Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

高城高『墓標なき墓場』あとがき[2008年2月]


霧と原野へのノスタルジア
幻の長編を初文庫化! 〈高城高全集〉第1巻
(08年2月刊『墓標なき墓場』あとがき[全文])

高城 高 kou KOUJOU

 

 原風景のようなものがある。四歳か五歳の冬、私は小さなスキーをはいて函館の五稜郭の土手に立っていた。そのころ、この城跡の周辺には家が一軒もなく、原野の白い世界が広がっているだけだった。やがて濠端の道をスキーをつけた十数人の若者が走ってくる。先頭にいるのは、当時函館商業の教諭でスキー部長をしていた私の父である。ストックを力強く突いて濠を一周するコースを遠ざかってゆくのを見送ると、私はまた低い土手を滑り降りたり登ったりして待っている。何周も回っているうち、父の厚い木綿のアノラックからも生徒の黒い服からも湯気が立っているのが見えてくる。私はすっかり飽きてしまって、早く終わらないかなと寒さに震えているのだった。
 その後、父の転勤で私は仙台に移転し、小学校から大学まで教育は仙台で受けた。中学生時代から新聞記者を目指していた私は昭和32(1957)年卒業後、世界につながる東京に魅力はあったが、結局は北海道の新聞社に就職を決めた。寒さと雪への志向は函館時代に刷り込まれたのだろうか。今でも北海道を離れられず、都市化で暖かく、雪が少なくなった札幌を嘆きながらも毎年、春が来るとまた次の冬が来るのを楽しみにしているのである。
 入社して最初に配属されたのは釧路支社で、市内ではその夏、五所平之助監督の映画『挽歌』のロケが行われていた。前の年、ベストセラーとなり、新聞広告、ファッションにまで話題が広がった原作の小説を書いた原田康子さんは先輩記者の奥さんであった。
 翌年の春のことだと思うが、旧『宝石』誌の編集長になられた江戸川乱歩氏が、私が三年前の学生時代、同誌の新人賞を受賞したことを思い出されて何か書いてみないかと声をかけられたのだった。本州とは全く違う道東の街や風土に魅力を感じていた私は当然、この地を舞台に書くことになった。
 六月から八月の釧路は霧の季節である。海霧と呼んでいるこの地方の霧は、現在はすっかり都市化で薄くなったというが、普通の霧がコンソメだとするならポタージュといった感じで、外へ出ると上着がじっとり濡れて重くなってしまう。家庭では夏でもストーブを焚いていた。
 当時の釧路を支えていたのは、最新の技術で海底炭を掘っていた炭鉱と、サンマ船、独航船の水揚げであった。夏から秋のサンマの漁期、港のある釧路川河口は二重三重に繋留されたサンマ船に占領される。市内のキャバレーも腹巻に千円札の束を入れた漁船員だけがお客さんで、彼らはテーブルにサントリーオールドのボトルを置いてゴム長姿で女たちと踊っていた。中には、札束とともに鯖裂きマキリを入れているものもいる。釧路は物騒だから、というのである。
 勤務していた支社は一年ほど後に移転新築されるまで、戦前まであった地方新聞の建物に入っていた。煉瓦造り二階建ての社屋には、かつて石川啄木がわずかの間勤務していた。その二階で夜勤をしているとだれかが「またやってるぞ」という。裏の窓からのぞくと、路地裏の暗い街灯の下でにらみ合っている男二人は、霧にかすんで手にしている鯖裂きまでは見えない。と、みる間に二つの影が一つになり、うつ伏せに崩れた一人を残して相手は逃げ去った。「おい、誰か救急車を呼んでやれよ」で、みな仕事に戻る。死んだのは本州の漁船員、犯人は朝になれば船に乗ってしまう。朝刊に入れるほどのものでなく、夕刊で十行足らずの記事だ。
 旧『宝石』誌を中心に道東を舞台とした短編小説を書いていた私が、このたった一つの長編を書いたきっかけは四十数年たった今、どうも思い出せない。当時は東京から北海道は遠く、編集者とのやり取りはすべて手紙だったはずだが、お世話になったはずの編集者の記憶も申し訳ないが定かでないのだ。
 釧路を拠点に、根室、網走、阿寒などを歩き回っていた。つてを頼ってさまざまな人に会ってその土地の自然や開拓の話などを聞き、月賦で買ったオリンパスペンで珍しいと感じた風景などを撮り溜めていた。だから、転勤で釧路を離れてから書かれたこの長編も、ごく自然に釧路、根室の港と船が題材になって生まれたのだろうと思う。
 いま読み返して、推理小説としての自己評価は文字にするも恥ずかしいが、ここに描かれている霧に包まれた海と原野の風景、そしてそこに生きる人たちの必死な営みは、この通りのものであった。なによりも、男も女も気が荒く、ぶっきらぼうな言葉遣いで、それとは裏腹な不器用にみせる厚い人情が今となっては懐かしい。新聞社の地方支局での日常の生活、そして今とは違って警察の広報などなく、事件の発生から容疑者逮捕まで記者が足と勘で掴まねばならなかった時代も記録されているはずである。若い時の筆力不足でそれらは十分に描き切ってはいないが、感じ取っていただきたいと願っている。

(2008年2月)

高城高(こうじょう・こう)
1935年北海道函館市生まれ。東北大学文学部在学中の1955年、日本ハードボイルドの嚆矢とされる『宝石』懸賞入選作「X橋付近」でデビュー。大学卒業後は北海道新聞社に勤めながら執筆を続けたが、やがて沈黙。2006年『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』で復活を遂げた。他の著書に『微かなる弔鐘』。08年、『墓標なき墓場』を第1巻とする〈高城高全集〉全3巻(創元推理文庫)の刊行を開始する。

中町信『三幕の殺意』あとがき[2008年2月]


本編は、最後の三行に、
ちょっとしたひねりを加えてあるのだ。

長編デビューを飾る以前に発表された中編を基に、
新たな趣向を盛った7年ぶりの新作長編。
(08年1月刊『三幕の殺意』あとがき[全文])

中町 信 shin NAKAMACHI

 

 本編は今から40年前――昭和43年に双葉社の雑誌〈推理ストーリー〉に掲載された作品を、大幅に加筆、改稿し、長編化したものである。
 その作品のタイトルは、「湖畔に死す」。枚数は200余枚だった。
 3年ほど前に、東京創元社の戸川安宣氏から、この中編を読んでみたいので掲載誌を送ってほしい、という連絡をもらった。なにせかなり昔の雑誌なので、書斎から見つけ出すのに苦労したが、手にした代物は思ったとおりページが黄ばんでいた。おまけに私の作品は四段組みの小活字だったので、さらに読みにくくなっている。
 大ざっぱにページを繰ってみたが、読み返すまでもなく、出来の悪い作品だという記憶は残っていた。だから、作品を一読した戸川氏から、200枚ほど書き足して長編化してほしいと言われたときは、いささか驚き、そして戸惑った。私が長編化にあまり積極的でなかったのは、不備な凡作であるという理由のほかに、そんな作品にメスを入れる多大な労苦に尻込みしてしまったためである。
 戸川氏はその作品を三つの節に分け、きれいにプリントアウトされたが、あの古ぼけた雑誌の読みにくい小活字を思うにつけ、その作業たるや大変なものだったに違いない。とにかく、私は気持ちを新たにし、加筆、改稿にとっかかった。二度にわたり加筆をし、ようやく入稿の運びとなったときには、その内容の良否はともかく、よくぞやったりと、いささか誇らしい気持ちになったものだ。
 かの鮎川哲也氏は、短編を手際よく長編化する達人だったが、私はやはりこの手の仕事は不得手で、戸川氏の大きなご助力と的確なアドバイスがなかったら、おそらく途中で投げ出していたことだろう。
 さて、本編の舞台は、雪降りしきる尾瀬沼畔の山小屋である。だが、私は雪の尾瀬は知らない。知っているのは、さわやかな7月、8月の夏場の尾瀬である。
 私は大学2年のとき――つまり、昭和30年の夏休みの期間、尾瀬沼畔にある長蔵小屋でアルバイトをしたが、それはさらに翌年、翌々年と三年間続いた。三食付きで日給が250円。当時のバイト代としては下(した)のランクだったが、尾瀬という魅惑的なエリアが、それを補って余りあった。
 バイトは男女の大学生、女子高校生ら20人近くいて、女性は主として台所と事務、男性は本館、バンガロー事務所、湖畔の船着場のある休憩所の三つを輪番制で受け持っていた。やはり一番骨が折れたのは本館づとめで、早朝から夜まで大旅館の番頭さん、仲居さんなみの仕事をこなさねばならなかったからだ。
 夏場の本館の宿泊は、すべて予約制で、一階と二階の客室は連日超満員の盛況ぶりだった。予約組が重なったピーク時には、客室の畳一帖に2人――つまり、一枚の敷き蒲団に2人が抱き合って寝てもらうという、痛ましい処置を取らざるを得ない事態が何日か続いた。
 これだけ部屋に詰め込まれたら、蒲団に横になれる頭かずはおのずと限られてくる。そうなれば、蒲団からはみ出したお客は、畳にあぐらをかき、壁に寄りかかって眠るしかなく、私もそんな悲壮な現場を何度か目にしていた。しかし、こんな目にあわされても、かつて一度も苦情を申し出たお客はなかったそうで、まさに信じがたい話である。
 週に一、二度、自由時間がもらえ、私はそんな折、大江湿原や尾瀬ヶ原を散策し、燧ヶ岳には二度も登った。そして最初の年に、手漕(こ)ぎの渡し船(和船)の漕ぎ方を習ったのである。「櫂(かい)は三年 櫓(ろ)は三月(みつき)」というが、和船の漕ぎ方を、私は3か月ではなく、たった3日で習得してしまった。いや、マスターしたものと錯覚していたのである。
 思いあがった私はある日、都合の悪くなった船頭さんに代わって、対岸の沼尻(ぬまじり)小屋の船着場に向けて、定期の渡し舟を勇躍漕ぎ出したのである。乗船客は、わずか5人。船着場をスタートしてしばらくは、まったく順調だった。ところが中間地点近くにさしかかったとき、いきなり全身に痙攣(けいれん)するような疲れを感じ、櫓をあやつる両手の動きが急に緩慢になった。
 無理もない。私はそのとき、未体験の距離とひよわなおのれの体力のことを、まったく念頭に置いていなかったからだ。私は一瞬、冷水を浴びたようになったが、あとへはひき返せない。折悪しく風向きが変わり、にわかに波立ち、船は左右に揺れ動いた。私は狼狽(ろうばい)しながらも、神に祈りつつ、ただただ夢中で櫓を動かした。そして、かなりの時間を要して、やっと沼尻の船着場に辿り着いたとき、私の全身から汗が吹き出し、涙がこぼれ落ちた。「板子(いたご)一枚 下は地獄」という言葉に出合ったのは、その数年後のことだった。
 男性のバイトの寝る部屋は、休憩所の奥にあり、仕事を終えたあとは、部屋でよく酒を飲み交わしたものだったが、実は憩いはもう一つあった。それは沼辺のベンチでの歌教室である。歌の上手な、見目(みめ)うるわしき女子大生に、山の歌や当時流行(はや)りの青年歌集のヒット曲を指導してもらい、7、8人で合唱する集いだった。乳色の夜霧のこめた沼辺での男女の合唱は、実に趣きがあり、学校の授業でしか歌を唄ったことのない音痴の私を、すっかりとりこにした。
 青春の真っただ中にいた、長蔵小屋での3回にわたる夏の日々は、チャーミングな女子大生の歌声を含めて、50余年も経った今でも脳裡に生きており、私の数少ない良き想い出の一つでもある。
 あれから50余年か――。私が気息奄奄(えんえん)たる老骨と化したのも、むべなるかな、である。

 話が前後するが、本編は舞台が雪の山小屋に限定されているせいもあって、私の作品としては珍しくシンプルと言える。読者が犯人の正体に気づくあたりで、その動機もそれなりに予測できるはずである。だがしかし、読者が推理したとおり、そのままに最終行を迎え、そして「終わり」となったのでは、あまりに芸がない。本格推理の書き手としては、ここが踏んばりどころである。
 そこで本編は、最後の三行に、ちょっとしたひねりを加えてあるのだ。読者がこの最後の三行をどう受け取り、どう評価してくれるのか、いささか気がかりではある。

 二〇〇八年一月六日

(2008年2月)

中町信(なかまち・しん)
1935年1月6日、群馬県生まれ。早稲田大学文学部卒。出版社勤務のかたわら、67年から雑誌に作品を発表。第17回江戸川乱歩賞の最終候補に残ったのが、初長編の『模倣の殺意』である。以降、叙述トリックを得意とし、『空白の殺意』『天啓の殺意』(3冊とも創元推理文庫刊)など、大がかりなトリックで読者を唸らせている。

津原泰水『ルピナス探偵団の憂愁』[2008年1月]


『ルピナス探偵団の憂愁』では、
まず探偵団の解散を書きました。

津原泰水だからこそ書き得た、少年少女たちの「探偵」物語。
(07年12月刊『ルピナス探偵団の憂愁』)

津原泰水 yasumi TSUHARA

 

 自分のウェブサイトを確認せねばならないほど、風化したお話にて恐縮。《ルピナス探偵団》シリーズの第一作『うふふ・ルピナス探偵団』が出版されたのは1994年、いまから十三年も昔のことです。「・」の部分(出版用語でナカグロといいます)には本来ハートマークが付いており、ちなみに僕はこのタイトルを付けた覚えがありません。「いつの間にかタイトルが付いていた」なんていうのは、当時の少女小説でわりあい普通のことでした。

 もともと倒叙形式で書いた原稿でしたが、これも編集判断でプロローグが削られ、凡庸な――良く云えば「若年層にも分かりやすい」犯人当て小説として、世に出ました。
 中略。芳しくなかった売上げを挽回すべく、翌年、大胆に新本格風の物理トリックを導入した『ようこそ雪の館へ』をものした次第ですが、大胆すぎたようでシリーズは打ち切られました。こちらのタイトルは僕が付けたものです。内容と裏腹なあたり、自分らしくて今でも気に入っています。

 大筋には難があっても、キャラクター小説としては面白いものが、ジュヴナイルやライトノヴェルには多々あります。ルピナスもキャラクター造形に力を入れたお蔭でしょうか、自分自身も内容を忘れかけていた頃、「前二作に書き下ろしを加え一冊として出し直しませんか」とのありがたい打診を、原書房からたまわりました。そして「大女優の右手」を書きました。前二作なくしては成立しにくい物語ながら、ところどころ他人が書いたのかと思うほど、不思議な力を秘めた作品となりました。本当に他人が書いてくれるなら、この商売、どんなに楽でしょう。

 上記三篇を所収した『ルピナス探偵団の当惑』は、いま創元推理文庫に入っています。彩子、キリエ、摩耶、そして祀島くんは、僕に何度も印税を振り込んでくれます。彼らに甘え続けていては、身も心も駄目な人間になってしまうこと必至です。今でも駄目なのに、もっと堕落するかと思うと空恐ろしくなります。
 そこで新作『ルピナス探偵団の憂愁』では、まず探偵団の解散を書きました。時制的には「百合の木陰」が彼らの最後の事件で、お読みになれば分かることですが再結成はあり得ません。そこから「犬には歓迎されざる」「初めての密室」「慈悲の花園」と、彩子の記憶は、ルピナス学園の卒業式までの日々を遡っていきます。
 四人が迎えた卒業式で、『ルピナス探偵団の憂愁』は終わります。貫徹できるかどうか五分五分と感じながら始めたこの構成は、仕上げてみればなかなか素敵で、来春、さまざまな「卒業」を迎えられる皆さんに、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

『憂愁』を始めるにあたり、担当者が「ぜひ『大女優の右手』レベルで」との麗しい歓迎ゲートを用意してくれました。くぐってみたら火の輪でした。華麗にくぐれましたかどうか、自身には判断できませんが、シリーズへの著者の愛着と、かつて無名のペイパーバックライターを支えてくれた若く勇敢な善意への、深い感謝を、どうかお察しください。

(2008年1月)

津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島県生まれ。青山学院大学卒業。89年より津原やすみ名義で少女小説を多数執筆。97年、現名義で『妖都』を発表、注目を集める。以後、ホラー、幻想小説、ミステリなど、多岐にわたる分野で活躍。2006年、高校の吹奏楽部を舞台にした『ブラバン』が話題となる。他の著作に『蘆屋家の崩壊』『少年トレチア』『綺譚集』『赤い竪琴』『ピカルディの薔薇』『ルピナス探偵団の当惑』などがある。

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