オーリエラントの五作めにあたる本書は、これまでの四作から時代をだいぶ遡)ってコンスル帝国建国前が舞台である。この時代を選んだのは、ある番組を観たことがきっかけだったらしいと、ずっとあとになってから気がついた。うすらぼんやりである。(ちなみに、“うすらぼんやり”という言葉は正しくない。“うすぼんやり”が正しい日本語であるそうだが、わたしのことを述べるのみにおいては、“ら”が入ったほうがいかにもそれらしいので、このまま使わせていただきます)
 筆者本人にも、その番組から得た情報が、この『沈黙の書』の根幹とどうつながっているのかははっきりしない。だが、確かにどこかでつながっている。
 それは、何年か前に「NHKスペシャル」で放映された。人類の起源と、なぜホモ・サピエンスが淘汰を生き残って現在に至るのかを説いていた。ご存知のように、人類はアフリカで発祥し、その遠い地から何十万年の時を経て、中央アジア、ヨーロッパ、東アジア、果てはアメリカ大陸の最南端まで広がったという説が有力である。人類がそうしたロング・ジャーニーをつづけることができた理由、ホモ・サピエンスという種をつないでこられた理由の一つに、筆者の意識はつかまえられてしまった。
 はじめに、血筋で小さなグループができる。グループ同士が出会えば必ず摩擦(まさつ)が起きる。摩擦から戦闘へと発展することも多かっただろう。こうして、人間の歴史の中では戦争がくりかえされてきた。大きな権力やより豊かな暮らしを求め、とどまることのない欲望にふりまわされるのが人間、と戦争の歴史は語り、わたしたちもそれが常識だと思っていた。
 ところが。番組は、意外な結論を提示していた。ネアンデルタール人のように、身体が大きく、桁違いの筋力を有し、身内を葬るに花を手向ける情と知性を持った種でも滅びたというのに、身体が小さく、筋力もさほどないホモ・サピエンスが生き延びられた理由のひとつが、「まったく見ず知らずの相手に手をさしのべることができたから」だというのである。
 はじめて出くわした相手に、貴重な食料を分け与え、仲間として受けいれる。
 それは、現代においてもなかなかむずかしいことだ。相手がどんな人間であるかわからないのに、我が家に招き入れるなんて、とんでもない。
 映像では、食料の象徴としての麦の穂をさしだしていた。緊張したおももちで。相手も緊張していたが、やがて表情を緩めてうけとった。
 実際にどうであったかはわからない。だが、その行為自体が、「人は相手のことを思いやり、共生の意志があったから存続してこられた」ことの象徴のようだった。

 三・一一のあと、宮城県では、被害に遭われたお母さん方が編み物をはじめた。みんなで集ってめいめいに編み針を動かし、物を作る活動である。心に深い傷を負った人々のなかには、気の乗らない方も当然あっただろう。それでもつづけていくうちに、仲間との会話、毛糸の手ざわり、物を作りあげる喜び、無心に編み針を動かしていく行為などによって、少しずつ前進していく気持ちが生まれたという。
 そうして、その気持ちに拍車をかけたのは、“人のために作る”ことだった。海外の山岳部に住む子どもたちのために編み、熊本震災の人々に送るために編む。作品を身につけた人々の笑顔の写真をもらって、人のために役立つという喜びと生きがいを得たという。
 自分も深い傷を負っているにもかかわらず、“他人のために”何かをする、それが大いなる喜びになる――ホモ・サピエンスの本質は、そこなのだ、と思った。


 さて、『夜の写本師』『魔道師の月』『太陽の石』と書いてきたあと、編集の小林甘奈さんから、
「そろそろこの世界に名前をつけませんか」
と提案をいただいた。
「シリーズ名として使いたいので、名前をつけましょう」
 先にも記したが、わたしの基盤をなしているもののひとつは、“うすらぼんやり”である。仏教では、二元を越えたところにある“玄”と同義という説もあるらしいけれど、そんな難しいことを考えないのが、うすらぼんやりの長所(?)であろう。それゆえ、提案があったときも、ぼんやりと「はあい」と返事をしてしまった。返事をしてから、あわてて考えた。
『魔道師の月』『太陽の石』は世界に冠たるコンスル帝国を舞台にしている。しかし『夜の写本師』はちょっと違う。だから、〈コンスル帝国〉シリーズとするには抵抗があった。
 苦労して作成していただいた地図をつらつらと眺める。北はメルサント、ノルサント、西はデイサンダーの生まれた岬、東はイスリルまで至り南はエズキウムをはみ出してパドゥキア、ファナク、マードラと、暗黒魔法の跋扈する地にまで至る。これは、コンスル帝国の領域にはとどまらない、といまさらながらに気がついた。
 いうなれば、大地すべての物語。地図の上に限らず、過去の記録、幻影や予言、吟遊詩人の語る世界であり、登場人物の心を象徴している世界でもある。さらに言えば、架空であるものの、現在・現実の世界とどこかでつながっており、つながっているにもかかわらず、その隔壁をなしている薄皮一枚は、決して破れることがない。つないでいるのは、無意識の暗黒世界から這いあがってきた何かを、知性の光の下に照らしうるもの――言語、だろうか。
 と、その、“言葉”に書いてみれば、整然たる思考をめぐらせたかのようだが、その時の頭の中ではあっちで稲光、こっちで雷鳴、黒雲ももくもくと湧きだしている有様。要するに直感。その直感の雲にちょいと突きだしていた何かの蔓(つる)をためしに引っ張ってみると、旧約聖書の『創世記』の冒頭、「光あれ」があらわれた。神の言われた“光”を“言葉”だと解釈する人もいることを思いだしながら、さらに引っ張れば、“全地” the earth という単語が目に飛びこんできた。全地、ですか。同義語はないかしら。
 便利な世の中である。昔は言葉ひとつをさがして図書館の本をあちこちひっくりかえさなければならなかった。今は、それが英語であろうがアラビア語であろうがタガログ語であろうが、ネット検索すればあっという間である。(その情報が正確であるか否かを、数箇所回って確かめなければならないとしても)
 日本語で「全土」、英語でwhole land がヒットした。(文章の中で、ヒットしただの、ゲットしただの、ハットをかぶるだの、英語交じりがつかえるとはなんと楽なことだろう。物語の中で、帽子一つを説明するのに、キャップ、ハット、ベレー帽、鹿うち(シャーロック)帽という言葉をつかうことができず、悩みに悩んでいる身にとって、実に楽ちんな――余談です。元に戻ろう)
 whole land 、あまねく大地、大地としての質感を持ち、かつ天空まで連想させ、海と風も含んだ言葉。だが、カタカナにすると――あくまで個人の感想です――、なんだかまぬけに感じられる。ホーとのばす音がフールと連結していて、音としてもしまりがない。それならば、Hを発音しないでオーとしてみる。声に出せばオールランド、ルとラがつながっていて言いにくい。でもこの音がおもしろい。しばらく舌の上で転がして、オルリエルラントとなった。おお、装飾過多の蔦模様のようだ。ちょっと葉を落としてみる。
 オーリエラント。
 できました。すべての大地をあらわす言葉、大切な物が行き渡る世界をあらわす言葉でございまする。
 かくしてこのシリーズには、〈オーリエラント〉という名前がつけられることとなった。

 見ず知らずの他人に麦の穂を差し出したわれらが祖先から綿々とうけつがれてきた純粋なる行為、思いやりといったものを、さらに複雑化していくであろう次の世代にひきついでいくには、行為を裏打ちする言葉が重要になる。ところが、言葉にも闇の部分があって、ときにわたしたちを傷つける。そうしてなぜか、身体の傷以上にふさがるのに時間がかかる。不思議なことに、そして昔から言われてきたように、発した方にも聞いた方にも傷がつくのだ。また、その気がないのにもかかわらず、誤解によって闇に落とされてしまうこともある。諸刃の剣であり、癒しの特効薬でもある言葉を、大事に扱わなければと、日々自戒するこの頃である。
 最後に。
 言葉のまとまりである「書物」を作りあげるのに尽力くださっているすべての人々に感謝申しあげます。一冊の本が世に出るために、いったい何人の人の努力と忍耐を要しているかを考えると、感謝の言葉ではとうてい足りないのだけれど。
 また、この本を通して、いっとき魔法の国に遊んだ読者の皆様が、また新たな日を希望を持って迎えることができますように。いつも本当に、ありがとうございます。
 
二〇一七年 五月 ホトトギスの忍び音を聞いた朝
乾石智子



(2017年7月13日)