デイヴィッド・アリグザンダーは、いくつかの長編が翻訳されたのち、長年、忘れられた作家となっていました(それは日本のみならず、本国でもそうだったようです)が、2006年9月に論創社から、短編集『絞首人の一ダース』が出版され、これが好評を得ました。私が持っているのは、同年11月の第2刷です。原著は1961年刊行ですが、スタンリイ・エリンが序文を寄せているのが、意外でした。前回読んだ「優しい修道士」も、この短編集に収録されていました。「優しい修道士」は、結末の意外性を軸に組み立てられた、クライムストーリイです。第10回コンテストのオナーロールに入っていて、良く出来てはいるけれど、さすがに半世紀経てば色褪せる。
第11回コンテストの第2席に入ったのが「タルタヴァルに行った男」で、これが短編集の巻頭を飾っています。酒場にたむろしている、タルタヴァルに行ったという老人の零落した姿を描いたものですが、タルタヴァルというのが何なのか分からないのが、そして、最後に明らかになるのが、ミソです。歴史上の重大事件のひとこまを切り取ってみせたものですが、小説としては歪というか、出来は正直よろしくない。タルタヴァルというのは、アメリカ人にとっても常識の範疇ではないようですが、それが分かったからといって、衝撃があるわけでもない上に、結局は「作者のメモ」をつけて楽屋落ちを明かすしかないところに、この作品の弱さがあります。ロアルド・ダールが「誕生と破局」に「作者のメモ」をつけたところを考えてみるとき、アリグザンダーの弱さと技術に欠けることは明らかでしょう。さらに特定の知識、知見に寄りかかる危うさは「空気にひそむ何か」にもあてはまっていて、この作品にも「作者によるメモ」がついていますが、これも不必要、なしで済ませるべきものでしょう。ある特定な知識が必要な作話法は、日本人(というか外国人)にはさらに理解が遠くなるものですが、アリグザンダーには荷がかっています。では、そういった話は所詮、知識に寄りかかっただけのものにしかならないのか? 外国人、文化的背景の異なった人々には、面白みのないものにしかならないのか? その疑問に応えてくれるのが、アヴラム・デイヴィッドスンのMWA賞受賞作「ラホール駐屯地での出来事」で、この作品は後日ゆっくりと読むことになるでしょう。
「悪の顔」は、サイコサスペンスの風味を持ったパズルストーリイ、「向こうのやつら」は、特定の殺人者だけが死後の生を生きているというファンタジーですが、ともに凡作の域を出ません。どちらも、根幹となるアイデアと言えるだけのものはあるのですが、その展開のさせ方に、閃きがありません。
こうして見てくると、デイヴィッド・アリグザンダーは、思いつきや発見と言えるようなアイデアを小説に仕組むのは、それほど巧くないことが分かります。むしろ、単純なサスペンス小説の方が出来はいい。『絞首人の一ダース』に関して言えば、最後に収録されている一群の作品です。「見知らぬ男」は、地下鉄を舞台にしたショートショートに近い作品ですが、甘味のある人情噺に仕上がっていました。「雨がやむとき」は、理不尽な闖入者にヒロインが苦しめられる、定石のような話でした。中でも、もっとも良く出来ているのは「蛇どもがやってくる」でしょう。午後の暖かい公園にいる4人の描写から始まって、母親が居眠りをしている間に、その娘である少女を、性犯罪者であるらしい男が、アイスクリームを餌に誘拐します。主人公はアルコール依存から立ち直ろうとしている男で、最初の24時間を、ようやく、酒なしでやり過ごしたところです。男が少女を連れ去ったことに気づくと、魅入られたように、尾行を始めます。ポケットには、最後の生命線がわりに1ドル札を握りしめている。どうしても酒がほしくなったときに、これで酒が買えるという安心感が、パニックを防いでくれるのです。ところが、少女を連れた男を尾行して、ニューヨークじゅうを移動するうちに、所持金の1ドルが減っていくというのが、サスペンスを盛り上げます。途中、何度か、他の人びととコミュニケイションを取ろうとして、それを主人公が、自分がアル中であるがゆえに躊躇するというのも、巧く作ってあります。ウールリッチを源流に、ヘレン・マクロイやシャーロット・アームストロングといった作家が、上手に進化させた、短編サスペンスミステリの実例のひとつが、ここにはあります。
結局のところ『絞首人の一ダース』で、真に推奨するに足るのは、「蛇どもがやってくる」以外には、「アンクル・トム」と「デビュー戦」の二編ということになりそうです。
「デビュー戦」は、ある裁判――若い母親による嬰児殺しの事件――の傍聴をするために、勤めを辞めたという女性の話です。つつましく暮らしているらしい彼女は、以前は有能なコピーライターだったようなのですが、職を追われ、いまでは、かつて広告部門にいたデパートに、売り子として再雇用されていました。その店を辞めてしまったのです。傍聴が終われば、求人広告と首っぴきの日が待っています。それでも、裁判のすべてに立ち会おうと決めました。なぜなら、それは彼女の息子だったかもしれない若い弁護士が、初めて立つ法廷だったからです。その若い弁護士の父親も、著名な弁護士で、ヒロインは、いまは父となり成功者となった、かつての若き弁護士の恋人だったのです。
いささかセンチメンタルの度が過ぎると感じる人がいるかもしれませんが、それでも、かつて恋した男の息子に、自分が産んだかもしれない可能性を重ね合わせる女心を、ていねいに描いていく話。そう思わせておいて、彼女の過去を描きすすみ、彼女が優秀なコピーライターでなくなり、生活に色彩を失っていった理由にまで足を踏み入れるに到って、過度なセンチメンタリズムと見えたものが、彼女が追いこまれた悲劇の結果だったことに読者は気づくという仕掛けです。そして、読者がそこまで読み進んだときには、裁判と小説はクライマックスを迎え、長い年月彼女の心を殺してきた悲劇は完成します。
一方の「アンクル・トム」は、比較的北部に近い南部の人口5000人あまり(うち、黒人が1500人くらい)の町に住む、15歳の黒人の少年が語り手です。1954年のブラウン対教育員会裁判の連邦最高裁判決を受けて、公立学校の人種統合を目前にしています。ワシントンのえらい判事さんたちがそう決めたから、黒人と白人が同じ学校に通うことになったのです。20世紀も半ばを迎え、少年は面と向かって厳しい差別を受けることはなく、白人の友だちも多い。うまくやっていく自信もあるのです。それでも、判決に対して「ぶつぶつ文句を言う人」はいて、同じ学校に通うことに一抹の不安がないわけではありません。少年はアメリカンフットボールのエンドをこなせるし、フォワードパスを投げることが出来る。町の名士であるビリー・ウィーヴァー少佐の息子(とは大の仲良し)からは、アメフトのチーム入りを乞われますが、1年目は慎重に様子を見るつもりでいるのです。
この少年には祖父がいて、これがアンクル・トム、つまり、白人にへりくだりおべっかを使うことを処世術にした、老人なのでした。少年はアンクル・トムを「黒人から嫌われるだけじゃなく、まともな白人からも相手にされない」と断言しますが、身についた老人の振るまいは変わりようがありません。自分の孫が白人と同じ学校に行くと知るや、将来合衆国副大統領になるつもりかと皮肉をとばします(副というのがいじましい)。一方で、KKKがリンチに来る(KKKのリンチなんて、少年は見たことも聞いたこともない)と心配するのです。少年には、そうした祖父はズレた老人にしか見えません。学校生活は手探りながら順調に始まっているのに、老人の皮肉や嫌味はエスカレートするばかりです。そして、穏やかに進んでいた統合を壊す事態が起きます。少年の祖父は、半ば故意の早合点というか、わざとと言うか、自分の孫がアメフトのチームのキャプテンになると、白人の集まる酒場にわざわざ足を運んで吹聴したのです。翌日の休み時間、ボール遊びで、それまでは回ってきていた黒人の子たちへのパスが、ぴたりと止まります。祖父はしてやったりの表情です。
少年の眼を通して、黒人の地位向上を自ら壊しているとしか思えない老人の姿を、彼自身の起こす事件――ほとんど破滅に向かっている――を通して描いて、これは間然するところのない短編小説でした。「デビュー戦」と「アンクル・トム」に共通して言えるのは、社会的な弱者として追い込まれた人間のやるせなさであり、その感情が爆発する方向の屈折ぶりです。「蛇どもがやってくる」にも、それはあてはまりますが、面白いミステリを書こうとして、小説としての魅力を重視した成果を、そこには見ることが出来ます。
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社