「敵」は、若い弁護士のラッセルが老判事と、静かに夏の午後を過ごしているところから始まります。戸外で騒ぎが始まり、ラッセルが行ってみると、子どもたちと年輩の男が言い争いになっている。子どもたちのひとりが大切にしていた犬が、男の家の敷地内で死んだらしく、常から男とその家族(いささか偏屈なところのある男は、再婚早々妻が病を得、足の不自由な義理の娘が慣れない家事を切り盛りし、家全体が精神的に余裕がない)は、子どもたちとの間に、小さな諍いが絶えなかったこともあって、男が殺したと子どもたちが非難しているのです。犬は毒殺されていて、死んでからそれほど時間は経っていない。子どもたちは、「ぼくたちの敵」である「このくそじじい」が犬を殺したと信じて疑いません。ラッセルは「いまどきの子供は、どんな教育をうけているんです」と憤ります。そして、子どもたちの担任の女教師と連絡をとり、子どもたち自身の手で真相究明のための捜査を始めさせるのです。これで、その男が犯人だったら、短編小説にはならないわけで、限られた人間関係の中の話ゆえに、犯人そのものに意外性はありませんが、真相があぶり出す人間関係にはドキリとさせるものを含みつつ、事件は解決します。
この小説が応募された1950年とは、どういう年だったのでしょうか? この年、アメリカはとてつもない混乱に陥っていました。50年の2月、ひとりの上院議員――「上院で影の薄い、とるにたらぬ人物のように見え」ていた(R・H・ロービア)ひとりの上院議員が、演説中に突然、国務省内には共産主義者がうようよいて、その名前を自分も国務長官も知っていると発言したのです。その上院議員の名はジョゼフ・R・マッカーシー。とんでもない社会的ヒステリーと、いたちごっこが始まりました。この発言の事実性を調査するための委員会が設置されました。そして、マッカーシーの発言が事実無根であることが判明するころには、マッカーシーは異なる場所、異なる状況で、似たような、しかし微妙に異なった発言をくり返していたのです。マッカーシーに賛成する人も反対する人も、称賛する人も嫌悪する人も、ともに振り回されました。アメリカじゅうで共産主義者と疑われた人々が、赤狩りの査問を受け、そのうちのある人たちは職を失い、ある人たちは投獄されたのです。混乱は数年にわたって続きました。
「敵」は、そのさなかに書かれ、混乱の渦中で活字になりました。人に疑いをかけるには、合理的な根拠が必要であるという、シンプルで力強いメッセイジ――それも、子どもたちに納得させなければならないものとして、そのメッセイジを伴って――この短編は世に出たのです。
「敵」にはマッカーシーのマの字も出て来ません。しかし、マッカーシー旋風に無縁と考える方がどうかしています。考えてもみてください。現在の日本で――たとえば、子どもたちが学校で、稀少な動物の赤ちゃんなり雛なりを育てているとしましょう。ひ弱な動物を外界から守る備えは万全を準備し、先生たちは絶対安全と太鼓判を押し、それを誰もが信じていた。ところが、その絶対安全な備えをかいくぐって、その動物が死んでしまう。事態を前にして「想定外」と弁解をくり返す先生たちに対する子どもたちの目には、にわかに不信の色が浮かぶ……という話を書いたとしましょう。それと書かなくたって、福島第一原発を連想しない人はいないにちがいありません。
しかも、「敵」の持つメッセイジの根本にある、合理的に判断をくだすという態度は、パズルストーリイに、あるいは、もっと広く、ディテクションの小説に、さらに言えば、追跡型のミステリであれ、サスペンス小説であれ、ある種のミステリには共通して広く登場するものでした。もちろん、パズルストーリイには必須といってもいいものです。パズルストーリイがパズルストーリイであるというだけで、社会的な主張にも文学的な主張にもなりうる。「敵」のユニークな点はそこにありました。もちろん、合理的な根拠で犯人を指摘するという話なら、どんなものでもいいわけではありません。それと語らず、一見まったく関係ないように見えながら、マッカーシズムへのアンチとなるには、最適といっていい事件とその解決が配置され、最後に子どもたちがかわす会話の卓抜で粋なことが、この短編を最高の後味にしました。
クイーン自身、数年後に『ガラスの村』という、やはりマッカーシズムへの反応を抜きには考えがたい長編を発表しています。事態がもっともホットな時期に、いち早くヴィヴィッドな反応を示した「敵」に、クイーンが第1席を与えたことは、むしろ当然といえるでしょう。さらに翌年、トマス・フラナガンが「アデスタを吹く冷たい風」を投じて来ました。合理的な解決が必ずしも期待されない(どころか、それが忌避されることさえある)捜査官という、矛盾した状態におかれたヒーローの物語でした。ここでも、パズルストーリイがパズルストーリイであるというだけで、そのことが、ある思想を強烈に主張するに等しくなっていました。ただし、こうした在りようは、そう簡単に成立するものではありません。ラッセル弁護士、テナント少佐ともに、その作品数が少ないのは偶然ではありません。にもかかわらず、「敵」と「アデスタを吹く冷たい風」という稀なはずの作品が、2年連続して書かれ、ともに第1席を受賞しました。パズルストーリイの存在は現代的かつ文学的な意味を持ちうる。ふたつの作品の連続受賞は、そのことをきわめて端的に示した事例となったのです。
とはいえ、シャーロット・アームストロングの短編の中で、「敵」は例外的な存在です。これは、この作家の面白いところで、長編でも代表作の『毒薬の小壜』は、作品内に悪意が存在しないという意味で、例外的な存在でした。短編における彼女の本領は、サスペンス小説やクライムストーリイの形で発揮されていきます。
「あなたならどうしますか?」は、長年想い続けてきた男性が従姉と結婚することがきまったヒロインが、その従姉の死んだはずの前夫を町で見かけるという話です。誰もが、自分の想いびとを取られた腹いせから言っていると考えて、信じてもらえません。リドルストーリイふうの結末のつけ方が巧みでした。
次のコンテスト入選作「ミス・マーフィ」は異色のサスペンス小説で、注目に値します。ミス・マーフィが勤める高校には、不思議な4人組がいます。ある女子生徒ひとりを3人の男子生徒が取り囲む形で隊列を組み、校内を闊歩するのです。具体的には語られませんが、この4人組は非行にあたる行いも過去にはあって、学校側から目をつけられている。しかし、ミス・マーフィには、自分たちの隊列を崩さないことで、彼らが自らの意志を通すところに、ある種の気高さのようなものを感じていて、秘かに好感を抱いています。ある夜、彼女は、病気がちの姉の薬を買うため薬局へ行き、帰りに電話ボックスに閉じ込められてしまいます。おまけに電話は故障中でかけることが出来ません。そこへ車に乗った4人組が通りかかり、彼女のことに気づいているのかいないのか、車を停める。やがて、ミス・マーフィは救出されますが、翌日、彼女が閉じ込められている間に、学校で狼藉が働かれていることが判明します。疑いをかけられた4人組は、アリバイとして電話ボックスに閉じ込められた彼女のことを持ち出したのでした。
殺人はもちろん、事件らしい事件の起こらない話です。4人組の悪行さえ、あからさまには書かれていません。にもかかわらず、他の人びとよりも、彼らに好意を抱いていたはずのミス・マーフィが、決定的な嫌悪を彼らに持つに到って終わる。しかも、彼らのアリバイを裏づけ、彼らに感謝されつつ、そうなってしまう。人間の悪意を些細な事柄から浮かび上がらせる。こののち、短編ミステリがその境界を広げていく過程で、有力な行き方のひとつとなったのが、こうした種類の短編でした。「ミス・マーフィ」は、そのごく初期の一編と言えるでしょう。ただし、この作品が傑作になりそこねたのは、4人組の行動の描写が必ずしも巧くいっていないためで、彼らが目をつけられる理由がいまひとつ呑み込めないせいでしょう。それでも、こうした短編がミステリプロパーの作家によって、ミステリとして書かれ、ミステリの雑誌に発表されたことは記憶にとどめておくことにしましょう。
こうした作品をEQMMに発表していく一方で、アームストロングは、「あほうどり」「死刑執行人とドライヴ」といった中編を、スリックマガジンに発表します。前者はヒュー・ウォルポールの「銀の仮面」を連想させる屈折した悪意、後者はストレイトで強烈な悪意という違いはありますが、どちらも悪意にさらされた主人公を描いたサスペンス小説でした。これらは周到に書かれてはいますが、狙いの単純なサスペンス小説です。長編ミステリのコンデンス版やこうした読み物が、スリックマガジンで好まれるようになったという事実は、戦後アメリカミステリが最盛期を迎え、商業雑誌との親和性も高かったことを示しています。
『あなたならどうしますか?』以後も、アームストロングは、数こそ多くはないようですが、短編ミステリを書いていきます。「当て逃げ」のような凡庸な因果噺(エレノア・サリヴァンのアンソロジーに採られていますが、なぜ、これを選んだのか理解に苦しみます)もあれば、「もう片方の靴」や「旅人のお守り」のようなサスペンス小説もあります。「冷静なるもの」は、誘拐された老婆が、犯人たちよりはるかに冷静で……という、天藤真の『大誘拐』を連想させる一編でした。これらの作品、たいていは、達者に書かれてはいるものの、驚くような作品は見つかりませんでした。そんな中で「タイミングの問題」という66年の作品は、ちょっと毛色が変わったショートショートです。買物に出た女性が、自分の車に乗ろうとしたところで、ナイフを持った男に襲われる。それを撃退する一部始終だけを描いたものですが、買い忘れを気にすることで頭がいっぱいの女性が、なぜ、刃物を帯びた男に、まったく弱気なところを見せなかったのか? その感覚的なオチのつけ方は、このころのミステリマガジン(67年3月号)に独特な難解さです。星新一の「鍵」やロアルド・ダールの「廃墟にて」などとともに、ショートショート特集をになった一編ですが、アームストロングも、あの時代――短編ミステリの黄金時代――を生きたひとりだったのだなと、ちょっと感慨にふけってしまいました。
※EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2013年12月5日)
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社




