Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

新井素子『ひとめあなたに…』あとがき[2008年5月]


ほんっと、よく歩いていたよな、あの頃の私達。
練馬から鎌倉をめざして
徒歩で旅に出た女子大生が
遭遇する4つの物語。
(08年5月刊『ひとめあなたに…』あとがき[全文])

新井素子 motoko ARAI

 

 あとがきであります。
 これは、一九八一年に書いたお話です。

 

 

 新たに本にする為に、ゲラ(本にする前の試し刷りみたいなもんだと思ってください)を丹念にチェックして。色々なことを、思い出しました。
 私って、昔は、ほんとによく歩いていたよなー。大体、練馬から鎌倉まで歩く話なんて、普通、考えないと思う。
 ま、これ、一つには単純に“歩くのが好き”だからなのですが。(高校は、駅からバス停五つの処にあったのですが、私、毎日ここ、歩いてた。これは、“歩くのが好き”なんじゃなくて、バス代を浮かす為だったんですけれど。バスにのらずに毎日歩くと、月に、ハードカバーの本が三冊くらい、買えたんだもん。大学は、実家から私鉄で三つ分、離れた場所にあったのですが、ここもよく歩いた。大体片道一時間ちょっとで……これ、歩いたのは、主に仕事の為ですね。高校時代から作家やってた私、“歩くと何故か文章が浮かぶ”ので、仕事につまると、ひたすら大学まで歩いていったっけ。また、大学卒業した後、今の旦那になった人の家が、うちから徒歩五十五分くらいの処にあって、ここも、よく、歩いたなー。あ、これは、当時の練馬の電車事情のせいです。この頃はまだ、練馬区全体で、電車って、ほとんど走っていない感じで……南北方向に、練馬を横切ってくれる電車が、なかったの。だから、私の実家と、旦那のアパート、歩くと五十五分、電車にのると五十分っていう、非常にすっとんきょうな位置関係になったのでした。わざわざ、方角的にはまったく無関係な、池袋を一回、経由しなきゃいけなかったのね。)
 一つは単純に“歩くのが好き”だからって書きましたが……もう一つ、よく歩いていたのは、私が、壊滅的な方向音痴だったからです。そんでもって、練馬の道路っていうのが、もう、無茶苦茶、判りにくい。世田谷と並んで、タクシーの運転手さん泣かせなんだそうです。壊滅的な方向音痴が、非常に判りにくいって太鼓判がついている区で生まれ育つとどうなるか。はい、日常的に、迷子になるんです。五つや六つの時だけじゃない、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、主婦になっても……ひたすら、迷子になり続けています、私。そんで、迷子になると、とにかく歩かなきゃいけないんだよっ! とまっていると、いつまでもそこにいるだけなので、道に迷ったが最後、判る処にでくわすまで、歩いて歩いて歩いて歩いて……。迷子の人間にとって、健脚は必要最低条件です。二時間や三時間、ぶっ通し歩けるだけの足がないと、迷子になりがちな人間は、生きてゆけません。
 また、旦那も、よく歩く人で。だから、デートって……歩いてばっかりいたような気がします。(今もだ。)

 

 

 このお話を書いた、ちょっと前だったか、ちょっと後だったか、いささか記憶が判然としないのですが。私、目黒の、とある人の家に伺ったことがありました。ところが、私には、目黒の土地勘がまったくなくって、教えてもらった道筋も、駅からバスに乗って、おりた後、そこから十分くらい歩くっていう……迷子になりがちな人間にとって、とても、自力で辿り着けるとは思えないものだったのでした。(自慢じゃないけれど、私が理解できるのは、『角(かど)二つ』です。三つ以上角曲がるなら、それは、私が、行ける場所じゃないっ!)
 そんでまあ、私は、当時つきあっていた人に――つまり、今の旦那に――、この地図を、丸投げして。
「あたし、絶対一人じゃここにいけない。ごめん、道案内プリーズ」
 そんで、その日は、昼間旦那とデートして、夕方、問題の家まで案内してもらって……バス停を下りた処で、ふいに、旦那が。
「うおっ、しまった、財布が空(から)だ! 悪い、素子、その人の家まで案内したら、ちょっとお金貸してくれない? 俺、帰れない」
「ん、判った。千円でいい?」
「うん、その人の家が見つかった時でいいから。バス代もないわな」
 そんで、旦那に、その家まで道案内してもらい、道中ちょっと迷子になりかけ、約束の時間に遅れかけ……やっと、問題のマンションがみつかった瞬間。
「ありがとう、ここだあっ! やった、なんとか時間前だっ」
 私は走ってマンションの入り口をくぐり……この時、すっかり、忘れていたんですよね、私も、旦那も。旦那のお財布の中身が、空だってことを。
 当時は、携帯も何もありませんでしたから。
 バス停まで戻った旦那、「もーとーこー、おーまーえーはー」ってうなりながら、しょうがない、目黒から池袋まで、歩いて帰ったんだ……そうです。
 ああ、確かに。ほんっと、よく歩いていたよな、あの頃の私達。

 

 

 ゲラ、読み返しながら、同時に、「時間がたったなー」とも、思いました。
 目黒にお住まいだった方は、何年か前に、お亡くなりになりました。
 それに私、時事風俗や流行語をまったく使わない筈なので、ゲラになった時、その手のことを直す必要はない筈だったのですが……でも、直さなきゃいけない処が、結構、あって。
 例えば、“国鉄”。ないもんなあ、今は。
 例えば、“レコード”。今、そんなもん買うのは、趣味の人だけ。
“自動販売機で千円札が使えない”って描写には、ちょっとくらっときてしまいまして、その後、『あ、でも、これは解決できる。大きな駅の近くに来たら、千円札両替機使えばいいんだわ』って文章には、くらくらくら。(あ、直しましたので、その文章は、この本にはないです。)これ、今読むと、自分でも意味が判らない。一瞬悩んで、次の瞬間、思い出しました。そうだよ、あの頃は、自動販売機で使えるのはコインだけで、でも、切符は、場所によっては高いものもあり、だから、駅には、“千円札”を百円玉にする、両替機がある処があったんだよー。
 ああ。
 時間が、たって、しまったのですね。

 

 

 あと、もう一つ。
 私が、唇を噛んでしまったのが……江古田、という地名でした。
 これ、原本――というか、私の頭の中では、『えこだ』って読んでいるのですが、校閲から『えごた』ってルビがあがってきまして……ううう、まいった。
 何故って。純粋に地名的にいえば、『江古田』は、『えごた』って読むのが、正しいんです。中野区に江古田っていう町がありまして、これは『えごた』町。でも、それじゃ(江古田を『えごた』って読んでしまえば)、このお話、練馬から鎌倉へゆくんじゃなくて、中野から鎌倉へゆくお話になってしまうではないかっ!
 それで何がまずいって訳(わけ)じゃないんですが、でも、それは、私の心の中で、なんか、違うの。練馬偏愛主義者の私、あくまで出発点が、練馬じゃないと、嫌なの。
 それに。
 このお話を書いた当時には、前にも書いたように、練馬区には、ほとんど電車が走っていなかったのです。
 ですので、この場合の『江古田』は、中野区江古田町のことじゃなくて、練馬区小竹町、羽沢、旭丘、豊玉をカバーしている、西武池袋線『えこだ』駅周辺のこと。(実際、この駅は、多分中野区江古田から駅名をとったんだろうけれど、何故か練馬区内にあるし、町名は『えごた』の癖に、駅名は『えこだ』なんだよね。)
 はい、この駅は、かなり長いこと、練馬における数少ない駅という地位を占めていまして、だから、練馬区民にとって、『江古田』っていうのは、あくまで、『えこだ』だったのですね。
 中野区民からの文句は、重々承知しております。正しいのは、中野区民です。でも、練馬区民にとって、小竹町・羽沢・旭丘・豊玉あたりは、駅名の、『江古田』って地域なの。だから、これは、『えこだ』って読むの! って、……ちょっと前までは、つっぱれたのですけれど。
 地下鉄の、都営大江戸線ができまして……ここには、『新江古田』っていう駅があって……この駅名は、『しんえごた』って読むんですう。
 ……頼む、頼むよ、統一しろよ、駅名。『えこだ』って駅があって、その側に駅ができたら、『しんえこだ』にしろよ。確かに町名的には『えごた』が正しいんだけれど、『えこだ』があるのに、『しんえごた』はないだろ?『新江古田』のせいで、『江古田』は『えごた』って読むのが正しいって気分が充満し(って、それが正しいんだけれどね)、「これは駅名だから、この辺は『えこだ』なの!」って練馬区民の主張は、どんどんその根拠をなくしています。
 でも。
 とりあえず、このお話に限っては、これ、『えこだ』です。
 何が何でも出発点を練馬にしたいので、これは『えこだ』です。

 

 

 それでは。
 最後に感謝の言葉を書いて、このあとがき、終わりにしたいと思います。

 この本を、読んでくださった、あなたに。
 読んでくださって、本当にどうもありがとうございました。
 文章を書くというお仕事をしている以上、読んでくださる“あなた”がいることが、本当に、本当に、はげみになります。作中、“真理”の章ででてきた小坂さんが言っているように、“読んでくれる人”がいるから、私は、お話を書くことができます。
 そんでもって。
 このお話……気にいっていただけると、嬉しいのですが。
 そして、もし。気にいっていただけたとして。
 もしもご縁がありましたなら、いつの日か、また、お目にかかりましょう――。

二〇〇八年四月
(2008年5月)

新井素子(あらい・もとこ)
1960年東京生まれ。立教大学文学部卒。77年、高校2年生のときに第1回奇想天外SF新人賞に投じた「あたしの中の……」が、選考委員だった星新一の賞賛を受けて佳作入選しデビュー。大学在学中に発表した「グリーン・レクイエム」「ネプチューン」は、第12回、第13回星雲賞を受賞。99年には『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞を受賞した。

早瀬乱『サトシ・マイナス』[2008年4月]


僕も、あの18歳の冬、
プラス、マイナスとまではいきませんが、
どこかで二つに分かれてしまったような気もします。

25項目のリストで人格を分割した青年のふしぎな探偵行。
(08年3月刊『サトシ・マイナス』)

早瀬乱 ran HAYASE

 

 もはや四分の一世紀も昔となった1970年代末、高校生だった僕は美術部に属していて、部室で多くの時間を過ごしていました。
 木造校舎の一階、継ぎはぎだらけの廊下を歩くと、使われなくなった一列の教室が、各科の準備室や資料室に姿を変えて並んでいます。廊下側の埃だらけの窓のそれぞれには、中の棚や段ボール箱の濃い灰色の影が延々と映っていて、その一番奥に、やはり廃教室を改造した、美術部のアトリエがありました。もう20年近く再訪することなく時が過ぎましたが、校舎自体、とっくに取り壊されてしまったと聞いています。
 高校は大阪の阿倍野区にあった、ミッション系の私立高校でした。高三になると、受験体制に入り、授業が選択制(単位制)となって、それぞれ自分の時間割が自由に組めました。ぎりぎりの数しか履修しないと、ある日は三限目から、またある日は昼まで、あるいは五限目が空き、というように、大学と同じ感覚で通えたわけです。
 高一・高二に対してはある程度管理していた学校側も高三に対しては完全放置、授業のある時間に、校舎下の藤棚(これは『レテの支流』に登場させましたね)でだべっていても、がらがらの食堂でランチを済ませても、或いは校門から堂々と出ていっても、高三であればお咎めなし(その代償として進学実績をつくれ、ということですか)。実にありがたい制度でした。
 当然僕も、履修数は最低限、手帖に授業ごとの欠席数を記録、単位だけは落とさないよう気をつけて、さぼれる限りさぼっていました。朝、きちんと家を出るのですが、一年を通じ、一限から六限まで通して出た日は数えるほどしかなく、美大或いはデザイン学校進学が頭にあったために、予備校・塾にはまったく無縁(その後の人生を考えると皮肉極まりないことですが)、そのくせ、帰宅するのは毎晩九時過ぎ。銅版画を習いに版画家さんの工房に通っていた、という別の理由もありましたが、つまるところ、学校で過ごす時間の大部分は、油絵具、テレピン油、定着液などの匂いがしみついた、誰も通りがからないぼろ校舎の一階廊下奥、例のアトリエで費やされた、というわけです。
 今でもよく思い出す光景というのは、高三の晩秋のある日、午後四時過ぎのものです。授業を終えた下級生部員がアトリエに集まりだし、そのうるささに閉口するわ、何時間もの進展しない作業にも飽き果てたわ、で、ちょいと一服と学校を出て、近くの喫茶店で文庫本を読みました(サリンジャーかヘンリー・ミラーでした)。さてそろそろ、とアトリエに戻ると、既に下級生はとっとと帰り、代わりに、正規美術室(授業が行われる教室)でのデッサン授業を終えた同学年の部員がこちらへと場所を移していました(僕は参加していませんでした)。彼らとだべっているうち、ふと外を見ると、既に日も暮れかかっています。微妙な光と影の混淆にまぎれるようにして建物の外へと出ると、グラウンドでは片付けに精出す野球部員やらラグビー部員やらの影が蹲っていました。その向こうには高三生の校舎が聳えたち、希望者に補習を行う教室の白い煌煌とした灯りがまぶしく見えました(僕はこちらにも参加していませんでした)。そのうちふと考えました。さて、俺、これからどうしようかな、やっぱりふつうの大学を受験しようかな。ぼんやりと、刻々と夜の暗がりが広がっていく敷地全体を眺め続けます。とりあえず腹が減ったし、うどんでも食って帰るか(このあたりが関西ですね)、と踵をめぐらしたことを覚えています。
 さて、アトリエの壁面には、百号の絵が20数枚、立てかけられていました。今はどうか知りませんが、当時「私学展」という私立高校ばかりのコンクールが毎年夏にあり、そこに出品されたものがとって置かれていたのです。百号というのは畳二枚分ほどもあるけっこうな大きさで、しかも、高校生には正規の布地キャンバスを買う余裕はないため、木枠の上にベニヤ板を張ったものでした(けっこう重いものです)。全て一から作るのはたいへんだったため、夏が来ると、古い作品から順に、絵具を全て削りとり、白ペンキを塗ることで、再利用していました。
 僕が高二夏に出展した、地下鉄駅を描いたスーラばりの点描ものもその中にありましたが、それも、僕が東京で大学に通っている間に、後輩たちの新キャンパスに塗りかえられたことでしょう(結局、ふつうの受験をしたわけです)。さらには、僕の学年の美術部長だったD君の、ジャクソン・ポロックばりの抽象作品もその中にありました。作中では、語感が良かった余り、ジャスパー・ジョーンズという名前ばかり出してしまいましたが、筆に絵具をたっぷりつけて、ピッピッと振る、というのは、実はポロック作品の特徴です。

 ようやく、あとがきらしくなってきました。そのD君がジャズ好きだったのです。チャーリー・パーカーも、コルトレーンも、彼が好んで聴いていたものです。一方、当時の僕はロック一辺倒で、それもニューウェーブかグラム、或いはプログレばかりを聴いていましたから、D君につきあってジャズ喫茶に行くと、いつも閉口しました。何しろ、相手は、リズムに合わせ、目を瞑ってひたすら顎を上下しているばかり、暇で暇で仕方ありませんでした。僕がジャズを聴けるようになったのは、もっと年をくってから、といっても、キース・ジャレットが好き、という軟弱なもので、基本的に語る資格を欠いていますね。
 それでも、D君とは好みが共通するところもないわけではなく、ジム・モリソン(ドアーズ)とか、シド・バレット(ピンク・フロイド)とか、ジミヘンやジャニス・ジョプリン(この二人は僕はあんまり……)、シド・ヴィシャスとか、つまりは、死ぬかおかしくなったミュージシャンについては、なぜか話が合いました。そういや、ポロック、ジョーンズにはまる前のD君はゴッホに傾倒していたものです。死といえば、今は犯罪の中ばかりで語られますが、当時は美術、音楽、文学の中に死が充満していたように感じます。
 本書『サトシ・マイナス』は、そういう形での死をめぐる話にしようと考えました。つまり、美術と音楽の底にある死についての話ということです。絵を描いていた人間が描かなくなることも、一種の死であろうと思いました。ただ、最後に登場する寿司バーはやり過ぎでしたね。魔除けの絵が飾ってあり、死んだボーカリストの曲ばかりかかる店が実在するとしたら、ちょっと怖いと思います。一方、海に沈む夕陽がまっすぐ見通せる路地、というのは、三年ほど前までは実在しましたが、さて今もあるかどうか……。
 舞台は、僕が生まれ育った大阪南部が想定されています。死につつある地方、という概念も念頭にあり、東京を舞台にはしませんでした。関西弁を出さず、具体的府県名も一切出さなかったのは、普遍性を考えてのことです。大阪のことを「地方」というと、地元からも、他地域の方からもお叱りを頂戴しそうですが、都市化が進み、死にいく町と新しくできた町が同居するという、変化の交錯があるという点では、大阪市内はともかく、その近郊は、多くの県庁所在地の町と全く同じ状況にあると思います。
 実際、大阪南部は、関西新空港ができて以後、道路も整備され、マンション街も出現して、どんどんぴかぴかに変わっていきました。一方では、どこの駅前にも、シャッター通りというお決まりの風景が広がっています。せっかくぴかぴかになったところも、思うように客足・人口が増えず、うっすら埃を積もらせながら古びていく姿も目につきます。
 報道番組がよく取り上げてはいるにも関わらず、東京からはなかなかこうした実情――死と再生、古さと新しさが平衡を保ちつつも、先行きへのうっすらとした不安がはびこる状態――が見えてこないのではないか、21世紀初頭の今、こういう場所にこそドラマが生まれるのではないか、とも感じます。新しく生まれるものが何もない、という本当の地方の惨状についてはこの作品は何も目を向けていませんが、ネットどころかパソコンにも無縁なお年寄りばかりの町、というのも、あと20年は続く現実です。
 作品を描いている途中、特に、サトシやノッピーのぼろアパートを描いている際、鼻腔にふと油絵具の匂いを嗅いだ感覚に何度も襲われました。その時、記憶に蘇るのは、決まって高校の美術部のアトリエ(特に、冷房もむろんない、真夏のあのアトリエに充満する匂い)と、秋の終わりのグラウンドの端に立っていた自分のことです。つい、あとがきもそのことから長々と始めてしまいました。僕も、あの18歳の冬、プラス、マイナスとまではいきませんが、どこかで二つに分かれてしまったような気もします。
 僕はサトシの父親の世代ですから、ティーンエイジャーの描き方については、若い読者の方に違和感が生じるかもしれません。作中、時代の差をあえて無視したところもあり、一体これは何年ごろの話なんだ、と混乱する部分もあるかもしれません。ですが、混淆の70年代末と、ぴかぴかの21世紀を一緒くたにしたような、なんともいえない風景が描けたように思っています。
 わからない固有名詞や、時代錯誤的なところには目を瞑って頂き、バカバカしくてどこか切ないこのストーリーを楽しんでもらいたい、と心から願っています。

[終]
(2008年4月)

早瀬乱(はやせ・らん)
1963年大阪府生まれ。法政大学文学部卒業。2003年、『レテの支流』が第11回日本ホラー小説大賞長編賞の佳作となり、デビュー。06年、『三年坂 火の夢』で第52回江戸川乱歩賞を受賞。明治時代の都市風景と登場人物を魅力的に活写した探偵小説の登場に、一躍注目が集まる。本作では明るく爽やかな成長小説という新境地に挑戦した。他の著作に『サロメ後継』『レイニー・パークの音』がある。

坂木司/キャロリン・キーン『バンガローの事件』解説[2008年4月]


 

(物語の内容に触れています。ご注意下さい)

 

 『バンガローの事件』を読み終わって、ナンシー・ドルーに惚れ直した。だってこんな女の子、ちょっといない。
 コンバーチブルを乗り回し、一人でどこへだって行く18歳の少女。まあ、そこまでは日本にだっているかもしれない。けれどタイヤ交換が一人でできて、ついでにモーターボートの操縦もできて、その上溺れかけた友人を救助してしまい、スポーツ万能で料理だってできる。もちろん見た目も可愛くって、礼儀だって完璧。ここまで来ると、もう嫌みなくらいだ。
 思い起こせば、彼女との出会いは小学校の図書室。当時やはり乱歩の〈少年探偵団シリーズ〉を読んでいた私は、「少女探偵なんていうのもあるのか」と何気ない気持ちでこのシリーズを手に取った。しかし手に取ったはいいが、子供の私は数冊読んでそれっきりナンシーについて興味を失ってしまった。理由は、「なんかいい子ちゃんっぽいから」。
 今にして思えばひどい理由だと思う。しかし夜の闇を駆ける少年探偵団のシリーズを読み慣れていた私にとって、ナンシーはあまりにも明るくて品行方正過ぎるように感じたのだ。優しくて裕福な父親の庇護のもと、困った人に手を差し伸べる面白みのないお嬢様。私の中の彼女は、長らくそんなイメージのままだった。
 実際、今回のシリーズに関しても正直2作目の『幽霊屋敷の謎』までは、その疑念を完璧にぬぐい去ることはできなかった。確かに彼女は記憶の中よりもずっとアクティブで、一人でどこへだって行ける18歳の女の子だった。でも、それだけ? 読み進みながら、私は首をかしげた。それだけの魅力でナンシーは、こんなに多くの人に長く愛されているのだろうか。しかし本作を読んで、その疑問はあっけなく氷解した。ナンシーは、ただのお嬢様なんかじゃない。
 シリーズ3作目であるこの『バンガローの事件』には、前二作とは大きく違う点がいくつかある。まず一つ目は、ナンシー自身が悪者に背後から殴られ、失神するという実質的な被害に遭っていること。そしてもう一つは、派手なアクションシーンの数々。前二作のいかにも「子供向け」といった冒険から一転、こちらは本当の意味で危険な状況が頻発するのだ。あまりのことに『もう、頭にきすぎて、おかしくなりそう!』と叫ぶナンシー。そんな彼女はお嬢様っぽくなく、とても身近な存在として描かれている。
 さらに印象的なのは、ナンシーがホテルに泊まる場面だ。アメリカと言えどまだ若い女性が一人でディナーの席に着くのは珍しかった時代。なのに彼女は堂々と食事を平らげる。立派なホテルのダイニングで一人ディナーだなんて、現代の18歳にだって相当ハードルが高い行動に違いない。そう、ナンシーの「できること」の本質はこんな部分に現れているのだ。車の運転や料理は、学ぼうとすれば誰にでもできる。けれどきちんとした立ち居振る舞いというものは、一朝一夕で身につくものではない。これは1作目から貫かれているシリーズの特徴だが、本作ではそれが究極の場面で現れる。
 犯人一味の車が崖から落ち、今にも炎上しようかという状況で、さすがに立ちすくむナンシー。この犯人には、彼女も彼女の父カーソンも殴られて気を失ったり監禁されたりしている。しかしカーソンはためらわずこう叫ぶ。『彼らが無事なら、助けなければ!』。
 本当に育ちが良いということは、礼儀うんぬんではない。いざというときにきちんと行動できる力が身についていることではないかと、この物語を読んでいると思う。そしてその力こそ、ナンシー・ドルーという探偵が父から受け継いだたぐいまれなる資質なのではないだろうか。
 1作目『古時計の秘密』の中でナンシーは、怪我の手当てをした老婦人にお礼を言われて、相手がそのことを気に病まないようこう答える。『あら、わたしでなくても、だれかが気づいて、きっとお助けしていましたよ』。あるいは2作目『幽霊屋敷の謎』の中で、彼女は悪に手を貸した男をあっさりと自白させる。『人はだれでも、ときどき間違いを犯すものよ。うまい言葉にだまされて、やってはいけないとわかっているのに、それをやらされてしまうことがあるわ』。相手のことを考えて気を使うこと、そして憎しみに心を曇らせずまっすぐに物事を見ること。それこそがナンシーの最大の武器だと私は思う。
 そしてさらにこの時代ならではだと感じるのは、随所に現れる「備えあれば憂いなし」という場面だ。携帯電話どころかコンビニも自動販売機もない時代、ものを言うのは用意周到な準備だ。前述のホテルのシーンで彼女が車のトランクにいつでも一泊分の荷物を用意しているのはもちろん、冒険に出るときにはポケットにマッチを忍ばせるなどの行為。それが後々、いかに役に立つことか。現代に生まれた私たちのように「出先で買えばいいじゃないか」などと言っていたら、あっという間に窮地に陥ってしまいそうな世界にナンシーは生きているのである。ちなみにその「いざというときの一着」が黒いシンプルなワンピースだというのは、時代を超える普遍的なファッションセンスだと思わされた。センスまでいいなんて、もう反則だ。
 そんな彼女は、ご想像の通り結構モテるらしい。本作ではプロムで彼女のパートナーをつとめたボーイフレンドのドン・キャメロンが登場するが、その他にも彼女をダンスに誘おうとする男性なども姿を現す。けれど彼女は『ロマンスを楽しんでいる余裕はないわ』とその誘惑をひらりとかわす。恋に身を任せず、かといって女同士で群れるわけでもない。一人できちんと立っている彼女には、男性ならずとも魅了されるに違いない。
 とはいえ、実は私がナンシーに一番魅かれたのは食事をする場面だ。彼女はどんな状況に置かれても、きちんと食事をとることを忘れない。ハンナの作った料理はもちろんのこと、外食でも一人でも気負うことなく『もりもり平らげ』る。その姿は生命力に溢れ、とても健康的な魅力に満ちている。
 こうして並べてみると、ナンシーは本当に無敵の女の子だ。涙が込み上げても、手の甲でさっと拭う潔さ。その弱さも強さも、すべてが一つの美しい形に集約されているような気がする。永遠の少女探偵ナンシー・ドルー。私は時を超えて今、彼女の魅力に気づくことができて本当に良かったと思っている。
 そして最後に、素晴らしい翻訳でナンシーを甦らせて下さった渡辺庸子さんに心からの感謝を。子供向けの訳では気づくことができなかったナンシーに出会えて、本当に嬉しかったです。これからもナンシーの活躍を、一読者として楽しみにしています。

(2008年4月)

坂木司(さかき・つかさ)
1969年、東京生まれ。覆面作家。2002年に、ひきこもり探偵・鳥井真一とその友人・坂木司を主人公にした連作短編集『青空の卵』でデビュー。ついで中編集『仔羊の巣』、長編『動物園の鳥』の3部作を上梓。新シリーズ『切れない糸』も好評。最新刊は『先生と僕』。

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