駒月雅子 masako Komatsuki
はじめに、カーター・ディクスン『九人と死で十人だ』は1999年に国書刊行会から単行本で刊行され、おかげさまで翌年に重版、さらに今回めでたく文庫化されることになりました。ヘンリ・メリヴェール卿(H・M)シリーズの11作目にあたり、創元推理文庫の同シリーズの新訳としては『黒死荘の殺人』、『殺人者と恐喝者』、『ユダの窓』、『貴婦人として死す』、『かくして殺人へ』に続く六作目です。このうち『貴婦人として死す』と『かくして殺人へ』も第二次世界大戦前夜から戦中にかけての1940年代前半に発表されましたが、戦争の不吉な影をもっとも強調しているのは本書といえるでしょう。それこそが重要な舞台装置になっているのです。
このことはH・Mのいつになく真剣な態度にも反映されています。クローズドサークルである船上で発生した殺人事件、灯火管制下の暗い船内に潜む残虐な犯人、潜水艦攻撃でいつ木っ端みじんになるかわからない危険水域の航行。二重、三重の恐怖に取り巻かれているなか、H・Mが他の船客に厳しく自覚を促す一幕も。乗り合わせた渡航者たちはそれぞれ複雑な事情を抱えているらしく、緊迫した船内で不協和音を奏でており、それも全体に漂う独特の不穏な雰囲気に寄与しています。
そんなわけで、つかみどころのない人々に囲まれていっそう真面目に見えるH・Mは、いわば灯台のような存在。彼の魅力といえば、天才的な洞察力はもちろん、なにかの皮を踏んづけてすってこんころりんしたり、車輪がついているとはいえ本来スピードを出すべきではないものに乗って暴走したりする茶目っ気ですが、本書ではかき回し役というより、とりまとめ役に近いでしょう。怒りんぼなのは相変わらずですが、もうろくしただの、老いぼれだのと自嘲しながらも、身体を張って事件に挑む姿は感動ものです。若い人たちへの粋な計らいも見事としかいいようがありません。
単行本を全面改稿するにあたって、人名の日本語表記をいくつか変更しました。また、当時とは段違いのインターネット環境で調査を徹底的にやり直し、適宜修正や加筆をおこなっています。昔のファイルを掘り返すのは楽しい作業でした。主に勘と運と体力を頼りに集め回った資料(もちろん紙)は、客船の見取り図から海洋航海用語に関するメモ、論文、短編、楽譜までいろいろ。懐かしさについ読み耽ったり歌ったりしてしまいました。ちなみに、本書でラスロップがピアノを弾きながら美声を披露する曲《遙かなるワバッシュ川の堤にて》は下記のウェブサイトで聴くことができます。ページを下へスクロールしたあと、歌詞の右横にある“On the Bank of Wabash, Far Away”(1902)のスピーカーアイコンをクリックしてください。
On the Banks of the Wabash, Far Away
この夏、クルーズに参加なさる予定の皆さん、どうぞ安全に心地よく過ごされますように。わたしには船旅の経験がありませんので、いつか大西洋を航海したことのある方に会って、ぜひお話をうかがいたいものです。できれば、本書の訳註に出てくるF・マリオン・クロフォード作『上段寝台』のようなぞっとする怪談を……
(2018年7月27日)
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