「くじ」で一躍勇名を馳せてしまったシャーリイ・ジャクスンは、しかし、頑固に自分のペースを守ったと言えるのでしょう。「夏の終わり」は、例年の予定を逸脱して、レイバーデイを過ぎても避暑地に居残ったために、地元の人々からの遇され方が一変してしまう夫婦の話でした。登場人物と彼らの関係は、図式的にはそれまでのジャクスンと同じですが、結末が幻想味を帯びていました。「ある訪問」「岩」といったシチュエーションの取り方に趣向を凝らした(「ある訪問」など、長期休暇に友人宅を訪ねるという古めかしい設定作品を、逆用しています)も同様で、このあたりから幻想と怪奇の小説へ、作風的に傾斜していったように、私には思えます。『なんでもない一日』の収録作品でいうと、「メルヴィル夫人の買い物」は、店員を下に見るアッパーミドルの戯画ですが、混乱がユーモラスにエスカレートするうちに、幻想的な領域に届かんとする。これが51年の作品です。同時に、後述するドメスティックユーモアに通じる筆致でもありました。
 50年代のシャーリイ・ジャクスンの短編について、特に書いておかなければならないことが、ひとつあります。『なんでもない一日』に収録されている「なんでもない日にピーナッツを持って」「行方不明の少女」(少女失踪)の二編についてです。「なんでもない日にピーナッツを持って」は、街へ出て小さな善行を積んでいく男を、淡々と描いていくと思っていると……という話。アイデアストーリイ風の結末ですが、男の嬉しさと同量の嬉しさを妻に垣間見せるのが、シャーリイ・ジャクスンの腕前というものでしょう。「行方不明の少女」は、サマーキャンプで少女が失踪した事件を、ルームメイトの目から描いたものですが、結末に到って、幻想的な様相を呈します。ともに、クライムストーリイと普通小説の中間といった味わいの、すぐれたショートストーリイですが、なんと、初出はF&SFなのです。当時の編集長はアンソニー・バウチャー。後者がミステリマガジンに訳出されたときには、バウチャーのコメントが付されていましたが、ジャクスンのことを「現存する最高のファンタジー作家のひとり」と位置づけながらも「たんに“異色”の“好”短篇としか呼べぬ作品、商業的に分類することが困難なので、ほかの雑誌から敬遠されるような作品」と評していました。そこに、EQMMが起こした意識改革の影響を見るのは、私だけのことでしょうか? ちなみに、両編とも、邦訳の初出はSFマガジンではなく、ミステリマガジンでした。
「ジャングルの一日」は、さしたる理由もなく家出をした妻の、思いのままにならない一日を、ユーモラスに描いていました。「夜のバス」は、見知らぬ場所で深夜の長距離バスから降ろされた女性の、いささか幻想的な小説でした。ユーモアと幻想性というシャーリイ・ジャクスンの両極を示したとも言えて、どちらも『こちらへいらっしゃい』の中の佳作でした。『なんでもない一日』では、「レディとの旅」に出てくる老女のつかみどころのなさが、印象に残ります。未発表作品では、「よき妻」の妄執や「ネズミ」の結末の不気味さが記憶に残りますが、これらの作品は、ジャクスンが生きていたら、さらに磨き上げていたのではないかとも思わせます。
 そして、おそらくはキャリアの晩年に、シャーリイ・ジャクスンは、ふたりの記憶に残る老婆を創造しました。ひとりは、熱心かつ几帳面にブラックメイルを町中に送りつけたあげく、自ら涙を流すに到った「悪の可能性」のミス・ストレンジワースです。もうひとりは、家族全員に少なからぬ期待と少々の不安を残したまま買い物に出て、心温まる偶然を演出してみせた「お告げ」のウィリアムおばあちゃんです。前者はジャクスンらしい短編であり、死後、サタデイ・イヴニング・ポストに掲載され、MWA賞を得ました。あまりジャクスンを顧みることのなかったミステリの世界が、遅ればせながら彼女に栄誉を与えたように、私には見えました。後者はジャクスンらしからぬ逸品かもしれませんが、この初出も、なんとF&SFなのでした。

 シャーリイ・ジャクスンの短編群を見渡すと、「くじ」は、やはり孤立してそびえたつように、私には思えます。それほど、その世界は屹立している。ジャクスンのその他の短編は、多かれ少なかれ、現実の具体的なアメリカ人の生活に直結しているように見えます。彼女は、その現実に亀裂が走ること、走っていることを見逃さない。ただし、それだけならば、戦後のクライムストーリイの書き手の大半と、変わりありません。
 彼女の資質を考える上で参考になるのは、『くじ』に収められた、すなわち、キャリアでも前半に書かれた「チャールズ」という作品です。この作品は、自分の子どもが幼稚園に通うようになった母親の一人称で、園にいる問題児チャールズの話を息子から聞くうちに、その問題児っぷりに、夫婦ともども引きつけられていく。アンファンテリブルもののように読んだと、各務三郎さんは書かれていたと思いますが、そして、氏自身のちに驚くことになるのですが、この作品は『野蛮人との生活』の一部を、ほぼそのまま構成していたのでした。御承知のとおり、『野蛮人との生活』はエッセイないしは回想と分類されることがあって、しかも、ユーモラスな文章だというのが定評――しかも、その定評は間違っていません――なのです。
 不幸にして、私が最初に接したジャクスンは『野蛮人との生活』の連載で、「チャールズ」を読んだときには、一家のことはおなじみな上に、「チャールズ」が最初は独立した一編として発表されたことも、各務三郎が驚いたことも、みんな知っていました。だから、私には「チャールズ」を最初に読むことのインパクトは知りようがありません。ただ、同じ事態を同じように描いて、怖さとおかしさを演出してみせるジャクスンの、人工的な操作性は理解できます。
 ついでながら、こうしたいきさつからも、『野蛮人との生活』二部作を中心とするシリーズを小説に含めないことに、私は反対です。また『野蛮人との生活』の原書は短編集の体裁をとっていないとのことですが、このシリーズを短編小説のシリーズと見ないことにも、賛成は出来ません。後者の理由は単純です。「チャールズ」は短編小説として発表され、短編小説として『くじ』に収録されました。「家じゅうが流感にかかった夜」は、おそらく独立した短編として、著者によって朗読されていたのです。子どもたちが大きくなってからのことも「パジャマ・パーティー」に描かれ(私が大好きな短編です)、それは『こちらへいらっしゃい』の「十四の短篇」のひとつでした。一方、前者の理由は、やや複雑な重さがあります。
『くじ』「チャールズ」『野蛮人との生活』「チャールズ」の違いは、ジャクスンの人工的な操作によるものなのでしょうか。言い換えると、丸い豆腐も切りよう(というか、見せよう)で四角といった体のものなのでしょうか? もっと広く言えば、ジャクスンの持つユーモアと幻想性も、同じものの切り方の違い、調理の仕方を変えてみましたという話なのでしょうか?
 確かにそうかもしれません。ただ、そう考えたとき、『野蛮人との生活』で、もっとも人工的に操作されている登場人物は、語り手の私であることに気づきます。『野蛮人との生活』は、どこをどう切り取って読んでも、哄笑を誘うエピソードに満ちた小説ですが、語り手の女性の姿にこそ、ジャクスンのアーティフィシャルな操作の腕前を、そして、その腕前がもたらす効果を、私は見ます。ひとつの作品中の、いかなる登場人物をも操作の対象として見る人工性。その人工性が、現実生活からも手を切ってさえ成立するところに、「くじ」におけるジャクスン印が読み取れるとしたら、その人工性がもっとも自然に(つまり非人工的に、あるいは目立たないように)存在するのが『野蛮人との生活』でした。
『野蛮人との生活』はもちろん、「くじ」もミステリとは呼べません。しかし、ジャクスンの持つ登場人物への操作的な意識ゆえに、彼女の作品は、ミステリを読み書くすべて人々から、関心を持たれ続けることになるにちがいありません。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。


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