Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

短編ミステリ読みかえ史 【第6回】(2/2)  小森収




 続く『カジュアリーナ・トリー』は、佳編揃いの短編集で、充実の一冊です。中では「手紙」の評価が高く、また、この短編は、かなりミステリに接近しているのですが、私には、大騒ぎするような作品とは思えません。主人公はマレー半島のイギリス人弁護士で、ある夫人の正当防衛による殺人事件を抱えている。誰もが被告無罪を信じているこの事件に、突然、出来事の見方を百八十度変えてしまうような手紙が存在することがわかって……というものです。モームがミステリとして書いていないことは百も承知で、しかし、私はこういう話はミステリとしての魅力がなければ、小説としてもつまらないと思うのです。モームはおそらく、被告の女性を描きたかった、とりわけ企みが発覚し、夫にそのことを知られたのちのそれ、とりわけ結末のそれを描きたかったのでしょう。しかし、そこのところを生かすのは、中盤の事件を追っていく展開と、そこで直接間接に描かれる伏線としての夫人像のはずです。そこが凡庸では、ミステリ的部分がつけたしのように見えてしまいます。
 そのことは、やはり秀作の誉れ高い、そして、今度は私もそれに賛同する「園遊会まで」と、比較すれば分かります。モームの南海ものには珍しく、この話はイギリスでのガーデンパーティの直前という時間設定です。夫を亡くしボルネオから戻ってきた娘を迎えての園遊会を間近にして、どうも、その娘の様子がおかしい。そこへ妹が、ボルネオを訪れたことがある教会監督から、義兄の死が喉を掻ききっての自殺であったことを聞き込んできます。家族は遠隔の地でなにが起きたのか、娘の重い口を開かせます。
「手紙」同様、この作品でも、読者は事件の真相には、じきに思い当たるでしょう。しかし、ここで肝心なのは、読者とは比べ物にならないほど、その真相に気づきたくはない、娘の家族たちが、気づきたくがないゆえに、読者よりも後にゆっくりと真相に気づいていくこと、気づかざるをえないことを描くのが眼目だからです。のろのろとした足取り(そのなんとサスペンスに満ちたことか)で、なにが起きたかに到達した家族たち。その果てに父親が軽く腹をたてたように言うのが、「実に身勝手な女だよ」という言葉だった。画龍点睛とはこのことでしょう。
「環境の力」は、自らの差別感情に気づいた(気づかされた)女性の話で、「悪いのはあたしです」と言いながら、己が嫌悪感をどうすることも出来ない。正確にいうと、差別感情だけでもない、もう少し混沌としたものなのですが、現代の目でみて貴重なのは、突然それに気づかされた人間の戸惑いが描かれているからでしょう。現代の差別感情は、まず教育されることがありますからね。とりわけ日本やアメリカでは。
 モームが南海もので描いたのは、アジア太平洋から逆照射されたイギリス人ですが、その背後のイギリス社会に、結婚という制度が、強固な束縛をもって存在する――女にとっても男にとっても――ことを示しています。しかし、まあ、これはミステリとは無関係。
 三番目の短編集『アー・キン』の巻頭にあるのが「密林の足跡」です。前述したとおり、『黄金の十二』に一票入っていますし、ちくま文庫版の惹句にも「推理小説としても傑れている」と紹介されています。しかし、私には買えません。話全体が、一人称の語り手である作家が、警察署長から過去の事件の話を聞くという体裁です。捜査小説としては平凡で、最後のサゲのアイロニーが眼目でしょうが、そうだとしても、事件の部分がつけたしに見えてしまう。そうなるのは、結末の眼目の部分と照応するものが中盤に欠けているからでしょう。
「手紙」「密林の足跡」と読んできて、私が不満に感じるのは、弁護士や警察官といった人たちが、話の中心となっている場合でした。彼らは謎の手紙や正体不明の犯人と向き合わざるをえませんが、その部分が、小説の眼目となる部分を招くためだけの機能に終わっているという点に不満を感じたのです。ミステリ的な部分がつけたしに見えるというのは、そういうことです。一方「園遊会まで」の家族は、一家の社会的存在がかかってしまった、ボルネオでの事件の経緯を説明する娘の話に、(読者同様、いや、それ以上に)かたずをのんで耳を傾けます。ここには、謎を解こうとする人間はいませんが、解かれる謎のもたらす結果が切実な人々が存在するのです。

『アー・キン』では、それまでの三人称小説から脱して、一人称の作品も書くようになっていますが、「密林の足跡」といい「書物袋」といい、一人称の語り手が、過去の事件を聞くという形式が、必ずしもうまくいっていないように感じます。『カジュアリーナ・トリー』『アー・キン』の間に、モームは『コスモポリタンズ』の諸編を書くわけですから(ただし『コスモポリタンズ』がまとまるのは『アー・キン』の3年後の1936年)、この人称の変化には、その影響を見たくなります。『コスモポリタンズ』はほとんどが一人称小説です。では『コスモポリタンズ』はつまらないのか? そんなことはないんですね。
 1924年からおそらく1929年にかけて、アメリカの雑誌〈コスモポリタン〉に掲載された掌編を集めたものが『コスモポリタンズ』です。アメリカの雑誌の常識であった、巻頭ページに冒頭を掲載し、以降を雑誌の末尾付近にダラダラと載せる形を避ける。すなわち、見開きにイラスト込みで収まる枚数という制限が課されたのです。これをもってショートショートの始まりとする説を読んだことがあります。その苦労と効能は、序文にモーム自身が書いています。書名は掲載雑誌から取ったことは一目瞭然ですが、同時に、世界じゅういたるところに住む人々のポートレイトという内容を、このうえなく適切に示しています。
 おそらく内容からの要請と思われますが、この短編集は、ひとつだけ毛色の変わった作品(「審判の座」)をのぞいて、すべて一人称小説です。書籍の掲載順と発表順が一致するのかどうか、調べがつきませんでしたが、単行本前半は、単純なポートレイトが多いのに対して、後半にいくにしたがって、ヴァラエティが出てくるところから、発表順に近い並びではないか。ヴァラエティの正体は、自他ともに認める面白い話作りの達人ぶりを、短い枚数の中で取り戻したということではないかと、推測しているのです。
 私は「ルイーズ」という一編を、『コスモポリタンズ』中の白眉と考えています。この作品は、タイトルロールであるルイーズという女性の造形に、もちろん、その魅力を負っています。しかし、もう一点忘れてはならないのは、語り手の「私」の活躍ぶりです。単なる語り手を超え、聞き手、観察者といった立場も超え、ルイーズと対決してしまう「私」は、まるで名なしのオプのようにも思えます。編中の他の「私」が、そうした領域に踏み込んでいないだけに、さらに効果があがっています。サキのときとは違った、一人称の効用がここには見られ、それが、作品後半をどれだけサスペンスフルにしていることでしょう。私はモームからひとつと言われれば、躊躇することなく、この掌編を採ります。

 モームとミステリの関係については、彼自身が逆説的にではありますが、説明しています。「(物語に耳を傾ける)楽しみが損なわれずに現存していることは、推理小説の流行で証明される。最高のインテリでも推理小説を読む。むろん多少低く見ているのだろうが、とにかく読む。これはきっと、インテリが好む心理小説、教養小説、精神分析小説では、物語を聞きたいという欲求が満たされないからに違いない」(『サミング・アップ』行方昭夫訳)モームが自らの得意技と信じる、〈面白い物語〉を受け継ぐ可能性があるのは、ミステリだと言っているのです。
 モームの側から見れば、これだけで充分なのでしょうが、ミステリの側からながめると、ことはもう少し厄介です。なぜなら、面白い話の面白さを解説することに、モームはあまり具体的には踏み込みませんが、ミステリは手法や形式にことのほか自覚的だからです。モームはただ書いていればよかったのですが、ミステリは「これはミステリだろうか?」と自問することを余儀なくされるからです。少なくとも、なにかに憑かれたように書き上げたのち、現代の作家は、おそらく一瞬そう考えるからです。別に、書きあがった結果、それがミステリでなくても、何の問題もありません。それでも、そう自問することに変わりはないでしょう。「私はいわゆる『落ち』があるのを恐れなかった」とモームは胸を張れましたが、現代の作家は「いわゆる本格であることを恐れなかった」とか「いわゆるハードボイルドであることを恐れなかった」と胸を張るわけにはいきません。そこに、ある種の不幸を私は見ますが、しかし、まあ、これはモームとは無関係。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。

短編ミステリ読みかえ史 【第6回】(1/2)  小森収




 『世界短編傑作集』がカヴァーしている時代で、広く短編小説の世界を見渡したときに、ミステリの側からも無視しづらい、超の字のつく大物がひとりいます。ミステリの歴史においても、近代的なスパイ小説の始まりとして必ず名前があげられ、ショートショートという形式に初めて手を染めたことでも知られる作家。自らを二流作家の先頭と韜晦し、物語を――ひらたく言えば、お話の面白さを――重んじて、また、そのことを公言もしたイギリスの人気作家。そう。サマセット・モームです。
 もっとも、この連載を続けるのに、なぜモームの短編を放っておけないのかは、いささかデリケイトな問題です。『アシェンデン』(創元推理文庫では『秘密諜報部員』の訳題でしたっけ)が、ミステリ史の中に重要な位置を占めていることに、異を唱える人はまずいないだろうし、『アシェンデン』は連作短編と見ることも可能でしょう。クイーンの『黄金の十二』のアンケートにも、モームは「密林の足跡」が一票入っています。なにより、モーム自身ミステリが好きで、晩年に長いエッセイも書いている(「探偵小説衰亡史」)。にもかかわらず、同時期のマンスフィールドの「園遊会」は無視できて、モームの「園遊会まで」が捨て置けないのは、なぜか? という問いに答えるのは、そう簡単ではないのです。

 短編作家としてのモームは、第一次大戦後に始まり、それは戦時中の南太平洋行きが、ひとつのきっかけになったというのが、定説となっています。『月と六ペンス』はそれ以前から書く意志があったようですが、俗に南海ものと呼ばれる短編群が書かれることになったのは、かの地に赴いた結果であったようです。のちの『コスモポリタンズ』も、中国でのメモから簡単な作品を作ったものが、編集者の目にとまって、実現した作品群です。モームにとって、アジア太平洋は、短編小説のインスピレイションを与えるものだったのかもしれません。
 第一次大戦後の最初の短編集『木の葉のそよぎ』の序文には、世紀末から新世紀初頭ごろの話として、編集者は、W・W・ジェイコブズのような話か、コナン・ドイルやラッフルズみたいなものを求めていると、エージェントに言われたという、愉快な回想が出てきます(ついでに書いておくと、その両方ともモームには書けなかったと)。その『木の葉のそよぎ』の実質的な巻頭作は「マッキントッシ」という短編ですが、すでに、この短編にして、ミステリ的な妙味があります。すなわち、未必の故意、もしくは、犯罪を誘発するための不作為というモチーフです。
「マッキントッシ」は後年モームが「奥地駐屯所」で再度手がける、植民地におけるそりの合わない上司と下僚の話です。ふたりの性格の対立ぐあいは、両作品でかなり異なっていて、したがって、単純なリメイク、改作とは言えません。そもそも、対立のあげく殺されてしまうのが、上司と下僚と、それぞれで異なっています。「マッキントッシ」では、現地の人間に慈父的態度をとる一方で、強引傲慢なところもある上司ウォーカーが、その完成が自分の夢でもある、島の道路工事の請負に関して、島民といざこざを起こし、その解決法が無慈悲だったため怨みを買います。部下であるマッキントッシは、それまでに、性格も考えもその上司と合わないことが細かく描かれています。読書家のマッキントッシは、無学で粗野なウォーカーに探偵小説はないかと尋ねられ、ニベもない答えをするのです。さて、島民のひとりで、中心となってウォーカーと対決した男が、マッキントッシに助けを求めに来ますが、そこで、引出しの中にピストルがあることに気づきます。彼が気づいたことに、マッキントッシも気づきます。マッキントッシは、それと一言も口にせず、彼にそのピストルを盗む機会を与え、彼が去った後で、ピストルがなくなっているのを確認します。その後の展開は、定石通りながら、さすがにサスペンスがあります。ピストルが戻ってくることで、事件が起きたことを知るという段取りも見事なものです。「マッキントッシ」「奥地駐屯所」を比較すると、私は後者に軍配をあげますが、それでも、結末を含めて、前者には後者にない魅力があることも確かです。
 同じ短編集に入っていて、短編の代表作に数えられることもある「雨」も、ルース・レンデルあたりが書いていたならば、クライムストーリイと呼ばれていたかもしれません。もっとも、「雨」は、ミステリとしてというよりも、小説として古びていると、私は考えます。半世紀経ってみると、聖職者の肉欲は、あって当然で、「雨」という小説が終わった地点は、現在では、そこから新たな小説が始まる起点でしかないからです。しかし、だからといって、この小説がつまらないとも、お手本にならないとも、私は考えません。「雨」と並んで、早くから日本に紹介された「赤毛」は、結末のつけ方にモームの巧者ぶりが発揮されていると思います。こういう結末は、ミステリ読みやミステリ作家には、まず浮かばない。サキのところでも書いたように、それまでの物語のキイパースンから、彼を見ていた別の登場人物にフォーカスを合わせることで、角度を変えた結末をつけるというのは、抽斗に入れておきたい発想です。


北山猛邦『密室から黒猫を取り出す方法』[2009年9月]


『密室から黒猫を取り出す方法』のあとがき
『踊るジョーカー』につづくシリーズ第2弾
名探偵、おそるおそる五つの謎に挑む
(09年9月刊『密室から黒猫を取り出す方法 名探偵音野順の事件簿』)

北山猛邦 takekuni KITAYAMA

 

 前作の『踊るジョーカー』に続いて、シリーズ二冊目となりました。名探偵の音野順も少しは成長したでしょうか。僕は前作からほとんど成長できずにやっぱり編集部とイラストレーターの片山若子さんにご迷惑おかけし通しでした。先に謝罪と感謝を述べておきたいと思います。すみませんでした。ありがとうございました。
 今回、一連の物語でこだわった点は、『殺人事件であること』です。
 明るく楽しいミステリを目指した場合、本当は死体なんか出てこない方がいいに決まっているんです。殺人やら凶器やら、物騒な単語は出てこない方が、読者も穏やかにやさしい気持ちで読めるはずなんです。
 でもだめです。あえて名探偵とその助手には、殺人事件の謎を解いてもらうことにしました。そうすることで、軽さと重さのバランスをとりました。できることなら家で寝ていたい音野順は、人命がかかっているからこそ、なけなしの使命感に背中を押されて行動しているわけです。
 今回も〈ミステリーズ!〉で連載させていただいた短編四つに、書き下ろしの短編を一つ足した構成になっています。
 引き続き連載しているシリーズ短編ですが、2009年8月の〈ミステリーズ!〉でいったんお休みです。その掲載分を含め、いずれ三冊目も出ると思われます。
 これからも気弱な名探偵を応援してください。

(2009年9月)

北山猛邦(きたやま・たけくに)
1979年生まれ。2002年、『「クロック城」殺人事件』で第24回メフィスト賞を受賞してデビューする。機械的トリックの案出に強いこだわりを持つ一方、世紀末的かつ叙情的な独自の作品世界を構築し、若手本格ミステリ作家として将来を嘱望されている。ほかの著作に『少年検閲官』『踊るジョーカー』『「瑠璃城」殺人事件』『「アリス・ミラー城」殺人事件』『「ギロチン城」殺人事件』『アルファベット荘事件』がある。


推理小説の専門出版社|東京創元社
東京創元社ホームページ
記事検索
タグクラウド
東京創元社では、メールマガジンで創元推理文庫・創元SF文庫を始めとする本の情報を定期的にお知らせしています(HTML形式、無料です)。新刊近刊や好評を頂いている「新刊サイン本予約販売」をご案内します【登録はこちらから】


オンラインストア


創立70周年


東京創元社特設サイト