『騎士の陥穽』は、冨山房のフォークナー全集では、第18巻に『駒さばき』
しかし『駒さばき』に収められた6編は凡庸な作品群で、はっきり言えば、たいしたことはない。全体の半分近い分量を占める表題作にいたっては、ミステリ味は薄く、長い回想の入る、おなじみのフォークナーでした。作品の初出は、ハーパーズ、スクリブナーズ、サタデー・イヴニング・ポスト、そしてEQMM。最後の表題作(全体のおよそ半分を占めるヴォリュームがある)だけが、書き下ろしです。
さきほど「甥のチャールズが語り手をつとめることもあり」と書いたのは、そうでないこともあるからです。作品は初出順に並んでいますが、巻頭の「紫煙」のナレーションに、まず驚きます。どこの誰だかよく分からない人間の一人称で始まり、途中一箇所「われわれ陪審員」とあって、陪審員のひとりなのかもしれない。原文と照合しないと確かなことは言えません。この短編集の叙述形式は、訳者解説でわざわざ一節を割いて解説しているくらいで、イレギュラーな形になっています。二番目の「マンク」(『犯罪文学傑作選』の「修道士」のこと)はチャールズが語ります。次の「水をつかむ手」は三人称のようですが、語り手かもしれない正体不明の人物が、スティーヴンズと会話をしている個所がある。「明くる日も」「調合の誤り」とチャールズの語りがきて、最後の「駒さばき」にはチャールズが登場しますが、「形式的には客観描写」と訳者解説にあるので、もとは三人称なのでしょう。それを訳者が「チャールズの語りという形式に訳出してみた」というもの。
「紫煙」は最初読み始めたときに、その奇妙なナレーションに意識がいきました。一人称は一人称でも、複数がきている。一人称の主語がくる場合、常に「われわれ」なのです。これには奇妙な効果があります。非常に強い一体感を持った集団が、語り手の背後にあるような感覚を与えるのです。ただ、英語の原文に、そういうニュアンスがあるのかどうかは分かりません。新聞などに見られるWe(編集者のWeというやつです)とも違うように思います。だから、「われわれ陪審員」というくだりには、逆に、ちょっとがっかりしました。背景の集団は曖昧な方が、この「われわれ」は生きるからです。そして、このナレーションが生きた例こそが、おそらく、フォークナーの短編の代表作にして、フォークナーが書いたミステリの最高作でもあるでしょう。フォークナーが初めて雑誌に掲載した短編小説「エミリーに薔薇を」
「エミリーに薔薇を」は、きわめて有名な短編で、フォークナーの傑作選を選ぶと、まず漏れることがない。ゴシック仕立て、怪奇趣味、スリルといった言葉で評されることが多いようですが、私には、叶わなかった恋の物語――それも、グロテスクな破局を迎える恋物語に見えます。
斜陽の名家の生き残りだったエミリーが死に、彼女の生前は、何年も入る人のなかったエミリーの家に、町じゅうの人がやって来るところから、小説は始まります。そして、複雑な構成ながら、手際よくエミリーの過去のエピソードを、フォークナーは語ってみせます。父の死後、税金を免除されていたこと。父親の手で縁談から遠ざけられていたこと。父の死後、道路の工事にやってきた北部人ホーマーとの出会いとロマンス(町じゅうが注視している)。そのロマンスは、最初から、エミリーが捨てられると明かされています。殺鼠剤をエミリーが買うエピソード。何十年ものあいだに起きた出来事が、てきぱきと語られ、そして、結末で町の人々がエミリーの家で何を見つけたかを、読者は知ることになる。その見つけたものは、意外というほどのものではないかもしれません。しかし、そこから、過去の出来事をふり返ったとき、エミリーの恋心と、それが裏切られたときの動揺と、その動揺を押し隠したエミリーの毅然とした態度に、思い到るのです。
私は、かねて、原文でいうと he liked men の部分を、同性愛を示していると解釈しているのですが、あまり聞かない説なんですね。
ともあれ、この作品の叙述形式も、一人称複数なのです。エミリーを「一つのしきたりであり、義務であり、心労の種」と感じていた町の人々。エミリーと町の人たちは決定的に対比される必要があり、エミリーにまつわる出来事を語る人間(つまり、この小説の語り手)は、そのどちらに属するのか、曖昧にはできません。エミリーは間違いなく孤立しています。したがって、語り手はエミリーの側ではありえませんから、町の人々のひとりでなければならない。語り手が、常にWeと語るのは、そのためではないでしょうか。そういう意味で、私が所持している、福武文庫版の高橋正雄訳と新潮社版の龍口直太郎訳では、律義にくり返し「わたしたち」と訳している後者に軍配をあげます。
エミリーが町の人々に隠し続けたことは、それゆえに、町の人々のひとりが語り手であるかぎりは、あからさまには描きえないものでした。表面的な出来事の影に、それは隠されなければならないものだったのです。かくて「エミリーに薔薇を」は、巧みに構成されたクライムストーリイであると同時に、その犯罪の影に、多くの感情を塗りこめた、巧みな短編小説となりました。しかし、クライムストーリイには、このようなこともできる。という言い方は、不十分だと、私は考えます。ミステリには、このようなこともできる、そう考えるべきだと思うのです。同じようなことは、サスペンス小説にもできる。パズルストーリイにもできる。そう考えているのです。
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
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