枇谷玲子 reiko HIDANI
今年三月、わたしは『ホテル1222』の翻訳について、ノルウェー人翻訳家のアンネ・ランデ・ペータスさんにスカイプで相談していました。パソコン画面の前のアンネさんが懐かしそうに目を細めています。子どもの頃、物語の舞台のフィンセの近くで暮らしていたことがあり、フィンセにはご家族でスキーに行ったことがあるそうです。一方わたしはフィンセに行ったことはありませんでした。日本人観光客でオスロからベルゲンまでの列車の窓からフィンセ駅を見たことはある人はいても、そこで降りたことがある人は多くないのではないでしょうか。ノルウェーの他の場所でスキーをしたことはありましたが、フィンセは地元のスキー上級者がよく行く場所で、わたしには無緑でした。原書の後書きを読むに、作者のアンネ・ホルトさんもフィンセに足を運び、ミステリの部分だけでなく、その土地や生活を描くことにも力を注いだようです。物語の舞台をこの目で見てみたい、そんな思いがわたしの胸に芽生えました。
はやる気持ちを抑えきれず、イースターまっただ中ノルウェーに着くよう旅行の手配をしたわたしに、アンネさんは言いました。「イースター休みにノルウェー人はミステリをたくさん読むのよ。出版社はこぞってミステリを出すの。そんな時期にミステリの舞台を見に行くなんて、最高じゃない!」
アムステルダム経由でコペンハーゲンに行き、そこから船でオスロにやって来たわたしは、まずオスロ駅の書店で『ネミ』という漫画を見つけ、飛び上がります。『ホテル1222』にこの『ネミ』に似た全身真っ黒のゴス・ファッションのヴェロニカという若い女の人が登場するからです。
そうしてオスロで数日を過ごした後の四月五日、朝の八時二十五分、オスロ発ベルゲン行きの列車に乗りこんだのです。予約していた座席に座ると暑くなってきて、スノーボード・ウェアの上着を脱ぎ、コート掛けに掛けます。 歩き出したわたしは、車両前方に車椅子を止めるスペースがあることに気づきました。
主人公ハンネはこの位置に座っていたのでしょう。この線にはフィンセの他にもゴル、オール、ヤイロ、ヴォスなど、スキーを楽しめる駅がたくさんあるため、乗客の多くはスキー用具を持って列車に乗り込みます。用具を置くのは、ガラスのドアのすぐ内側の大型荷物置場です。ストックやスキー板を紐やバンドで簡単にまとめただけの人も。列車の脱線事故の場面で、この大型荷物置場にきちんと置かずに乗車席に持ちこまれたストックが列車前方の主人公ハンネの太ももに突き刺さったのは、袋に入れておかなかったからでしょう。
車両を移動していくと、食堂車があらわれました。
メニューには〈ラプスカウス〉の文字が。じゃがいもなどの野菜や肉をとろとろになるまで煮込んだノルウェー伝統の白いスープです。作中には〈スルスケ・スープ〉も出てきます。そのスープにはある歴史が隠されているそうです。一八九四年にオスロ=ベルゲン間の鉄道建設が着工されました。作業は全線開業に至る一九〇九年まで十五年近くに及びました。港町のオスロから今のフィンセ駅がある場所から西十一キロメートルにある標高千三百一メートルの最高地点さを経由し港町のベルゲンまで鉄道を敷くのは当時狂気の沙汰と考えられていました。
急勾配の険しい山々にトンネルを掘らなくてはなりませんし、冬は大雪との闘いです。この過酷な作業に当たった総計一万五千人にはノルウェー人だけではなく、他国からの出稼ぎ労働者も多くいました。スルスケ・スープはこの鉄道建設員(ラッラル)が食べていたことで有名なスープです。
列車は六駅目のヒューネフォス、十一駅目のヤイロ、十二駅目のウスタオセットを過ぎ、十三駅目のハウガストゥル駅へ。そこでわたしは窓の外を見つめます。このハウガストゥル駅から線路沿いに鉄道建設員(ラッラル)通りがあるはずなのです。この通りはハウガストゥル駅の二十七キロ先のフィンセ駅、さらにそこから二十一キロ先のハリングスカイド駅へと続いているはずです。でも見えるのは真っ白な雪ばかり。
フィンセへの唯一の道は深い雪の下のようです。アンネ・ホルトさんがインタビューで現代社会の中に古典的ミステリに出てくるような密室状態を本作で再現したと答えていましたが、確かに冬のフィンセで脱線事故で列車が止まった上、歴史的な猛吹雪が吹いたら、この地は隔絶された“密室”と化すことでしょう。
列車が最後トンネルをくぐると、ハリングスカルヴ山脈とハルダンゲル氷河の間に小さな駅があらわれました。オスロ駅出発から四時間八分後の昼の十二時三十三分にわたしは、ホームに降り立ちました。
西のベルゲン方向へとさらに進んでいく列車を見送ります。物語ではこの最後尾に謎の車両が接続されていたのか、と考えながら。
そして駅の一部ではないかと思う程歩いてすぐのところに、ホテル〈フィンセ1222〉が建っていました。
小さなガラス窓のついたドアを開け、中に入ると、右手に売店が。
さらにドアを開けると、左手のフロントでホテルの従業員の皆さんが優しい笑顔で迎えてくれました。フロントの前にはロビーが広がっています。
真っ白なフィンセ湖を望む南西向きの窓に沿って、長い木の机が置かれています。
窓ガラスは三重になっているはずです。ハンネたちがホテルに避難して数日後のある日の気温はマイナス二十六度だったとありました。物語中アドリアンという少年がよくその窓台に座っていました。車椅子のハンネはロビーとフロントの間辺りに車椅子を止め、アドリアンと話をしたり、避難者たちの話しに耳を傾けたりするのです。
ロビーの隣には作中で〈ミリバール〉と呼ばれていたバーカウンターが。カウンターの向こうのドアは、調理場につながっているはずです。
バーを通り過ぎ、階段を三段下りると、椅子やテーブルがたくさん置かれたスペースが広がっています。この段差のせいで車椅子のハンネは、ミリバールより先に自由に行き来できなかったのでしょう。
ホテルの人に聞くと、その場所は昔から〈セント・ポールの酒場〉と呼ばれているそうです。
さらにその奥には作品中で〈暖炉のある部屋〉、〈氷河の部屋〉などと呼ばれていた部屋が。外はテラスになっています。
作中で南向きのこの大きな窓が猛吹雪を受ける様や窓の外の雪景色が北国ならではの素晴らしい表現で描写されていますので、楽しみにしていてください。
フロントに引き返したわたしは階段を上ります。
扉を開け廊下を進み、扉を開け――廊下と居室はどこまでも続いています。
各部屋にはノルウェーの歴史上の人物の名前がつけられています。
中にはシャワールームとベッドがありました。窓からフィンセ湖が見渡せます。軒から日本では見たことのないほど巨大な氷柱が垂れ下がっています。
部屋に荷物を置き、探索再開です。階段を下り地下に行くと、そこにも部屋やら洗濯物の乾燥室やら、従業員がまかないを食べる部屋やら作業部屋やら貯蔵庫やらが一杯あります。
また部屋は屋根裏にもありました。
アンネ・ホルトさんが「たくさんの隠し部屋と狭い忘れられた廊下のある不気味な館」と形容するのもうなずけます。ここで誰かがいなくなったら、探すのは一苦労でしょう。死角もたくさんあり、人を殺すにはうってつけの場所……そんな言葉が頭をかすめ、背筋が凍ります。
再びフロントに戻り階段を下りると、地下一階に広い部屋が。
隅の本棚には本がたくさん並べられています。南極点に到達する以前に、この雪原で訓練を積んだといわれる探検家、ローアル・アムンセンの写真も飾ってありました。
作品の冒頭で弁護士のガイルとともにハンネたちを助けてくれたヨハンが主催していた自然体験ツアーは恐らくフロントにちらしが置いてあったYourwayがモデルとなっているのでしょう。観光客向けにアムンセンの探検ツアーや犬ぞり体験ツアー行っているようです。
部屋を出て階段を上がり、廊下を行くと、大きな扉があらわれました。
扉の向こうにはホテルとアパートメントハウスをつなぐ古い車両が。鉄道の開通当初、雪で列車が止まる恐れがあったため、乗客が身を寄せられるように、また鉄道駅、観光地としてこの町が栄えるようにと、このホテルが建てられたようですが、アンネ・ホルトによるとこの「吊るされた列車はフィンセの人たちのノルウェー国鉄に対する敬意のあらわれ」だそうです。
ドアの先にはアパートメントハウスがありました。アパートメントハウスは個人が買って所有しているものだそうです。一番上の階に行くと、廊下沿いにドアが三つありました。作中この最上階の廊下で、ある騒動が起きるのです。ドアの向こうにはそれぞれキッチンとバスルームと部屋があるようです。所有者の多くはここを冬の別荘として使っているとのこと。時には友人に貸したり、広告を出して一定期間、賃貸したりすることもあるようです。
そうこうするうちにあっという間に夕食の時間がやって来ました。フロント係に促されるまま、ロビーからミリバールに進み、階段を数段下り、セント・ポールの酒場を越えると、一番奥の〈氷河の部屋〉(〈暖炉のある部屋〉とも呼ばれています)の左手の扉がいつの間にか開けられていることに気づきました。
中をのぞくと、グラスや食器が置かれたテーブルがいくつもありました。食事部屋です。
窓の外にはフィンセ湖が広がっています。テーブルにつくと、一人の女性が笑顔を振りまきながら飲み物の注文を聞きに来ました。飲み物や食事を運んでくる度、「水はありますか?」、「パンのお代わりは?」とこまめに聞いてくれます。
作中で小人症の医師、マグヌス・ストレングが、〈フィンセ1222〉はこの国で一番もてなしの心に溢れ、魅力的なホテルだと断言していたのを思い出したわたしは、「マグヌス、あなたの言う通りかもね」と心の中でつぶやきました。でもすぐにこの食事部屋とバーの間にある調理場に凍死体が置かれていたのだと思い出し、スプーンを動かす手が止まってしまいました。
翌日わたしはホテルの人の助けを借りて、荷受場所の鉄の扉を見ることができました。
食材を運び入れるのに使われているその場所にも一時死体が置かれていたはずです。
ホテルの脇にはスノーモービルやそりが置いてありました。
ホテルの人たちかアパートメントハウスの所有者の持ち物なのでしょう。
フィンセ湖を見ると、スノーカイトで遊ぶ人、スキーで歩く家族連れの姿が。
丘の上で奇妙に傾いて建つ〈フィンセ1222〉を眺めていると、日本の読者の皆さんに早く作品を読んでもらいたいという思いが膨らんでいきます。
『ホテル1222』は単なるご当地案内に留まらず、ミステリとして大変面白い作品だからです。東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』とともにエドガー賞にもノミネートされています。 オスロ市警に勤めていたことをガイルらに知られ、犯人探しの協力を求められた当初、警察に任せるべきだと断っていたハンネも、事件を追ううちにポアロを気取ってある名台詞が口をついて出てくるまでに犯人探しにのめりこんでいきます。また事件の進展をアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』や、ロアルド・ダール短編集『あなたに似た人』の「おとなしい凶器」になぞらえるところからも、ミステリ小説マニアのアンネ・ホルトさんの情熱や遊び心が感じられます。
ハンネは救助や警察が吹雪でなかなか来ない中、『CSI:科学捜査班』とは対極の古典的な手法で、古典的な捜査を進めます。専門の機器はないため、捜査には何とブランケットやキャベツ、肉の中心温度計まで飛び出します。単純ではありますが、数学的な計算や統計なども出てきます。現場を離れて年月がたっているため、もちろん全ての捜査が上手く進むわけではないのですが、そこもリアリティに満ちています。
ホテルに戻ったわたしがフロントの前をまたうろうろしはじめると、長机の向こうの出窓に座っていた青年が話しかけてきました。作中に出てくる少年、アドリアンもその出窓によく座っていましたが、もちろんアドリアンではありません。昨日のフロント係です。
なぜ普段着なのか聞くと、ここフィンセはオスロから列車でおよそ四時間、ベルゲンまでも二時間半ほどかかり遠いですし、オスロ行きの列車もベルゲン行きの列車もともに日に四本程度しか出ていないので、従業員の中には、シーズン中はここフィンセに住み込んでいる人もいて、仕事のない休みの日は普段着で職場に遊びに来て、仲間と話をしたり、スキーなどのアウトドア・ライフを楽しんだりするのだという答えが返ってきました。その後、フロント脇の本棚に飾られたスター・ウォーズのメイキング本を見せてくれました。
ここフィンセは『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』のロケ地としても有名で、今でもファンがこの地を訪れるのだそうです。また本棚には『ホテル1222』の原書もありました。彼はさらにこんな話をしてくれました。南極を獲得しようと目論んでいたナチス・ドイツは、第二次世界大戦中に占領していたノルウェーのうち、ここフィンセに目をつけ、ハルダンゲル氷河の上に滑走路を作ろうとしたのだと。
ナチス・ドイツはそこに軍事基地を築いたのですが、結局滑走路を作る計画は上手くいかず、基地は戦後、ノルウェーの観光協会が引き継ぎ、現在ではフィンセ別荘小屋(ヒュッテ)として使われているそうです。そういえばホテルの前に別荘小屋の看板がいくつもありました。
物語の中で乗客のうち、若い人や傷を負っていない人は、これらの別荘小屋に避難しました。残念ながらこのフィンセ別荘小屋は入っていませんでしたが。この牧歌的な小さな国もいつ世界情勢の渦中に巻き込まれるか分からないということをノルウェーの人たちは、大国の荒波にもまれた過去の歴史から知っているのかもしれません。さらに青年はホテルの女性支配人、ベーリット・トゥヴァッラのモデルとなった人が今も働いているんだよ、と言って、フロントの奥のドアに向かって「マーレン」と叫びかけはじめました。確かそこは事務所のはず。物語の中で事務所にも一時死体が置いてあったのを思い出し、わたしがごくりと唾を呑んでいると、ドアの向こうからスキーウェア姿の女性がにこやかにあらわれました。作者後書きに出てくるマーレン・スケルデさんです。マーレンさんはアンネ・ホルトさんが、ここフィンセに別荘小屋を持っているいとこを訪ねてやって来たのだと教えてくださいました。海辺の町ベルゲン育ちのアンネ・ホルトさんは、いとこらの案内でフィンセの山での生活を体験し、途中この〈フィンセ1222〉にも立ち寄られ、マーリンさんたちの案内も受けたのだそうです。
「あなたがベーリットのモデルなんですね」とわたしが言うと、マーレンさんは「まあそうも言えるかもしれませんね」とちょっと照れくさそうに笑った後、「誇らしく思っています」と言いました。この本が現地で出版された折には、版元であるPirat社の人たちとアンネ・ホルトさんがここで出版記念の祝賀会を開いたのだとも嬉しそうに話してくださいました。さばさばしていて、凜としているけれど、ちょっと控えめなところもあって親切な彼女と話すうちに、わたしの心の中で極限状態の中でももてなしの心を忘れず、時に毅然とした態度を示す芯の強さを持った女性支配人、ベーリット・トゥヴァッラが生き生きと動き出すのでした。
一泊二日の滞在を終えたわたしは、ホテルの人たちにお礼を言うと、列車に乗り込みます。
列車は平地に作られた数十メートルの短い灰色のトンネルを抜け、フィンセヌット山を貫くベルゲン線で最長の十キロと六百メートルのフィンセ・トンネルへと入っていきます。
作中で列車はこのトンネルの入り口から十メートルほどのところで脱線し、トンネルの壁に激突し、止まってしまうのです。実際、ニ〇〇四年にこのトンネルは長すぎる上、避難経路や外部との連絡手段が十分に講じられていないことから危険であるという調査報告が発表されたようです。
しかしその日、列車は脱線することなく、アンネ・ホルトさんが育った港町ベルゲンへと無事わたしを運んでくれました。ベルゲン空港から日本に戻ると、翌日から早速再度原稿に向かいました。フィンセでの思い出を振り返りながら。
(2015年10月)
■ 枇谷玲子(ひだに・れいこ)
1980年富山生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学)卒業。主な訳書にアンネ・ホルト『凍える街 』、フィン・セッテホルム『カンヴァスの向こう側』、シモン・ストランゲル『このTシャツは児童労働で作られました。』などがある。ファンタジーの専門出版社|東京創元社