきません。もしかしたら「西部戦線の鳥たち」は小説ですらないのかもしれません。しかし、この文章が生き生きとし、書かれて1世紀が経とうというのに、読む者の心に届くのは、鳥たちの簡潔な描写と、戦争中であることを常に文章に仕組むという、小説としての技法が心憎いまでに効果的なためです。
「四角い卵」の冒頭は、泥の中を這いずりまわる生き物の視点ないしは気持ちとはどういうものかという問いから展開していきます。そういう生き物になることが、近代の総力戦で一兵卒に課せられた具体的な義務でした。小説とジャーナリズムが未分化な時代(の末期)において、サキがその腕前を、いまだ誰も経験したことのない、近代的な戦争の最前線を報告した文章――と、誰もが思うだろう出だしです。そして、事実、塹壕戦の現実がここでは簡潔に描かれています。ところが、小説は最前線の塹壕から、一時の休息を得る酒場に移り、わずかに前線から下がることで、奇妙な寸借詐欺の話に化けてしまう。どんなに非人間的で異様な最前線も、卑俗な社会とは地続きなのでした。『西部戦線異状なし』の世界から『キャッチ=22』の世界に、一気にズームアップしてみせた、はなれわざのような短編です。サキが最後に書いた傑作と呼びたい気持ちがしています。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。


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