ニュートンが林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついた――というのは眉唾ものだと思うけれど、彼はロンドンで流行していたペスト禍を逃れて故郷のウールズソープで思索の日々を過ごしているから、林檎の実が落ちる瞬間を見たことはあるかもしれない。あるいは落ちた林檎の実を見て、月が地球のまわりを回るのも林檎が地球に向かって落ちるのも同じ万有引力によるのだと彼が考えたとしても不思議ではない。太古から月と地球は異なる法則に支配されていると考えられてきたが、ニュートンは物理法則が宇宙全体で普遍的であることを、地球にいながらにして証明したのだ。
 森羅万象をモデル化し、法則や属性といった共通性を取り出そうとするのは、科学における強い傾向と言える。科学の一つ、物理学もまた伝統的に普遍性を追求してきた。アインシュタインがまず一九〇五年に発表した特殊相対論は、重力を扱うことができず、適用できる範囲も限定的だった。アインシュタインは自らの理論を〈拡張〉し――特殊を一般化して――その十年後に一般相対論を完成させる。それは宇宙全体を一体のものとして記述し得る理論となった。
 林檎も月も宇宙全体も、それらのあいだには共通性があって、〈同一視〉することができる。物理学は、時間と空間を同一視して〈時空連続体〉と考え、物質と時空を同一視して〈場〉として扱う。
 同一視はもっと身近なところにもある。中学の図形の証明問題では、よく三角形の合同が題材になる。位置や向きが違っていても、三辺相等や二角挟辺相等という条件を満たしていれば、同じ三角形と見なす。
 アンが「想像の余地がない」と言ったのは、こうした同一視を指しているのではないだろうか。あらゆるものを同一のものと見るのなら、過去も現在も未来もない無時間のなかで、現実と想像の区別もなくなってしまうだろう。小石川植物園とプリンスエドワード島とぼくの部屋の区別をしないなら、もうどこにも行かなくていい。
 事象の共通性に目を向ける〈同一視〉は決して科学だけのものではなく、日常的にもしばしば用いられると思うけれど、確かに幾何学ではかなり積極的に同一視をする。
 エウクレイデスがプトレマイオス一世に「幾何学に王道なし」と語った逸話が史実であるかはさておき、二千年にもわたって幾何学といえばユークリッド幾何学のことだった。だからこそニュートンは『プリンキピア』でユークリッド幾何学を用いたのだし、今でも世界中で学ばれているのだろうけれど、十九世紀にはそれ以外にも様々な幾何学が成立していた。
 ユークリッド幾何学では、直線Iに対して、I上にない点Pをとると、lに平行で点Pを通る線は一本しか引けないとする。これは日常的には当然のことのようにも思えるが、曲面上では引ける平行線の数は変わるのであって――無限の本数の平行線が引けるとすれば双曲幾何学、一本も引けないとすれば楕円幾何学という――それでも数学的に破綻のない幾何学が構成できることが十九世紀前半に示されたのだった。
 一八七二年、数学者のフェリックス・クラインはエルランゲン大学の教授就任講演において、そうした幾何学をその内部の〈不変量〉によって分類することを提唱した。
 彼の考えた〈クラインの壺〉は管を裏表のないように繋げたもので、三次元ユークリッド空間では自らと交叉してしまう。交叉のない壺は四次元ユークリッド空間でないと実現しないのだ。クライン管とも呼ばれるこの図形は位相幾何学(トポロジー)の教科書にはしばしば登場する。
 位相幾何学は十八世紀の数学者レオンハルト・オイラーが始めたとされ、ドーナツとコーヒーカップを同一視する幾何学だとよく言われるけれど、クラインの視点からは、連続的に変形しても変わらない量(ここでは穴の数)に注目する幾何学と見なすことができる。同様に、ユークリッド幾何学では、平行移動や回転した図形は元の図形と合同であり、一様に拡大ないし縮小した図形は元の図形と相似であるとするが、それはつまり――前回の〈五重塔〉にも似て――ぼくたちが「これとこれは同じ形だ」と言うときの〈形〉を不変量と考える幾何学なのだ。
 そしてもちろん他の幾何学にも、固有の(変形の規則と)不変量がある。クラインは複数の幾何学のあいだに共通性があることを見抜き、統一的に理解することを可能にしたのだ。メタレベルにおいて幾何学を〈同一視〉したと言っても良いだろう。
 同一視を徹底するのは幾何学のみならず、科学全般の特徴と言える。そして科学的な同一視には相応の想像力が必要だ。想像力がなければ時間と空間を、そしてドーナツとコーヒーカップを同一のものと見ることはできない。
 しかしそれはアンの想像力とは方向性が真逆のものだ。アンは鉢植えのゼラニウムを“ボニー”と名付ける。普通名詞ではなく固有名詞を使うことによって、個々の事物に触れようとしているみたいだ。科学とは違う、彼女自身のやり方で。
 だからぼくは思うのだ。アンは幾何学の考え方を――つまりは幾何学的な〈同一視の想像力〉のありかたを――正確に理解していたのではないだろうか。そのうえで、彼女の考える想像力が、幾何学の想像力とかけ離れていたために「(幾何学には)想像の余地がない」と言ったのではないだろうか。
 クライン流に見ると、アンの想像力と同一視の想像力のあいだにも共通性があるように思えてくる。どちらも不変なものを残しながら、大胆に見たものを作り変えて、世界を描き出す。違うのは何を不変量とするか、だけだ。同一視の想像力は普遍性に注目し世界を拡張し、アンの想像力は多様性に着目して多世界を作り出す。もちろん、ぼくが以上のように言ったところで、アンは個々の花を同一視しないのと同じように、二つの想像力を同一視したりしないに違いないけれど。

anandclain.jpg  アーシュラ・ル=グィンの「オメラスを歩み去る人々」の Omelas は、オレゴン州セイラムの道路標識 Salem,Oregon を逆さに読んで思いついたという。アンが鶏小屋で見つけたランプの破片を“妖精の鏡”と名付け、真夜中に妖精たちが舞踏会をして忘れていったものだと想像するのにも似た、新たな世界を創出する想像力が作用しているようにも思われる。それは、この世界から別の世界へと移動する、見えない連絡方法を見つける想像力と言ってもいいだろう。
 この文章でぼくは新しい言葉を探しているのだが、もう少しだけ同一視の想像力を追求してみたい。なんとなれば、言葉は同一視なしには存在し得ないシステムなのだから。
 同一視の想像力もまた、かけ離れた二者を結びつけることができる。たとえば、一見SFとは見えない作品に対してSF要素を見出していく楽しみ方がある。今回で言えば、アンの宇宙と我々の宇宙では幾何学が異なっていて、アンの学校では本当に「想像の余地がない」幾何学が教えられている、『赤毛のアン』は多宇宙SFなのではないか。ぼくはそういう書き手の意図を無視する読解が大好きなのだけれど、こういう読み方は共通性に着目する〈同一視の想像力〉によって支えられていると言えるだろう。
 この同一視の想像力は強力で、SFのみならず、ありとあらゆる二者に対して共通性や類似性を見出し、自らの世界を〈拡張〉し続ける。
 SFは伝統的に最先端の科学の知見を取り込んできた。同時にSFは明に暗に科学の想像力に刺激を与えてきたと言っていいだろう。ここでは科学を世界と言い換えてもいい。もしウェルズが『タイムマシン』を書かなかったとしたら――それこそタイムマシン的な思考実験だけれど――タイムマシンの理論研究がこれほど盛んに行われてきただろうか。SFを読んで科学に興味を持ったという研究者は数知れない。
 だからと言って、科学とSFを同一視する人は少ないはずだ。それはそれぞれの想像力の〈形〉が大きく異なっているからだ。科学とSFとオカルトの三者の関係性についてもいずれ考察したいけれど、むやみに共通性を強調して同一視することが誤りであることは自明だ。「あ」と「あ」を同一視しなければ文章が理解できないのと同様に、「あ」と「い」を同一視したら最早ぼくたちは会話もできなくなる。
 ちなみにアンはとにかく幾何学だけが苦手で、代数は問題なくこなしている。これは中学における代数の問題の多くが文章題であり、いろいろと状況を想像して楽しめるからだろう。
 そのアンは中学三年生になる前の――九月始まりのカナダの学校の――夏休みに、信頼するステイシー先生の勧めもあって、勉強を一切せずに友人たちと大いに遊ぶ。そして学校が始まる前日、次のように育ての親であるマリラに言う。

"I feel just like studying with might and main," she declared as she brought her books down from the attic. "Oh, you good old friends, I'm glad to see your honest faces once more―yes, even you, geometry.”(「私、思いっきり勉強したいと思って」彼女はそう宣言し、屋根裏から教科書を降ろした。「ああ、懐かしき友たちよ。なんじらの誠実な面差しを再び見ることがあろうとは。――うん、あなたもね、幾何学さん」)


 ぼくはアンほど勤勉ではなく、まして何かを宣言する気はないのだけれど、このエッセイが終わるまで、多くのことを学ばねばならないと思う。でなければ、科学あるいは世界の想像力を刺激するような、新しい〈タイムマシン〉なんて見つけられるはずがないから。焦燥感に似ているかもしれないこの個人的な感覚を、今はこれ以上説明できそうにない。
 アンは『グリーンゲイブルズのアン』の最終章で、進学をやめて近所の学校で教師になることを決める。もう一人の育ての親であるマシューが亡くなり、マリラを残して大学に行くことなどアンにはできないからなのだが、これが可能性を大きく狭める選択だということも彼女自身よくわかっている。それでも彼女に迷いはなく、モンゴメリの筆致はぎりぎりのところでアンの決断を読者に納得させる。アンは自分の未来を道に喩え、まっすぐに延びていた道が曲がり角に来たのだと言う。そして彼女は曲がり角の先に希望があると確信して第二巻へ向かう。
 小石川植物園には数千の草花があって、丁寧に名前の書かれたプレートが設置されているけれど、ここにアンがいれば一歩進むごとに鮮やかな名付けをしてくれるだろう。七十万の植物が生い茂る園内は広大で――かつて関東大震災時には三万人が避難したという――草花に混じって樹齢を重ねた木々も多く、異界の深い森のなかにいるような気分になってくる。

koishikawa.jpg  ピタゴラスの定理(三平方の定理)の証明は日本では中学校で習う。おそらくアンもプリンスエドワード島で習っただろう。この定理を証明する方法は五百以上もあって、近年も発見されている。証明の数に上限があると考える理由はない。きっとこれからも見つかるだろう。
 このエッセイの結末とSFの未来を重ね合わせるつもりはまったくないけれど、ぼくはどちらにも希望を持っている。さしたる予想があるわけではない。ただ、定理の証明法も植物園の歩き方も無限にある。ぼくが知り得る世界には限りがあるとしても、そこには無限個の無限があって、新しい〈タイムマシン〉はきっと数限りなく存在する。そして今はまだ、そのうちのほんの数個しか発見されていないのだ。
 焦燥感も希望も、この文章を書き進むにつれて、徐々に明らかにできるはずだ。同一視の想像力を含むありとあらゆる想像力を駆使して――あるいは分有して――幾何学的というよりはSF的にぼくの個人的な焦燥感を打ち消して、最後には世界と希望を分かち合えればいいと思う。

(翻訳部分は高島による)
(2015年5月8日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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