Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(4/4)[2010年7月]




    12月13日

 さて、そろそろこの仮面の告白も終わりが見えてきたようだ。
 まだ俺には最後の一仕事が残されているが、その前に、もうじきこれを読んでくれるであろう青年のために、曖昧な点をできるだけはっきりさせておこう。

 十年前の八月十二日、能登七海を殺したのは、白石光……つまり俺だ。
 想像してみてほしい。
 自分が殺した女の顔をかぶって生きつづける……これほど恐ろしい拷問がまたとあるだろうか? 
 では、なぜそんな状況に陥ったのか。
 俺はかつて友であった男から強烈な復讐を受けたのだ。
 どこまでわかりやすく書けるか心もとないが、順を追って綴ってみよう。
 あの夏の日。稲村ケ崎の民宿。皆が寝静まった真夜中に、俺は能登七海を殺害現場となった空き小屋に呼びだした。部屋でビールを飲んで騒いでいたどさくさに、前もってメモ書きを渡しておいたのだ。おおよその内容はこんなものだ。
 藤江から大事な話がある、往路通りすぎた小屋の前で、先に彼が待っていると。
 つまり、七海ちゃんは藤江に会うために一人民宿を抜けだしたのだが、むろんメモの内容はでたらめで、藤江の与り知らぬことだった。
 一泊旅行のすこし前から、藤江と七海ちゃんはなかなか深刻な関係に陥っていた。卑怯にも俺は、その機に乗じて自分の想いを七海ちゃんに伝えようとしたのだ。数か月間の秘めたる横恋慕……当然、あわよくばという魂胆があっての行動だ。
 いまにして思えば、そんな姑息な手管を弄している時点で人の信頼を得られようはずもないが、当時の俺はとにかく彼女と二人きりになる場面を作ることに必死だった。何しろいちばん気づかれたくない相手は常に隣にいるのだ。東京に帰ってから、とも考えたが、ほんの些細なきっかけで彼らの仲が修復してしまう可能性は十分にあった。
 高校からの親友を裏切ってまでことを為そうという思いつめた心理状態……あのときの俺が普通じゃなかったのはたしかだ。

 俺が空き小屋に向かったのは七海ちゃんよりあとだった。彼女が出かけるのを確認する必要があったからだ。
 月の射す夜道を急ぎ、小屋の前に着くと、藤江の姿が見えないのを不審に思ったのか、七海ちゃんが鍵のかかっていない扉を開けて小屋のなかを覘きこむところだった。
 そこで俺は背後から声をかけ、粗末な小屋の前で、胸に渦巻いていた想いを不器用に吐きだした。
 結果は誰しも想像がつくとおり、無残な敗北だった。憤然として彼女は来た道を戻りかけた。機嫌を損ねたまま帰らせるのは最も恐れていたことだ。俺はあわてて彼女を腕を掴み、我ながらどうするつもりだったのか……半開きの戸口から強引に小屋のなかに引きずりこんだのだ。
 七海ちゃんは勝気な娘だった。力任せに手を振りほどくと、激烈な口調で俺を罵った。そのとき彼女が浴びせた手ひどい言葉……それをいまここに記すことはよそう。俺は頭に血がのぼり、発作的に彼女を突き飛ばした。七海ちゃんは短い悲鳴とともに転倒した。小屋の床は土間のはずなのに、妙に硬い音がした。壁ぞいにコンクリートのブロックが並んで埋めこまれているのに気づいたのはあとになってからだ。
 我に返ると、俺は森閑とした暗がりのなかに一人立ち尽くしていた。
 倒れた七海ちゃんは呻き声も上げなければ身動きもしなかった。
 気が動顛していた俺はとっさにその場から逃げだした。脇目も振らず民宿まで戻り、一度は部屋の布団に身を横たえたのだが……どのぐらいそうしていただろう、十分か、二十分か、ようやくいくらか冷静を取り戻して、さすがにこれはまずいと思い直し、夜道を小屋まで引き返すことにした。じつはこのとき、目を覚ました早見篤がただならぬ俺の様子を怪しんでこっそりあとを跟けてきていたのだが、のちに声をかけられるまで気づきもしなかった。
 ふたたび足を踏みいれた小屋では最悪の事態が待っていた。暗がりの土間、仰向けの状態で、七海ちゃんはすでにこと切れていたのだ。そればかりでない。倒れた彼女の傍ら、薄色の壁板に何やら文字らしきものが書いてあるではないか。
 小さな窓から朧な月明かりが射していた。七海ちゃんの横で屈みこんでいた俺は、すぐにそれを見つけてギョッとした。念のため携帯電話のライトで照らしたところ、黒っぽい文字は明らかに血で書かれたものだった。七海ちゃんは運悪くコンクリートブロックに後頭部を打ちつけており……命の灯が消える直前、みずからを死に至らしめた加害者の名を記したのだ、黒髪をねっとりと濡らした鮮血で「白石光」と。
 突然、何をしてる、と低い声がして、跪いた俺は驚きのあまり尻餅を突いた。
 戸口に佇んだ黒影の主は早見篤だった。
 どう言い訳してもごまかしようのない状況だった。俺は茫然自失のまま、何者かに操られているかのごとく事情を話し、それから、もうおしまいだといって泣いた。
 早見は無言で七海ちゃんの遺体を検め、板壁に滲【し】みこんで早くも乾きかけている俺の名前を見つめて、これを消すのは無理だな、といった。
 殺すつもりはなかった。あらゆることが悪いほうへ働いたのだ。まったく魔に魅入られていたとしかいいようがない。何もかも終わったと思った。数分ののち、早見はすべてを皆に告げるだろう。俺は観念し、絶望した。
 ところが、次に早見が発した言葉は思いもよらぬものだった。
 白と黒……、と奴は独り言のようにつぶやいた。そして、こいつは面白い。おい、何とかなるかもしれないぜ、と妙に活き活きとした調子でいったのだ。
 早見篤というのは聡明ではあるが自信過剰の皮肉屋で、もともと俺はあまり奴を好いてはいなかった。態度の端々から向こうも薄々気づいていたに違いないが、そんな男が窮地に追いこまれた俺に協力を申し出たのは、意外というほかなかった。
 白と黒。わずかの時間に早見が捻りだした奇想。奴は壁に書かれた「白石光」という文字を、「黒百合番太郎」に書き替えるというのだった。
「黒百合番太郎」……それは高校時代に藤江恭一郎が舞台に立ったときの芸名だ。その際の衣裳……鉄仮面と黒衣を藤江が旅行に持参していたことが早見に着想をもたらしたのだろう。それにしても頭のいい男ではある。
 藤江に罪を着せるのか? 情けない涙声のまま俺は訊いた。
 早見はいった。
 いささか説得力には欠けるが、あいつには……いや、あいつにだけは動機があるじゃないか。しかし、嫌なら止めてもいい。俺は宿へ戻って洗いざらいぶち撒けるまでだ。
 奴の声は闇が発するささやきだった。そうして結局、俺はこの恐ろしい提案に乗ったのだ……。

 腑抜けになった俺の目の前で、早見は死者の指を使って巧みに壁の文字を作り替えた。鮮やかなものだった。幸か不幸か元の文字はいびつに乱れており、少々の不自然さは気にならなかった。
 それにしても、ダイイングメッセージに細工を施したぐらいではとても安心はできない。が、早見の悪魔の脳髄は、ちゃんと次なる一手も考えていた。演劇マニアだった奴は、唐突に以前観た舞台の話を始めた。それは一見場違いとも思えるこんな話だった。
 親子三人の朝の食卓、卓袱台の向こう正面に父親が坐っている。大きく広げた新聞のせいで、客席から彼の上半身は見えず、ただ声だけが聞こえている。やがて、いつまで経っても食事に箸をつけない夫に腹を立てた妻が新聞を取り上げる……と、なんとその男には首がないのだった……。
 ナンセンスコメディのドタバタ劇とのことだったが、仕掛けはこうだ。夫役の俳優は肩幅の「あんこ(かさ増しのための補強材を演劇用語でそういうらしい)」で頭部を左右から挟みこみ、それを包む大きな衣装を着ているのだ。要するに実際の頭の上に作りものの肩があるというわけだ。この場合、腕の生える位置が多少おかしなことになるけれど、そこは衣裳のデザインでカバーしていたという。それと似たようなことをやろうと早見篤はいうのだった。
 何でもいい、とにかくあり合わせの衣類を紐で縛って型を作る。かつて奴が舞台で観たものとは違い、今回の型には贋物の頭も付いていて、そこに藤江恭一郎の持ってきた鉄仮面をかぶせるのだ。その上から藤江の長身に合わせた丈長の黒衣を着こめば、上手い具合に藤江と同じぐらいの背丈をした仮面の怪人物が出来上がるという寸法だ。むろんこれでは前が見えないが、黒衣の胸もとを目立たぬように裂いておき、そこから視界を確保する。
 俺たちは足を忍ばせて宿の部屋に戻り、計画を遂行した。その脇で藤江はぐっすりと熟睡していた。
 早朝五時、早見の指示で、俺は突貫作業の扮装をまとってひとしきり海岸通りをさまよい(浜辺にはすでにサーファーたちの姿があった)、ふたたび部屋に戻って仮面と黒衣を藤江のバッグに戻すと、何ごともなかったかのように布団に入って時を待った。薄闇のなか、隣で早見の目が悪戯っぽく笑っていた……。
 やがて六時半ごろ、別部屋の女子が戸を叩き、七海ちゃんの姿が見えないことを告げた。
 すべては目論見どおりだった。ほどなく一同で捜索が始まり、その過程で仮面の男の目撃談が飛びこんでくる。思いもよらぬ場所、古びた空き小屋のなかに変わり果てた少女の姿を見出すまでにはいくばくかの時間を要した。
 そこから先は、やはり目論見どおり藤江恭一郎の身に嫌疑が及び(不運なことに彼には夢中遊行の奇癖もあったのだ)、この罪のない友は、以来二重の苦しみを舐めつづけることになったのだ。

 能登新月くん。
 以上が十年前の事件の真相だ。
 君の姉さんを殺したのは俺だ。白石光だ。
 その晩の一連の行為、あれは本当に俺自身がやったことなのか? どうにも不思議で仕方がない。あれは若さゆえの過ちであったと思う。だが、そんな言い訳が通用しないのは百も承知だ。
 俺は悪魔に魂を売り、友を裏切り、のみならず、その後も親友の仮面を着けて彼に同情を示し、励ましつづけたのだ。
 それでも過去が時の彼方に封印されてしまったなら、俺は鼓動を止めた心臓を胸に収めたまま、いっさいを割り切って血の気のない顔で平和に暮らしていたかもしれない。ところがそうそう上手くはいかないものだ。
 この一件からほどなくして、以降十年間にわたる早見篤の恐喝が始まったのだ……。
 大学を中退した藤江は、持ち前の才能を如何なく発揮して芸術家となった。けれども運命は彼にさらなる試練を与えた。工房での爆発事故……やがて藤江は忽然と俺の前から姿を消した。
 彼がこの邸に棲んでいることを知ったのは今年の九月だ。或る日、俺は彼から一通の手紙を受け取った。
 それは文字どおり俺を地獄へ突き落とす復讐の一太刀だった。事故による長期入院のあいだに、ついに藤江は遠い悲劇の真実に到達したのだ。細部こそ想像の追いつかぬところはあったものの(細部……早見篤の関与が抜けていた)、彼はほぼ真相をいい当てていた。
 手紙の一部をここに抜萃しておこう。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(前略)
 あの夏の海辺で、誰が能登七海を殺したのか。それともあれは事故だったのか。
 長い時間が過ぎたいまになって、僕には悲劇の真の形がよく見える。
 白石、もちろん君は先刻ご承知だろう。
 ダイイングメッセージ……そう、能登七海はたしかに己の血で犯人を名指ししたのだ。
 君にはわかるはずだ。君にだけはわかるはずだ。
 黒百合番太郎。白石光。
 闇に射す太陽。黒のなかの白。
 この数枚に及ぶ手紙とは別に、僕は君にちょっと風変わりな贈りものをしておいた。いずれそれを手にしたとき、君はその意味するところを理解してくれるはずだ。
 答えは出たのだ。
 いわば君は出題者であり、僕は回答者……否、告発者、復讐者だ。
 あの日起こったことを、いまから僕なりに説明してみよう。
 なかなかよく考えたと感心してくれたらいいのだが。
(中略 ※ここで事件についての推理が披露されている)
 白石、僕は死を選ぶことに決めたよ。
 昨年、敬愛すべき老音楽家が死出の旅路についたこの家、この部屋で、僕もまた同じ道を行くのだ。
 もうじき主【あるじ】不在となるこの家だが、かねてのご要望どおり、君には僕の身代わりとなってここで暮らしてもらおうと思う。それは君自身が望んだこと……よもや忘れてはいまいね?

 或るとき、君は僕にこういった。「お前はずいぶん不幸な目に遭ったが、それでもお前には芸術があるじゃないか。これは激励なんかじゃない。俺はお前がそんな無残な姿になったいまでも、お前のことがうらやましいのだ。叶うなら取って代わりたいとさえ思う」と。
 吉祥寺の工房での事故のあと、長い入院期間に、僕は君を自分の身代わりに仕立てる方法を考えていた。むろん深い意味はなかった。暇つぶしのよしなしごとだ。だが、僕はそこで気づいてしまったのだ。あの事件の夜、僕を陥れるために君が弄したトリックについて。それは先ほど克明に記したとおりだ。
 白石、僕は思い出を懐かしむために七海の仮面を拵えたのではない。ましてや、僕が死ぬのは顔面に負った惨たらしい傷のせいなどではない。僕は、長いあいだ友と信じて疑わなかった男に裏切られたがため……その裏切りの、想像を絶する残酷なやり口に絶望するあまり、世を儚んでみずから命を絶つのだ。
 白石、お望みどおり君には今後「藤江恭一郎」として人生を送ってもらう。
 そのために用意した君への贈りものが、すでにいま目の前の机に載っている。一目見て、君はすべてを諒解するはずだ。僕が本当に十年前の事件の真相を見抜いてしまったことも、自分がそれをどう活用すべきなのかも。
 むろん選択権は君にある。ただし忠告したいのは、もしも僕の死亡が確認されるか、その家から僕の姿が消えて或る一定期間を経過した時点で、いっさいを暴露する封書が開封される手筈になっている。その作業はとある弁護士事務所で速やかに行われるだろう(大人になって、その程度の智恵は僕も身につけたのだよ)。
 拘束期限は君の寿命が尽きるまでだ。君は死ぬまで「藤江恭一郎」としてこの雑木林のなかの一軒家で過ごすか、それともどこかに別の道を見出すのか……その決断の仕方が甚だ興味深いところではある。もちろん、刑事罰の時効はいずれ訪れるだろう。だが、「法に問われぬ殺人者」の烙印を背にのうのうと生きていく勇気が、はたして君にあるだろうか……。

 これから君がしなくてはならないことを伝えよう。
 まずは天井からぶら下がっている僕の死体を下ろしてもらう。それから僕の顔を覆っている鉄仮面(君が殺した女の顔だ)を外し、机に置いてある君への贈りものに装着してほしい。サイズはぴったりに作ってある。
 次に君は、僕の死体を裏庭に埋めなくてはならない。僕をこの世から消し去ることで、初めて君は僕になり遂せるのだ。これを読み終えたあとで裏庭へ行ってみるといい。非力な君のため、ちゃんと埋葬の穴を掘っておいてあげた。君が「藤江恭一郎」としてここにいるかぎり、僕の死体が見つかる気遣いはないだろう。
 ここまで済んだらあとは自由だ。「藤江恭一郎」として、好きに暮らすがいい。もう一度、芸術の道に励むのもいいかもしれない。もっともその場合は、相応の作品を作ってもらわないと僕の評判が落ちる。心してくれ。
 何しろ急な話だから、当面は白石光と「藤江恭一郎」、二重の生活を強いられると思う。だが、なるべく早く君は「藤江恭一郎」になりきらなくてはいけない。その方法は君に任せる。早晩、白石光のほうには会社を辞めてもらい、そのまま海外にでも移住してもらうのがいいんじゃないか。ようく考えて巧くやることだ。
 健闘を祈る、白石光くん……否、「藤江恭一郎」くん。
                              死せる藤江恭一郎
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 さあ、あまり悠長にしてもいられない。ここからは駆け足で進めよう。
 藤江恭一郎の遺書に命ぜられるままに俺はこの邸を訪れた。そして、若き芸術家の縊死体を発見し、彼の手になる奇抜な贈りものを受け取ったのだ。それが何であるか、君にはもう想像がついているだろう。十年前に俺と早見が慌てて拵えたもの……つい先日、早見篤が「影百合」に化けるのに用意したもの(あの怪人の正体は早見だ)……チビの俺が「藤江恭一郎」となるための「長身具」が、これ見よがしに机の上に置かれていたのだ。さすがは芸術家だ。それはまるで一個の商品のように滑らかにプラスティックを成形してあった。
 もはや逃げ道はなかった。藤江のいいなりに動くか死ぬかの二者択一だ。
 俺は適当な理由をつけて勤め先の出版社を辞める手筈を調え、時に白石光として、時に仮面の「藤江恭一郎」として、後者に完全移行するための準備を始めた。その過程では、先々の予行演習のつもりで、知人(担当していた老作家)の前に「長身具」を装着した姿で現れたりもした。是璃寓で君と出会ったのもそんな時期だったのだよ。
 能登新月くん、俺は死せる芸術家から復讐を受けたが、当然彼だけでなく、君からも同様に復讐さるべき男だ。それから、何を措いても君の姉さん、少女のまま生涯を閉じた七海ちゃんから最も重い罰を受けなくてはならない。
 俺は一度は君を殺そうとした。すまなかった。だが、葬るべきは君ではないと危ういところで気がついたのだ。
 ゆうべ、早見篤が血相を変えてここへやってきた。死んだはずの君が写真館へ現れたという。前の晩(君が写真館を訪ねた日)に電話があったが俺はしらばっくれていた。しらばっくれて、奴がここへ来るのを待っていたのだ。
 能登くん、いま君がいる部屋の隅に、ソファやテーブルが寄せてあるだろう。早見篤の醜い死体はその陰に横たわっている。学生時代、そして社会に出てからも、俺があの男にどれだけ毟り取られてきたか……自業自得といわれてもかまわない、俺は俺でひとつの復讐を成し遂げたのだ。

 この手記を書き終えたら、俺はここからいちばん近い公衆電話まで出かけて君に電話をするつもりだ。ぜひもう一度、ここへ来てほしい。君ならきっと来てくれると信じている。
 今夜はあいにくの雨模様だ。冷たく濡れた体で君がこの部屋の扉を開くころ、俺はもうこの世にはいない。君は机に置かれた奇抜な「長身具」を見つけ、この手記を読んで、すべてを知るだろう。早見の車はとある場所に移動させておいたが、一日帰らないことでそろそろ騒ぎになりはじめているかもしれない。一刻も早く君がこれを読んでくれることを祈らずにはいられない。
 いま俺の手もとに残されたもの。
 鉄仮面、黒衣、「長身具」、藤江恭一郎の遺書、君が工房からくすねてきた写真、それから……。
 面白い話がある。
 昔読んだカミュの『異邦人』、その文庫本の解説にこんなことが書いてあった。主人公ムルソーの名は、「死(Mort)」と「太陽(Soleil)」の合成ではないかというのだ。
 その伝でいけば、さしずめ白石光は「白い光」……いわば太陽であるが、いかにもこれは俺の人間性にそぐわない。むしろ白石を「白い死」とでも読み変えたほうが似合いのようだ。
 一方、能登新月……不可視の月をその名に持ちながら活き活きと明るい君は、俺よりずっと太陽らしい。
 こんな言葉遊びを別辞として、俺は君にこの仮面の告白を託すとしよう。
 読み終えたら警察へ連絡してくれたまえ。
 さようなら、新月くん。
 そして、友よ、いつ何時もわが傍にあり、最後の最後まで離れることのなかった親しげな友、「孤独」よ――。
 さようなら。
 お前だけに見守られながら、俺は道を外れてしまった憐れな人生に終止符を打つ。

                 *

 電気スタンドの明かりで手記を読み終えた能登新月は、肱掛椅子から立ち上がると、ぼんやりと黝【くろず】んだ部屋の奥へ向かい、ソファの陰に転がった眼鏡の男の死体を確かめた。
 それから中央へ返し、足を止めると、天井からぶら下がった縊死体を見上げた。黒衣の裾は胸もとあたりまで垂れていたが、おそらく内側の爪先はだいぶ上にあるだろう。死体は、作りものではない自身の顔に鉄仮面を着けて首を縊っていた。仮面は美しい少女の顔をしていたが、空洞となった両の黒目は、あたかも次なる生贄を待つように、虚ろにこちらを見下ろしていた。
 新月はまた机の前まで行って、白石光いうところの「長身具」を両手で捧げ持った。のっぺらぼうの白い顔が目の高さにある。本来、鉄仮面はそこに装着されているべきなのだ。気味の悪い作業になるが、どうにかして縊死体から仮面を外さねばならないと思った。
 彼はいったん死体を振り返り、ふたたび両手に抱えた妙ちきりんな物体を見つめた。
 仮面。黒衣。奇抜な「長身具」……変身の種はすべてそこにあった。
 暗い雑木林の奥に潜む、恐ろしく背の高い黒衣の鉄仮面。
 狂気を宿し、人々の惧れと好奇の目のなかを、美しい十七の少女の笑みを湛えて徘徊する、謎の芸術家……。
 薄明かりのもと、ふいに新月は打ち震えた。若き猟奇の徒の滑らかな頬は徐々に火照りはじめ、爛々と耀きだしたその双眸は、見る間に怪しげな潤みを帯びてゆくのだった。

                                 (完)


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(3/4)[2010年7月]




    11月23日

 約束どおり「あの男」がやってきた。
 鉄仮面と黒衣に身を包んだ長身の俺を、奴は薄気味悪そうに見上げた。
 藤江、久しぶりだな、と、曖昧な笑みを浮かべながら奴はいった。
 俺は苦しげに喉を鳴らし、白手袋の右手を挙げて応えた。
 この部屋に腰を落ち着けたのち、昨晩電話で持ちかけた計画を再度俺は打診した。計画とは、能登新月をおびき寄せて、二人がかりで始末してしまおうというのだ。死体は裏庭に掘った穴に埋める。枯葉の降り積もる樹々に囲まれた庭。大丈夫、見つかりっこない。
 そもそもすでに裏庭には……いや、それはまたの機会に書くとして、結論からいうと、「あの男」は計画に手を貸すことをあっけなく承知した。提示した報酬がものをいったのだ。奴の口もとから笑みが消えることはなかった。所詮金がすべての男だ。外車でも買うつもりか、それとも獲らぬ狸の皮算用、さっそく写真館をより豪華に改築する青写真でも描いているのか。
 静まり返った部屋、俺たちは聞く者とてないのに声を潜め、能登新月殺害の算段を始めた。
 金だけの男とはいえ、俗物は俗物なりに「あの男」にもユニークなところがあって、じつに突拍子もないアイデアを用意してきていた。
 どうせ殺してしまうとはいえ、万が一の場合を考えて、顔を見られるのはまずいというのだ。そこで奴が編みだした趣向が、俺などはすっかり忘れていた「影百合」の再現だった。
「影百合」……黒耀座の舞台役者、沼田欣児の化身。あの異様な姿を目にしたのは高校生の時分に一度きりだから、いかに強烈な印象を受けたとはいえ、むろんそっくりそのままというわけにもいくまいが、「あの男」は嬉々としてみずから仮面を拵【こしら】えるという。それをかぶって素姓を隠そうというのだ。これには顔を見られぬようにするだけでなく、現在どこで何をしているかも知れない沼田欣児に疑惑の矛先を向ける狙いもあった。
 沼田は藤江恭一郎と同様、一九〇センチを超えようかという長身痩躯の男だった。三〇センチ近くも背が足りないにもかかわらず、「あの男」は「影百合」こと沼田欣児に化けようというのだ。背の低い人間が長身を装う……何を隠そう、十年前の事件もそこにすべての秘密があったので、この提案を聞いたとき、内心俺はひやりとしたが、幸い奴は己の着想にご満悦で気づかぬようだった。
 ともあれ、そうと決まれば能登新月を呼びだす段取をしなくてはならなかった。もちろんそれは俺の役目だ。
 進捗があり次第、改めて連絡することを伝えて「あの男」を見送ったのは、つい一時間ほど前のことだ。


    11月24日

 今夜、白石光の携帯に「あの男」から電話があった。
 ゆうべ藤江に会ってきたといい、そこで交わされた内容については秘密だという。ほくそ笑むような声調子は、藤江恭一郎に信頼されているのはお前ではなく俺なのだと暗に語っていた。
 馬鹿な男。
 窮鼠却って猫を噛むということを知らないのか。
 無間の苦しみ……すべての元凶は、早見、お前なのだ。


    11月26日

 是璃寓のマスターに能登新月宛の手紙を預けてきた。
 十二月一日夜十時、この邸への招待状だ。
 思いもよらぬ色よい返事を前にして、彼はいったいどんな顔をするだろうか。
 あの青年なら、期待を裏切ることなく伝言を受け取り、暗く恐ろしい迷路も易々と通り抜けて、首尾よくここまで辿り着けるはずだ。ふいに目の前に現れた好奇心旺盛な年少の友。君を待ち受けているのはさらに恐ろしい結末だ。心からすまないと思う。が、俺が同情を寄せるのもおかしな話だ。
 早見篤にもさっそく知らせておかねばならない、「影百合」に変身する準備もあろうから。
 それから是璃寓のマスター。愉しい時間をありがとう。もはやあの狭い階段を下ることも、安酒のキープボトルを傾けることもない。
 もうじき俺の二重生活も終わる。


    12月2日

 俺はあの青年を殺せなかった……。
 ゆうべの出来事をどこから記せばよいだろう。
 夜十時、注文どおり能登新月がやってきた。庭の暗がりには「影百合」の早見篤が隠れている。あいつときたらすっかりゲーム感覚なのだ。俺は玄関の沓脱で、ドアを細目に開けて待機していた。
 いよいよ「影百合」がその邪悪な姿を現す。突如出現した長身の怪人に、青年はさぞや胆を潰したことだろう。
 どちらが手を下すかは決めていなかったが、青年に一撃を加えたのは早見だった。したたかに頭を殴られ、手もなく気絶した能登新月。その体を足もとに見下ろして、早見篤は俺にとどめを刺すよう求めた。最後の一線だけは、みずからは手を汚さぬというわけだが、もとよりそれは俺が遂行しなくてはならない行為だった。
 だが、ここに至って俺の心にためらいが生じた。けっして怖気づいたわけではない。柄にもない仏心、それとも違う。上手く説明できないが、あのとき俺のなかで計画は大きく軌道修正されたのだ。
 軌道修正……思えば以前、俺は本手記のなかでその可能性に触れていた。この計画は「上手くいけば一石二鳥、状況に応じて軌道修正もできる試み」であると。できるかぎり自分の気持ちに沿う結末を。早い段階で、すでに俺は針の振れる向きをぼんやり予測していたのかもしれない。
 倒れる直前、至近距離で対峙した際の能登新月の表情。月明かりの庭で彼の眸に映っていたのは、むろん俺の顔ではなく、十七歳当時そのままの彼の姉さんの微笑だ……。
 もうやめよう、もう終わりにしようと俺は思った。
 突っ伏した青年を挟んで立つ「影百合」の扮装の異様さは、からくりを知っている俺から見ても凄まじかったが、幸いにしてこちらも表情を読み取られることのない恰好だ。さりげないふうを装って、俺は早見篤に、こいつはあとで始末して裏庭に埋めておくと伝えた。裏庭に掘られた深い穴を奴は前もって確認していたから、俺の言葉を疑わなかった。殺害計画を持ちかけたのはこちらなのだから、よもやその俺が翻意するとは早見も想像だにしなかっただろうし、そもそも青年を生かして帰すことには何のメリットもない。俺がそんな愚行を犯すとは思わなかったのも当然だ。
 しかし実際には、真夜中、俺はぐったりした青年を背負って井の頭公園まで運び、人目につきそうなベンチに横たえて帰ったのだ。道のりは長く、えらい苦労をしたが、道中人と会うことはなく、青年も目を覚まさなかった(本当に死んでしまったのではないかと幾度も疑ったが、彼の体は温かだった)。もしも途中で青年が意識を取り戻していたら……そのときは俺もどうしていたかわからない。
 俺は能登新月を殺せなかった。
 それでいい。
 俺が殺すべきは彼ではない……。
 ともあれ、あの青年を生かして帰したことで、俺の運命はいよいよ決定づけられた。


    12月5日

 この数日、能登新月の再訪があるのではないかと覚悟を決めて待っていたが、彼はいっこうに姿を見せなかった。
 まさかあのまま帰らぬ人となってしまったのではあるまいか。あるいはそこまでいかずとも、重傷で入院している可能性はある。もっとも、一時的に昏倒させられはしても、大ごとになるような殴り方とも見えなかったが。
 平穏とはほど遠い、不気味な凪の日々が続く……だが、このままで終わるはずはないのだ。
 事態は近いうちに必ず動きだす。
 俺はそのときを待っている。

 過去はただ思い出に変わるだけの存在だと、或る時期まで俺は信じこもうとしていた。しかし、そうではなかった。過去は時として現在に牙を剥き、未来すら獰猛に噛み殺す。たとえこの先にどんな暗い前途が待ち受けていようとも、過去というのはそれ以上に恐ろしい存在なのだ。なぜなら、いかに藻掻こうと、いかに泣き縋ろうと、それはけっして消し去ることも変容させることも叶わないのだから。
 考えてみれば、あの日あの瞬間に端を発し、今日この日まで続いてきた俺の苦悶、これすべて、過去から現在、そしてまだ見ぬ行く末に向かって伸びつづける長い影のしわざではないか。闇さえも透過して伸びる過去の影法師。そう、過去こそが真の軛なのだ……。
 去る九月の終わり、俺は一通の手紙を受け取った。そこには、十年前に起きた或る殺人事件の顛末……いまだ公にされていない真相が記されていた。手紙の送り主は当時の事情に通じた人物で、ただ俺一人に読ませたいがためにそれを書き綴ったのだ。
 男はすべてを看破していた。俺は真正面から自身の罪を突きつけられ、あえなく彼の掌中の鳥となった。だが、唯一、彼の知らないことがある。俺が相当な代価を払って身の安全を購【あがな】ってきたという事実だ。仮に彼がそのことを知ってくれていたら……いや、それでも一緒だ。だからといって俺の罪が消えることはない。過去を消し去ることなど誰にもできはしないのだ。
 もう何度読み返したか知れない告発文を、今夜もまた俺は机の抽斗から取りだして目を通す。  いまとなっては、この手紙を真に必要としているのは能登新月ではないか。


    12月11日

 いよいよ歯車が回りだした。
 いまさっき早見篤から電話があり、昼間、能登新月が店に来たといった。奴にしては珍しくうろたえており、また、ひどく苛立っていた。何がどうしてそうなったのか、わけがわからないようだった。
 不穏な凪の状態は思いのほか長く続いたが、能登新月が早見の写真館を訪ねようとは意外だった。彼は勘づいたのか? どうやって? それともただの偶然だろうか。
 いずれにしても無事であってくれてよかった。
 受話器越しに詰問する早見に、俺は先夜手違いがあったことを伝え、明晩もう一度ここへ来てくれるよう要請した。
 奴は必ず来る。
 そうしないと自身の身が危ういからだ。


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第5回(最終回)(2/4)[2010年7月]




    11月4日

 そう、俺は界隈で狂人として通っている。しかし、イカレていると周囲に思わせておくのは、一面ではなかなか好都合でもある。なぜならそれは、地域のなかで俺の存在が揺るぎなく一つの位置を占め、ひいては人々に認知されている証でもあるからだ。
 この邸を知る者はごく少ないが、彼らにしても、いまではもうすっかり稀薄になった好奇心と、憐れみと、それからいくぶんかの懼れをもって、遠巻きに、さりげなく、この風変わりな存在を意識し、時に囁きあいつつ、それでいて、あちらから接触してくることはついぞないのだった。俺は頭のおかしい、かわいそうな芸術家……そっとしておいてあげましょうというわけだ。
 ところで、いまでこそお墨付きを得ているものの、初めのうち、こちらの異様な風体は、不審人物として地元警察の注意を強く喚起したらしい。当然といえば当然だ。そもそも警察には、俺がこの家に移るずっと以前から、当方の動静を把握しておきたい或る理由があったのだけれども、それについてはいずれ日を改めて書き記すことになろう。
 さて、近隣で最も栄えている街といえばご存じ吉祥寺だが、むろん俺が人混みのなかを大手を振って闊歩するなどありえない話だ。のこのこ出ていって騒ぎになっては困るし、いきなり黒装束の鉄仮面と鉢合わせして卒倒でもされたら敵わない。物好きな男の仮装とでも受け取ってくれたらいいが……いや、だが、意外とそれで通用しそうな気がしないでもない。
 ともあれ、俺はなるべく出歩かないようにしているし、食料や生活用品も決まった店に配達してもらうことが多いのだが、困ったことには、あの吉祥寺の井の頭公園を真夜中にふらつくのが、俺にとって唯一の息抜きなのだ。
 あそこは季節によっては遅くまで人けがあるし、夜も明けやらぬ早朝から散歩やジョギングをしている者も見受けられる。それでも広い公園のことだから、人目につきにくい場所はいくらもあって、眠れぬ夜、俺は無聊と鬱屈をみずから慰めるため、こっそり家を抜けだしてはさまよい歩く。なかにはそんな姿を垣間見て、幽霊か何かと勘違いした人もいるのじゃなかろうか。もっとも、そういうときの俺は闇に乗じ、闇に紛れ、闇と同化しているから容易には見つかるまいが。あるいは白い手袋だけがふわふわ宙を漂っているように見えたかもしれない。
 俺の歩みは老人のように緩慢で、野生動物のように慎重だ。深海の底のような静寂。俺は頬をじかに撫でることのない風を感ずるべく感覚を研ぎ澄まし、夜気の匂いを嗅ぎとろうと努める。遊歩道の途中でふと空を振り仰げば、限られた視界のなか、頭上を覆った樹々の梢は闇にあってなお黒く、まるで夜空に刻まれた無数の罅割れのごとく錯覚された。なぜかしらその光景は、決まって俺を悲しくさせ、また、不可視の物の怪に背後からまといつかれるような不安を呼び起こすのだった。
 あれこれ書いたが、一言付け加えるなら、俺は何もここに住んでいること自体を秘密にしているわけじゃない。ただ、余計な穿鑿をせずに放っておいてもらいたいだけなのだ。


    11月10日

 この部屋で過ごす俺の前には、鬱々とした時間だけが果てもなく連なり、真っ黒な不安の塊が、じわりじわりと心を圧迫していくのが手に取るように実感された。ここには俺の心を愉しませるものは何もない。テレビもなければ音楽もない。書物もない。作りつけの大きな書棚は空っぽのまま、降り積もる埃だけが日々厚くなってゆく。
 俺は怯えている。四六時中、怯えている。何より恐ろしい存在が、皮肉なことに常に身近についてまわる。
 鉄仮面。その美しい顔が、その涼やかな微笑が恐ろしい。十七歳の少女の顔が俺を告発する。断罪する。
 仮面は俺にとっての軛【くびき】なのだ。この仮面に俺は囚われ、この仮面に俺は生かされている。死ぬまで俺は仮面から逃れることができないだろう。
 風に震える木立の葉ずれ、枝々の軋み、それ以外、昼夜を問わずしんと静まり返った暗がりにいると、じつに奇妙な夢ばかり見る。多くは悪夢だ。悪夢……悲しい夢といったほうが当たっているか。身を切られるようなせつない夢だ。
 この部屋にベッドはない。ソファの上で目覚めると、枕がわりのクッションは決まってじっとりと湿っている。俺はフロアスタンドの微光のなかで目を見開き、直前の夢をうっそりと反芻する。そうしてしばしのち、改めて長々とぶざまな嗚咽を漏らすのだった。
 友よ、常にわが傍にある友よ。
 ただお前だけがそんな俺の浅ましいすすり泣きを耳にし、その涙のわけを知っている。


    11月17日

 困ったことが起きた。
 思わぬ形で運命が暴走を始めた……嫌な予感がする。
 予感……いや、そんなあやふやな表現では済むまい。
 困ったことになった。
 ゆうべ、一人の青年に会った。能登新月。十年前に死んだ能登七海の弟だという。突然の出会い。偶然めかしてはいたが、本当のところはわからない。しかし、藤江恭一郎の名が出たときのあの青年の驚愕……たしかにあれは真実らしく見えた。
 十年前というと、能登新月はまだ子供だったろう。当時の経緯について、彼の記憶、認識は曖昧なようだった。だが、彼は「黒百合番太郎」の名を知っており、藤江恭一郎に会いたいといったのだ……。
 さて、これからどうしたものだろう?
 ゆうべからずっと俺は迷いつづけている。「あの男」に報告するべきか? しかし、それが必ずしも良い結果を生むとはいいきれない。まだだ。もうすこし様子を見たほうがいい。
 夜ごとの悪夢は悩みの種だが、とうとう俺はその眠りさえ奪われてしまった。


    11月21日

 すでに日付は変わったが、今夜(二十日夜)、ふたたび能登新月に会った。どうやら先日来、俺が来るのを根気強く待ち伏せしていたらしい。
 俺も俺で、是璃寓【ゼリグ】になど足を運ばなければよいものを、あそこのカウンターでグラスを乾す機会もあと何度だろうと思うと、ついつい未練が先に立ってしまう。いや……それ以上に、何とも奇妙なことだが、俺は心のどこかでもう一度あの青年に会うことを望んでいたのかもしれない。
 危険な存在。運命を左右する男。問題はその「左右」で、どう転んでも俺は救われない身だ。ゆえに、まかり間違って能登新月が現在の軛から解き放ってくれはしまいか……そんな虫のいい期待をかけていなかったとはいえない。まさしくアンビバレントな心理というしかないが、青年がまた一風変わった男で、妙な魅力がある。その印象が俺に危ない橋を渡らせたようにも思う。
 彼から逃げ遂せることは容易だった。いや、何も過去形で書くことはない。いまからだってそれは十分可能なのだ。要するに、まだまだこちらに分があると踏んだ上でのいやらしい行動というわけだ。
 その結果、俺は能登新月とずいぶん話しこむことになった。十年前の事件についても詳しく聞かせてやったが、真相を明かさなかったのはいうまでもない。
 青年は、彼の姉を殺したのが藤江恭一郎だと確信したようだった。一方、俺は友人を庇う素振りを見せつつも、決定的なところははぐらかしつづけた。
 初対面から数日のあいだに吉祥寺の工房にまで侵入していた青年は、もうどうしても藤江恭一郎と対決しないことには収まらないふうだった。お坊っちゃんらしい外見に似ず、その目的を遂げるためなら彼が手段を選ばないだろうことを俺は見て取った。そこで、明確な拒絶はせずに含みを持たせておくことにした。すべてはこちらの肚ひとつだ。工房は見つけだせても、彼が自力でこの邸に辿り着くのは至難の業だろう。
 能登新月という駒をどう動かすか。
 最良の策をじっくり練らなくてはならない。
 時間はある。


    11月22日

 日曜の午後。
 ゆうべからずっと考えていた。ずいぶん迷った。
 いずれにしても因って来【きた】る結果は同じなのだ。とすれば、何もわざわざ能登新月の要求を満たしてやることはない。だが、こちらの負い目はさておいて、どういうわけか俺はあの青年が嫌いではない。あれは子供だ。好奇心いっぱいで、怖いものなしの子供。どうしても俺の仮面を剥ぎ取りたいらしいが、お生憎さま、仮面の下に顔なんかないのだ。
 いまの自分の気持ちを、俺は正しく表現できない。
 これから始まる新たな生活。だが、すでに俺は疲れきっている。この十年、みずから命を絶つ勇気があったらと何度思ったか知れない。もう俺は楽になりたいのだ。
 選択肢は多くない。その一つ。この部屋で能登新月と対面すること。
 仮にそうなったとしてみよう。彼は俺に向かって何を語り、何を問いかけるだろう? おおよその想像はつくけれども、そのくせ俺は、彼とのやりとりを現実としてイメージすることができない。まだ見ぬその場の光景は、まるで舞台の一場面のようだ。俺は二人芝居の一方の演者である。シチュエーションだけはどうやら決まっているが、台本に台詞はいっさい書かれていない。俺はそこで何を演じ、何を話すだろう?
 わからない。俺は自分が何者なのかがわからない。自分が現実を生きているのか虚構を生きているのかがわからない。
 待て。こんなことではいけない。
 すこし冷静になったほうがいい。接触の仕方を熟考しなくては。
 やり方は二通りある。俺はいまその狭間で揺れている。一つは、洗いざらい彼の前で告白してしまうことだ。そしてもう一つは……だが、こちらもなかなか難しい。非常に危険な賭けだ。
 いずれ因って来る結果は同じ……とはいえ、あの青年にすべてを曝すのは、たぶんいまではない。いまはまだ、そのときではない……。
 焦るな。拙速は禁物だ。二通りといわず、ほかにも手はないか考えることだ。もっと、もっとよく考えてみなくてはいけない。
 デウス・エクス・マキナ。
 この期に及んで、俺はまだ、俺にとって都合のいい神の降臨を望んでいるらしい。恥ずべきことだ。愚かしいことだ。
 机の抽斗にしまわれた一枚の写真が俺の心を責め苛む。
 過去は暗く長い影を曳く……。
 友よ、常にわが傍にある友よ。
 俺は確実に破滅へ向かっているね?

 じっくり策を練るつもりだったが、どっちつかずの状態は神経を疲弊させた。こうしているあいだにも、あのせっかちな青年が思わぬ次の一手に打って出て、がらりと状況を変えかねないという危惧もあった。
 そこで先ほど、夜九時すぎに、俺は心を決めて行動を起こした。公衆電話から「あの男」に電話をしたのだ。あえて携帯ではなく自宅にかけたのは、それが昔から変わらぬ番号だからだ。
「藤江恭一郎」だと名乗ると、予想どおり「あの男」はひどく驚いていた。長らく音信不通の間柄だったのだから当たり前だ。俺は三年前に負った重傷のいきさつから現在の所在まで、途切れ途切れに語り聞かせた。十年前とは似ても似つかぬ苦しげな掠れ声も、爆発事故の影響なのだ。
 電話で俺が「あの男」に持ちかけたのは、能登新月殺害についての相談だった。
 突如現れた能登七海の弟。
 姉を殺した犯人を藤江恭一郎と見定めて、十年越しの復讐を果たすべく俺をつけ狙っている……。
 しばらく身を隠していたがもう限界だ、と俺はいった。このままでは殺される、返り討ちにするため手を貸してほしいと。
 白石にも話したのか、と「あの男」は訊いた。
 小心者の白石では頼りにならないと俺はいい、できるだけ少人数でことを済ませたいのだと答えた。助太刀の報酬として提示したのは、死んだ父親の遺産の一部と、手もとに残っていた作品を売り払って作った金だ。
 しばらく黙ったあと、明日の晩、直接会って話そうと「あの男」はいった……。

 ゆうべから決めあぐねていたこと。
 能登新月に一切合財を打ち明けること。能登新月を殺してしまうこと。「あの男」に相談すること……。
 能登新月にすべてを告白した場合、当然俺は破滅する。これまでの苦労も水の泡だ。いっそ懺悔して、彼の温情に縋ってみるか。彼は変わった男だ。上手くいけば味方に取りこめるかもしれない、そんな気さえしてくる。だが、いくら何でも姉の死の真実を知って不問に付すほどお人好しではあるまい。
 一方、彼をここへ呼んで葬り去った場合は……いやいや、そんなことが上手くいくとはとうてい思えない。ことはより重大になり、罪を重ねた俺は幾層倍の業火に身を焼かれることになろう。
 では、「あの男」に頼るのはどうか? 俺の罪が満天下に曝されるのは、奴にとっても旨くないはずだ。奴なら何らかの打開策を思いつくのではないか。だが、それはあくまで「あの男」自身の保身のための策に過ぎないのだ。奴は簡単に俺を切り棄てるに決まっている。いつもの皮肉な笑みを浮かべながら、俺の耳もとへ、たった一言「死ね」とささやくに違いない。
 こうした迷い、逡巡の果てに、俺は或る「奇手」を実行することにしたのだ。上手くいけば一石二鳥、状況に応じて軌道修正もできる試みで、考えうるかぎりリスクもいちばん少ないはずだ。
 いずれにせよ、早晩俺は破滅する。その時期を先延ばしするためだけに、俺は苦痛を伴う延命療法をみずからに施しているようなものだ。
 俺には味方がいない。
 俺は一人だ。
 友よ、友よ、常にわが傍なる――。
 俺は仮面の下で血の涙を流している。
 能登新月と出会わなければよかった。


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