Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第3回(3/4)[2010年5月]




   4

 新月の姉七海は、平成十一年八月十二日、十七歳の若さで何者かに殺害された。その事件自体、いくつかの異様な要素を孕むものだったが、それに先立つこと二、三年前から、能登家には或るどす黒い悪意の刃が突きつけられており、七海殺害事件を機に、両者の関連は執拗に取り沙汰されるに至ったのだった。悪意の刃というのは、こういうわけだ。
 新月の家は、能登外科医院といって、練馬で曽祖父の代から続く開業医であった。或るとき、木暮由香利という若い女がこの病院にかかったことが、のちに起こる物騒な出来事の発端となった。
 初診訪問時、木暮由香利は腕を負傷していたという。診断の結果は左肘関節の亜脱臼で、院長である新月の父数馬が治療を施して帰した。その後も木暮由香利は不定期に通院を繰り返すようになったが、おかしなことには、やってくるたび負傷箇所が違っている。これは穏やかでないと見てとった新月の父は、なかなか真実を打ち明けようとしない女を宥めすかして、原因が内縁の夫の暴力にあることを聞きだした。無理強いはできないまでも父は警察に相談することを勧めたが、女はためらった。その内縁の夫というのが、沼田欣児といって、アングラ劇団で舞台役者をしている男であることがのちにわかった。
 黒耀座は旗揚げして数年の新進劇団、沼田欣児はそこの看板役者であった。当時三十代前半、ガリガリに痩せて、たいそう背の高い、まるでナナフシのような男で、その体型を活かし、無表情で独特の動きをしてみせるのが、怪奇派として、また毒気の強いシニカルな笑いを演じられる役者としても、小劇場クラスの演劇シーンでは評価が高まりつつあったらしい。そんな彼のトレードマークというのが、陶製のサイケデリックな仮面なのだった。めったやたらに絵の具を塗りたくったような極彩色の仮面で、それを装着したときの沼田は、狂気の別人格「影百合」と化した。公演のたび、作中のどこかで必ず「影百合」が登場するのが黒耀座の売りでもあったという。
 この沼田欣児と最初に接点を持った能登家の人間が、ほかでもない姉の七海であった。
 平成九年春、七海が高校に入学してまもなくのことだ。夕刻、学校帰りの彼女の前に、ふらりと長身痩躯の男が現れた。彼は七海が能登外科医院の娘であることを確かめた上で、木暮由香利という女が通院していないかと訊いた。七海は勝気で物怖じしない性格であった。ただし、いくら院長の娘といっても患者のことまで把握しているはずはなく、素直にそう答えると、相手もさして期待していなかったのだろう、丁寧に礼をいって立ち去った。後日、沼田欣児と判明するこのときの男は、不精ひげを生やし、顔色も悪かったが、物腰の柔らかい、穏やかな人となりをしていたという。
 夜の食卓で、七海はその小さな出来事を皆に話して聞かせた。木暮由香利の負傷の原因を知っていた父は、おそらく不穏なものを感じたに違いないが、その場では特に何もいわなかったと新月は記憶している。
 それから初夏にかけて、沼田欣児はたびたび病院周辺に姿を見せるようになった。偶然か、あるいは意図的だったのか、彼と会話を交わしたのはいずれのときも七海であった。
 二度目に会ったとき、沼田欣児は、木暮由香利の居所をお父さんから訊きだしてほしいといった。じつは、七海と沼田が最初に会った日の一週間前、木暮由香利は最後の治療に訪れていたのだ。最後の、というのは、以来彼女の来院がふっつり途絶えたからだ。むろん病院なのだから、通わずに済むなら越したことはなかったが。
 三度目、沼田欣児は初めて二人連れで七海の前に立った。一緒にいたのは、七海よりやや年上とおぼしき長髪の少年であった。沼田も背が高かったが、その少年も負けず劣らずの背丈で、二人並んださまは二本の電柱のようだったと七海は家族に語った。この日、七海は父から聞いていたとおり、木暮由香利がしばらく顔を見せていないことを伝えた。沼田欣児はやんわりそうですかといい、去りぎわ、自分が劇団で芝居をやっていることを告げると、ポケットからチラシとチケットを取りだし、七海に手渡した。
 ――こいつも出ますから、観にきてください。
 一緒にいた少年を示して沼田欣児はいった。目鼻立ちのはっきりした少年は、はにかみながら無言で会釈したらしい。それが十七歳の藤江恭一郎であった。
 新月の知るかぎり、それまでの姉は芝居などには縁遠かった。ところがその夏、彼女は誘われるままに沼田欣児の劇団、黒耀座の舞台を観に出かけたのだ。どういう風の吹きまわしか知らないが、少なくともこの時点では、姉は沼田欣児にさほど不快な印象を抱いていなかったのだろう。
 以降、新月は、姉の口から「藤江くん」という名前が出るのをたびたび耳にするようになった。七海は新月と逆だったらと思うほどすらりと背が高く、また、きりりとした涼やかな顔立ちが、弟の目から見ても美しい少女だったが、彼女の美貌はこのころからますます際立ち、大人びていった。
 さて、これで話が済んでいれば良かったが、黒耀座の公演が終わったあたりから、沼田欣児がおかしな挙動を見せはじめた。木暮由香利を出してくれと頻繁に病院に電話がかかってくる。能登外科医院には入院設備もあったが、当然ながら木暮由香利の姿はない。幾度否定しても「隠すな!」と声を荒らげる沼田欣児の態度は、七海が語っていた印象とはかけ離れたものだった。
 それからほどなく、沼田による異常な嫌がらせが始まった。彼は手当たり次第、近隣に告発のビラを撒きはじめた。新月はその現場を一度だけ目撃した。いわく、内縁の妻が治療に訪れた先の病院で姿を消した……それだけではない、麻酔で眠らされて院長から暴行を受けたあげく、能登家の一室に監禁されているうち、とうとう暗々裡に殺されてしまったというのだった。
 あとあとになってわかってみれば、木暮由香利は、最後に能登外科医院を訪ねた日、同居していた沼田欣児のアパートには帰らず、そのまま雲隠れしてしまったものらしい。要は男に愛想を尽かして逃げだしたわけだ。結果、方々捜しまわっても女を見つけだせなかった沼田欣児が、日を経るにつれてとんでもない妄想を膨らませるようになり、でたらめを吹聴しはじめたというところだが、その妄想が病的なまでに歪んでいたのには、沼田という男が重度の薬物中毒者だったことに原因があった。もともと破滅型の性格で、過去にも薬で喰らいこんでいた時期があったことを、一家は警察から聞かされた。かねてそうした悪癖を抱えていたところへ、内縁の妻に逃げられたことで、沼田欣児の妄想は加速度的にエスカレートしていったと思われる。
 沼田の暴走はそれだけに止まらなかった。能登外科医院についてあらぬ噂を触れまわったあと、彼はさらに大変なことをしでかしたのだ。どこで調べたものか、新月の両親数馬と玲子、兄大地、姉の七海、そして新月、各々の名前を墨痕黒々としたためた卒塔婆五本を病院宛に送りつけ、一家鏖殺を予告したのである。
 表面上、冷静な態度で嵐の過ぎ去るのを待っているふうだった父も、家族の身に危険が迫ったここに至ってようやく警察に通報し、後ればせながら沼田欣児の薬物使用の過去が明らかになった。殺人予告に関し、沼田にどこまで実行の意志があったのかは定かでないが、警察沙汰にしたことが奏功し、兇行は未然に防ぐことができた。ただし、待ち受けていた結末は、何ともいえず後味の悪いものであった。
 警察は迅速に行動し、逮捕状を取って沼田欣児のアパートに向かったという。白昼であった。しかし、いざ踏みこもうとしたその矢先、突如、頭から灯油をかぶり、火だるまになった男が、絶叫しながら窓を蹴破って路上へ飛びだしてきたのだ。
 身柄確保の際に被疑者が暴れだす危険性は警察も想定していた。現場には多数の人員が配備されていたため、火が放たれたときも適切な措置が取られた。おかげでアパートも燃えずに済んだが、命こそ助かったものの、沼田は重い火傷を負って人事不省となり、病院に担ぎこまれた。この凄絶きわまりない惨事の勃発が、年末の出来事であった。
 幸か不幸か、沼田欣児は一命を取り留めた。彼は退院を待って逮捕されるはずだったが、翌年の二月、無残な火傷痕に引き攣れた顔を包帯にくるんだまま病院から脱走し、行方をくらましたのだった。
 平成十年、沼田欣児三十三歳、藤江恭一郎十八歳、能登七海十六歳、新月が十三歳を迎える年のことである。


    5

 短期間ながら探偵社で学んだノウハウを、いまや能登新月はフル活用に及んでいる。
 白石光の働く玄兎書房は日本橋にあった。是璃寓までは歩いて行ける距離、これなら足繁く通うのもうなずけた。スーツの後ろ姿に背後からぶらぶらと付き随い、うらぶれた背中が地下へ消えた五分後、新月はみずからも是璃寓の扉を開けた。マスターに会釈しつつ、彼はしれっとした顔で白石光の隣に腰かけた。
 ――やあ、こんばんは。先日は失礼しました。
 ――……待ち伏せしていたな。
 咎め声で白石光は睨んだ。が、会社から跟【つ】けてきたとまではさすがに思っていないようだ。
 ――たまたまですよ。ぼくだってここの常連なんですからね。
 ――俺は一人になりたくてこの店に来るんだ。邪魔しないでくれ。
 ――ご迷惑ですか。
 ――ああ。
 むっつりとした生返事は、しらけた沈黙を連れてきた。それでも新月は怯むことなく、
 ――白石さんはバーボン党なんですね。じゃ、今夜はぼくもお付き合いしよう。
 そういって、ニコニコしながらオールドフィッツジェラルドと鎌倉ハムのサラミを頼んだ。
 ――まったく君は変わった男だよ。
 聞こえよがしの嘆息のあと、白石光は独り言めかしてぼそりといった。
 ――無遠慮で自分の都合にばかり忠実で……だが、おそらくそれで嫌われることは少ないんだろう。いわゆる人好きがするという奴だ。嫌味がないからか、それとも可愛らしいお坊ちゃんフェイスのおかげなのか。
 ――好意的な分析、痛みいります。
 カウンターに両手を置き、新月は平べったくなってお辞儀をした。
 ――君は、最初から俺の素性を知っていて接触してきたのか? 俺が藤江恭一郎の友人であり、君の姉さんの事件についても認識があるってことを。
 ――いいえ。そう思われるのも無理はありませんが、違うんです。あの日、あなたから藤江さんの名前を聞くことになろうとは予想もしていませんでした。
 ――たしかに先日の君の驚き方は芝居とは思えなかったな。つまり、瓢箪から駒が出たというわけか。
 ――そのとおり、まったくとんだ偶然です。いえ、何なら運命と呼んでもいい。見えざる何ものかが、ぼくをあなたのもとへ連れてきたのですよ。
 と、そこで新月はにわかに表情を引き緊めると、声こそ低かったが訴えかけるようにこういった。
 ――いまとなっては、ぼく、姉の死のことを第一に知りたいのです。そうして、あくまでその観点から、藤江恭一郎さんのことを知りたいのです。先日、あなたはぼくのことをゴシップ記者か警察関係者かと疑っていらした。そんなふうに思われたのも、十年前の未解決事件が脳裏にあったからではないですか。
 白石光はしばし黙したのち、ぽつりと答えた。
 ――そうかもしれないな。
 ――もうすこしぼくに家族の情があったら、鉄仮面の男の噂を耳にした時点で或る程度の想像が働いてもおかしくなかった。ところが困ったもので、今日までぼくは、姉の事件から変に目を背けつづけてきたところがあるんです。白石さん、改めてあのころのことを教えていただけませんか。できることならこの機会にすべてを清算してしまいたいのです。
 それは本心だった。猟奇の徒を標榜して憚らない自分が、最も身近で最も追及すべき一件に関して長年距離を置いてきたのが、われながら新月は不思議であった。ましてやその事件の様相たるや、彼の猟奇心を刺激する異様な色彩を帯びていたというのに。彼にとって、過去の事件の真相を暴くという行為はたしかに魅惑的であった。だが一方で、死んだ人間はどう足掻いても帰ってこない、姉は不幸な死に方をしたが、いかに理不尽であろうと、それがその人間の寿命であり運なのだという冷めた諦観が、新月の頭には常に根ざしていた。
 今回にしても、そもそもの始まり、新月の猟奇の対象は、鉄仮面の男そのものであった。そうしてそれはいまでも変わっていなかった。行きがかり上、過去の事件に焦点が絞られつつあるが、新月の興味は、あくまで鉄仮面の男に惹きつけられていた。好んでそんな仮面をかぶっている男の歪んだ心理とはいかなるものか、その真実に舌をつけ、思う存分味わってみたい。嫌悪を抱くか、同情が芽生えるか、はたまた共感を覚えるか。傷痕を隠すための仮面というが、それが本当なら、仮面の下にはいったいどんな素顔が秘められているのか。悪魔じみた黒衣は何を意味しているのだろう。
 自分は姉の死を恰好の口実に利用しようとしているのかもしれない。そう思うと、さすがの新月もいくぶんかの良心の咎めを感じざるをえないのだった。
 ――七海ちゃんに弟がいたとは知らなかったな。当時、君はいくつだった。
 ――十四です。中学生でした。
 ――十年ひと昔というが、時の経つのは早いものだな。
 白石光はしみじみといった風情でこちらを見つめた。
 ――それで君は事件のことを俺に話せというんだな。知ってのとおり、あの不幸な出来事は夏の鎌倉で起きた。そうしてその現場に、たしかに藤江も俺も立ち会っていた……。
 新月はハッとして思わず声を高めた。
 ――あなたもいらっしゃったのですか?
 ――なんだ、君は本当に無関心だったんだな。そう、隠してもしょうがない、俺もあの小旅行の一員だったんだ。七海ちゃんの葬儀にも参列させてもらったから、そこで君とも顔を合わせていたかもしれない。
 ――ぼくは葬儀には出なかったのです。間の悪いことに風疹で。
 ――そうだったのか。いや、しかし、君がどこまで知っているかはさておいて、いまさら俺の口から被害者の身内に提供できる情報があるとは思えない。そもそもあの事件には、もっと前からの複雑な事情も絡んでいたはずだ。そこらへんは君のほうが詳しいだろう。
 ――そのとおりです。
 新月は素直に肯んじた。
 ――藤江さんより先に、もう一人、忘れがたい登場人物がいましたからね。
 ――黒耀座という劇団の男だね。
 ――そうです。白石さんは黒耀座の舞台をご覧になったことはありますか。そもそも藤江恭一郎さんはどういう経緯で劇団に加わったのでしょうか。
 問われた白石光は、眼前に過去を描出するように答えた。
 ――高校時代の話……同じクラスに大の演劇好きがいてね、或るときそいつが藤江を観劇に誘ったんだな。たまたまそれが黒耀座の舞台だった。結果、ありがちな話だが、付き合いでくっついていった藤江のほうが虜になってしまったのさ。例の役者……。
 ――沼田欣児ですね。
 ――あの男の憑かれたような演技に藤江はすっかり心酔して、ほどなく個人的に交流を持つようになった。沼田って男も藤江のことがお気に召したんだろう、で、次の公演に出てみないかと誘われたわけだ。藤江に「黒百合番太郎」なる珍妙な芸名を授けたのも沼田だったようだ。もっとも、藤江はまだ高校生だし、演技のエの字も知らないズブの素人だ。そこで苦肉の策なのか必然性があったのか知らないが、鉄仮面をかぶせ、僧衣めいた黒衣を着せて、舞台を歩かせた。台詞はほとんどなかったな。金土日の全五回、藤江が役者をやったのはその一公演こっきりだ。俺はもちろん、クラスの連中数人が冷やかし半分で見物に行ったよ。藤江と沼田欣児はよく似た体格だった。ガリでノッポの二人がともに仮面姿で登場する場面はなかなかの見ものだった。
 仮面と黒衣……新月は、吉祥寺の工房で見つけた集合写真のことを密かに思った。ぞろりと長い黒衣をまとい、小脇に仮面を抱えた藤江恭一郎の立ち姿。たった一公演だけの彼の舞台を、姉もまた目撃したのだ。
 ――藤江さんは演劇の道に進みたかったのでしょうか。
 ――そうなっていても不思議じゃなかったな。ところが初舞台を踏んだ矢先に、私淑する沼田欣児がとんでもない騒動を起こしてしまう。黒耀座は活動休止を余儀なくされ、藤江はそこで芝居と縁を切って、工芸を学ぶために美大へ進んだんだ。そうそう、藤江が舞台で着けた鉄仮面はあいつ自身が作ったものなんだ。出来映えはともかく、たぶんあれがあいつの最初の作品だろう。その意味では、黒耀座こそが藤江の進むべき道を決定づけたといえるかもしれないな。
 ――白石さんも同じ大学へ進学されたのですね。
 ――ああ。俺と、それから早見……最初に藤江を観劇に誘った男も一緒だった。藤江は彫刻、俺はデザイン、早見は映像と、それぞれ学科は違ったがね。三人とも、表現形態にこだわらずもの作りが好きだったし、わりあい趣味も似ていたからね。
 ――藤江さんと姉は、黒耀座……沼田欣児を介して出会っています。白石さんは藤江さんを通じて姉のことを知ったのですか。
 ――そうだ。
 ――藤江さんと姉は恋愛関係にあったと見て良いのですね?
 亡き姉のプライバシーに踏みこむことにいくぶん抵抗を覚えながら、新月は訊いた。対する白石光は、こともなげにうなずいていった。
 ――つまり、それはこういうことだ。俺とは日にちが違ったようだが、七海ちゃんも藤江の舞台を観にいき、それをきっかけに二人は友達になったんだ。ところがそこへ沼田欣児の不祥事が勃発する。藤江は沼田の芸術家気質に惹かれていたが、沼田が薬をやっていたことは知らなかったし、まさかそこまで箍【たが】が外れるとは思いもしなかった。君の家が被った迷惑について、藤江は沼田に代わって七海ちゃんに謝ったらしい。むろんあいつに罪はなかったが、そうして交流を持つうちに二人の仲は急速に深まっていったのさ。俺が七海ちゃんを紹介されたのはそのころだ。平成九年……美大に入る前の年だ。受験勉強のさなかだったが、息抜きによくみんなで遊んだよ。藤江は必ず七海ちゃんを連れてきていた。彼女も女性としては長身だったろう。藤江とはお似合いだったね。
 ――それなのに、翌年、あんなことが起きてしまったんですね。
 自然と冷やかな調子になるのを自覚しながら新月はいった。それを敏感に感じとったふうに、白石光は探るようにこちらを見た。そうして短い沈黙を挟んでふっと視線をそらすと、
 ――藤江がやったんじゃないぜ。
 といった。
 ――それならそれでけっこうな話じゃありませんか。事件のこと、聞かせていただけますか。
 再度願いでたところへ、白石光が頼んでいたらしい自家製ピッツァが焼き上がってきた。おそらくそれが夕飯になるのだろう、前かがみになって齧りつきながら、口調だけは鬱々として、彼はぽつりぽつりと語りはじめた。


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第3回(2/4)[2010年5月]




    2

 煉瓦色のタイルに密やかな靴音をたてて入ってきたその客は、前もって決められていたふうにまっすぐカウンターの奥に向かった。暗い灯影のせいで、男の風体は判然としなかった。彼に供するため、老マスターは求められるより先に棚からボトルを取りだした。能登新月はいつものようにカウンターの中央に陣取っていたが、そのとき、寡黙なマスターの視線が、さりげなく、だが、明らかに目配せめいてこちらを捉えるのに気づいた。新月はみずからの煙草の煙に顔をしかめながら、マスターの手に抱えられたボトルのネームプレートをそっと偸み見た……。
 是璃寓はこの夜も空いていた。
 もったいぶって煙草をくゆらせながら、頃合いを見計らって新月はグラス片手にスツールを下りると、猫のように忍びやかにカウンターの奥まで移動して、新たな客の右隣に音もなく着席した。
 ――こんばんは。
 突然声をかけられた男は、怪訝な面持ちで間近からこちらを見据えた。スーツのシルエットやビジネスバッグの趣味から推して、歳のころは三十前後といったところ、だが、垂れ落ちた上瞼や、艶のない不健康そうな肌、何より全身から滲み出る倦怠感が老けた印象を生みだしていた。
 ――どちらさん……。
 戸惑った様子でぼそりとつぶやいたところへ、新月は持ち前の人懐っこさで微笑みかけると、小さく頭を下げていった。
 ――白石さんですね。以前上司がここで懇意にさせていただいたそうです。
 ――上司? 誰のことだろう。
 その男、白石光は、ますます訝しげな顔になって、記憶を辿るようにしばし視線を虚空に泳がせた。
 ――飲みながらほかの客と話すなんて、めったに俺はしないんだがね。その人、なんていう人……。
 ――川上といいます。白石さんから名刺をいただいたそうですよ。たしか出版社にお勤めとか。
 ――ああそう……でも、悪いけど憶えてないな。それに、仕事の話なら遠慮させてくれ。
 早くも興味を失った様子で、それがいつもの流儀なのか、手酌でグラスにバーボンを注ぐとストレートで飲みだした。
 ――わかります。酒の席まで仕事を持ちこみたくはないですよね。
 ――いや、そういうわけじゃないが、ここに来るのは一人静かに飲みたいときだから。
 馴れ馴れしい若者を暗に窘めるように男はいったが、すぐに、
 ――どっちにしろ、近々退職するのでね。
 自発的にそう補足したところを見ると、意地でも会話を拒むつもりはないらしい。
 ――退職というと、別のお仕事を?
 ――いや、しばらくは休養……気の向くままに海外を回ってくるつもりだ。もう日本には戻ってこないかもしれない。
 相手が思いきったことを口にしたので、新月もやや面喰らってポカンとした。
 ――冗談だと思ってるな。本当だぜ。ところで君、何の用……。
 ええ、と新月は軽くいずまいを正すと、それでも朗らかな調子は崩さず本題に入った。
 ――白石さん、じつはぜひとも伺いたいことがありまして、ここんところずっと、今夜こそは今夜こそはとお待ち申し上げていたんですよ。
 ――待っていた? 俺を?
 いくぶん警戒するような目色になって、白石光はチラリとカウンター内のマスターを窺った。
 ――で、いったい何の話だい?
 ――それが、妙なことをいう奴だと思われるでしょうが、鉄仮面の男についてなんです。
 ――鉄仮面?
 鸚鵡返しと同時に、見えないバリアを張ったように相手の態度が硬化するのを、新月は肌で感じとった。
 ――場所は定かでないのですが、この東京のどこかに、鉄仮面を着けたまま暮らしている不思議な男がいると。どうやらその人物は芸術家らしいのですがね。
 ――それも川上さんとやらから聞いたのかい? 俺が話したって? じゃあ、そうとう前の話だな。憶えてないのも無理はない。
 ――そういう人物がいることはたしかなんですね?
 たわいない世間話といった調子を出して訊ねると、白石光はためらいつつも首肯した。
 ――それは本当だ。奴とは高校大学と同級だったんだから。
 ――ああ、白石さんのお友達のことだったんですね。
 ――そう、しかし、あいつのことならなおさらしゃべりたくないな。
 ぶっきらぼうに白石光はいった。
 ――しゃべりたくないというのは?
 ――奴は事故で顔に大怪我を負ったのさ。つまり、仮面は傷痕を隠すため……そういう不幸な境遇なんだ。
 新月はラム酒のロックを注文したあと、さりげなく持ちかけてみた。
 ――その方とお会いすることはできませんかね。
 ――会う? 君が?
 心外なことを聞いたというふうに、白石光の声は棘を含んだ。影を宿した顔つきが見る間に険しくなった。
 ――何が目的でそんなことをいうんだ? 君にその話をした上司は、いまでもここに来るのかい?
 ――ああ、上司といっても先に勤めていた職場の先輩なんです。そういえば見かけませんね。おおかた引っ越しでもして河岸を変えたんでしょう。
 ――なあ、君。
 と、諭すような口調で白石光はいった。
 ――もしも君がゴシップ記者か何かなら、頼むからそっとしておいてやってくれないか。奴は物笑いの種にするような存在じゃない。
 ――記者なんて、そんな気の利いたもんじゃありませんよ。
 ――ゴシップ記者が気の利いた存在かね。まさか警察関係者というわけでもなかろう?
 ――警察ですって? どこからそんな発想が出てくるんです。じつはぼく、目下無職なんです。
 ――ほう、そりゃ大変だ。生計はどうしてるんだい?
 ――幸い、亡くなった両親が財産を遺してくれましてね。
 ――なんだい、遊民か。いい身分だな。ご両親が亡くなったって、君、兄弟は?
 ――七つ上の兄がいます。彼はぼくと違って真面目一本の実際家でしてね、いまは大学病院で外科医をしています。腕前のほどは定かじゃありませんが、万が一、白石さんに何かあった際はご紹介しますよ。いっさい面白味のない堅物ですが。
 ――兄貴は医者、一方、弟は道楽でゴシップ収集か。呑気なものだな。
 ――まあ、性格ですね。しかし白石さん、ぼくはその仮面の人物のことをおおっぴらに喧伝する気はないんです。おおっぴらどころか、こっそり誰かに話すつもりもない。それは信じてもらいたい。
 どうやら探偵社勤めの経歴は伏せておいたほうがよさそうだと新月は考えた。おそらく先輩社員の川上も職業は明かさなかったに違いない。
 ――で、その人物が芸術家というのも本当なんですね?
 ――そう。鉄を素材に独創的な作品を生みだしていた。前途有望な男だったが、工房で作業している最中に爆発事故を起こしてね。
 ――現在はどちらに?
 ――さあね。
 白石光はうるさそうに眉をひそめた。
 ――昔馴染みとはいえ、ここ一、二年の消息は知らないんだよ。あいつは岩手の生まれなんだ。中学のときに東京に越してきたそうだが、察するに郷里にでも帰ったんじゃないだろうか。向こうには親類縁者もいるだろうし。
 ――では、いまは活動していらっしゃらないということでしょうか。
 ――ああ。残念ながら事故を機に芸術への情熱を失ってしまったらしい。一念発起して作品づくりを再開してくれたらいいんだがね。一部では評価が高まりつつあったんだから、きっと歓迎されるだろう。君は知らないだろうが、藤江恭一郎という男だ。
 ――えっ。
 その名を聞いた瞬間、思わず新月は一声発したまま絶句した。
 ――知ってるのかい?
 明らかに様子の急変した隣客に、今度は白石光のほうが興味を惹かれたふうに身を乗りだした。
 事実、新月は衝撃を受けていた。怪しく波立つ胸を鎮めるため、彼は煙草に火をつけ、それから取ってつけたように相手のグラスに酒を注いだが、その手はわずかながら震えていた。
 ――白石さん、その方とは高校大学と一緒だったとおっしゃいましたね。大学というのは砧美大のことでしょう。
 白石光のくすんだ顔に驚きが広がった。
 ――そのとおりだ。
 ――お二人の在学中、藤江恭一郎さんの身近に、或る厄介な事件が発生しましたね。
 ――君は……。
 唖然としていいかけるのを遮って、もはや相手には目もやらず新月は重ねた。
 ――黒百合番太郎。
 その奇妙な名前が出た途端、白石光は大きく眉を吊り上げて、招かれざる客の横顔を睨み据えた。
 ――いったい、君は何者なんだ?
 ゆっくりと紫煙を吐いたのち、新月はふたたび白石光を見やり、すこし照れたように微笑んで、ぎこちなく答えた。
 ――申し遅れました。ぼく、能登新月といいます。十年前に死んだ能登七海の弟です。仮面……藤江恭一郎さんが着用していたという鉄仮面……もしやそれは、かつての事件と関わりのあるものではないですか?
 この晩、二人は店の階段を地上へ上がったところで別れた。白石光は新月と同じぐらい小柄で、ひどく窶【やつ】れていた。あの藤江恭一郎と同学年なら、姉の七海とは二つ違いで現在二十八、九のはずだが、くたびれた後ろ姿はどうしても中年のようにしか見えなかった。
 饐【す】え臭い路地裏の闇に佇立して、新月は一人つぶやいてみる。
 ――運命に導かれるままに……。
 人並みはずれた好奇心に衝き動かされた傍迷惑な素人探偵、だが、初っ端から事情は変わってしまった。


  3

 十一月十九日、気持ちのいい秋晴れの午後だった。
 能登新月は、渋谷から京王井の頭線に乗って吉祥寺まで出かけた。
 それは、是璃寓で白石光と最初の接触を持った三日後のことであった。
 あの晩、新月が己の素性を明かして以降、白石光の口はすっかり重くなった。新月自身もまた、それ以上話を掘り下げる気にはならなかった。互いの出方を窺うような気まずい空気が、二人の距離を遠ざけてしまった。
 吉祥寺駅を出た新月は、手描きの地図を頼りに五日市街道に向かった。ジーンズにTシャツ、その上にブルゾンを羽織ってきたが、歩くほどに背中が汗ばんできた。
 鉄の芸術家藤江恭一郎がまったくの無名氏でなかったのは幸いだったといえる。インターネットで彼の情報を探ったところ、美術関係のデータベースに簡単なプロフィールが載っていた。昭和五十五年四月十五日、岩手生まれ。砧美術大学で工芸を学び、武蔵野市吉祥寺南町に工房を構える……。
 ただし、藤江恭一郎が奇禍に遭って以降のことは不明だった。現在の工房の様子も前もって把握することはできなかった。
 道すがら、新月は地元の人々に行き当たりばったりに声をかけてみた。すると驚いたことには、そのうちの二人が藤江恭一郎の存在を知っていた。
 非常な長身に薄気味の悪い黒衣をまとった鉄仮面の芸術家。
 たしかにそんな特異な姿では印象に残って当然だ。しかし、仮面はともかくとして、黒衣というのはどういうわけだろう。藤江恭一郎は事故のショックで気が狂れてしまったのか。それとも……と新月は、十年前の夏に起きた事件についてうっそりと思いを巡らす。
 藤江恭一郎がみずから仮面を着けだしたのは、爆発事故による負傷が原因とのことだから、彼は事故を起こしたのち、傷痕【しょうこん】を覆う仮面姿でこのあたりを往き来していたのだろう。だが、藤江(というより、鉄仮面の男)のことを憶えていた付近の住民も、白石光同様、ここ一、二年はその姿を見かけていないらしかった。工房を知っているという一人が、とっくに閉鎖されているはずと前置きしつつ、場所を教えてくれた。かつて板金工場だった建物を借り受けて作業場にしていたという。やや手間取ったものの、首尾よくたどり着くことができた。
 そこはみすぼらしい廃工場だった。藤江恭一郎の工房であったことを示す目印はどこにもなく、かろうじて名称が読みとれる板金工場の古びた看板が、いまなお侘しげに掲げられていた。二階建てで、階下の前面を塗装の剥げ落ちたシャッターが塞ぎ、鍵が掛かっていた。だが、新月にとってそんなものは鍵とも呼べない代物だった。しゃがみこみ、落ちていた針金の切れ端でたやすく開錠すると、彼は短く口笛を吹いた。
 耳障りな音をたてて新月はシャッターを押し上げた。暗い土間に日射しが入りこんだが、それでも視界は悪かった。奥のほうに一箇所、窓があり、そこだけ白い光が射していた。その手前に、階上へ続く小さな階段のシルエットが見える。壁ぎわの柱に照明のスイッチらしきものを見つけ、期待せずに押してみたところ、高い天井の真ん中で水銀燈が一つ、時間をかけてゆっくりと陰気な明るさを帯びていった。いまも誰かが電気代を払っているのだ。
 迷った末、新月はいったん内側からシャッターを閉じた。怖いぐらい密やかな密室に、一人きり彼は取りこまれた。外はいい陽気だが、汗ばんだ体に工場内は寒かった。新月は背中を丸めて身震いしながら、人けのない博物館でも見学するような足取りで探索を始めた。
 看板はなくとも、ここが鍛鉄工房であった名残はちゃんと残されていた。片隅にお手製らしい四角い炉があって、かつては赤く燃え盛っていたであろうコークスの残りかすが散らばっていた。疵だらけの木製テーブルには万力【バイス】が固定されており、金床【アンビル】とワイヤーブラシ、研削砥石のディスクが二、三枚、それから円椅子が一脚、裏返しに載っている。金物はどれもこれも錆びついていた。テーブルの足もとには、灰皿代わりのペール缶が置いてあり、大量の吸殻が溜めこまれたままになっていた。壁の一隅にフックが取りつけられ、テープで継ぎ接ぎしたコード類と、溶接面が掛けてある。また別の一隅には、鋼材の束のほか、塗料の缶と刷毛、ノズル付きのボトル、バケツ、それから汚れきった革手袋とエプロンが投げつけたように地べたに落ちていた。
 みずからの素顔を隠すための鉄仮面も、間違いなくここで作られたのだろう。
 新月は手摺のついた鉄の階段をのぼってみた。二階は和室二間にキッチンという居住空間で、いまは荷物ひとつなくがらんとしていた。ふたたび階下へ引き返し、テーブルの円椅子を下ろして腰かけると、煙草を一本、かつてないほどたっぷり時間をかけて味わった。水銀燈の霞がかった明かりに煙が溶けていく。椅子の冷たさも手伝って、ますます体が冷えてきた。足もとで煙草の火をもみ消したとき、屈んだ拍子に、テーブル下の棚板に文庫本のようなものが置いてあるのに気がついた。取りだしてみると、それは本ではなく、伏せた鉄製の写真立てであった。持ち上げた途端、砕けたガラス片が散らばった。まるで金槌か何かで故意に叩き割ったかのようだ。幸い、なかの写真は無事であった。
 新月はテーブルの上で写真を見つめた。
 おそらく劇場の入口であろう、開放されたガラス戸を背に、夜の路上に集った十数名の若者。彼らの脇には立看板があり、ポスターが貼ってある。大書された劇団名と公演タイトルだけ、かろうじて判読できた。
 黒耀座第九回公演「孤独」。
 写真は客出しあとの記念撮影と思われた。
 観察の末、新月は、前後三列に並んだ顔ぶれのなかから二名の人物を特定するに至った。
 二列目の右端、中腰で写っているのは、見紛うはずもない、新月の姉七海であった。何となく服装にも憶えがある。しかし、彼女が舞台に出演したり公演を手伝ったりという話は聞いたことがないから、これは観劇に行った際、劇団員の知人として集合写真に加わったものだろう。いまや年下になった姉の姿を、こんなところで目にするとは思いもしなかった。
 さらに、前列のほぼ中央に陣取った、頬のこけた髭面の男のことも、新月は記憶のうちに留めていた。しゃがんでいても、図抜けた背の高さがよくわかる。黒耀座の看板役者、沼田欣児……のちに能登家と浅からぬ因縁を持つことになるこの男は、しかし写真のなかでは、花束を胸に満足げに破顔していた。
 新月が見知っている顔はこの二名だけだったが、いま一人、彼の視線を釘づけにした人物があった。
 それは姉の七海とは反対側、向かって左端の後列に控えた少年であった。長身痩躯、沼田欣児と違ってこちらは直立しているだけに、いっそう背の高さが際立っていた。彫りの深い男らしい容貌を、肩まで伸びた長髪が和らげている。もの静かな眸だ。穏やかな表情をしているが、シャッターを切るタイミングがそうさせたのか、笑ってはいない。だが、何より注目すべきはその服装であった。むろん舞台衣裳であろう、彼は丈の長い真っ黒な着衣に身を包み、オートバイのヘルメットでも抱えるように、右手に不気味な鈍色の仮面を携えていた。いくぶん列からはみだしているため、黒衣が足もとまですっかり覆っていることも確認できた。
 姿恰好、身長から推しても、その少年が藤江恭一郎であると、新月には迷いなく信じられた。


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【特別掲載】佐々木俊介『仮面幻戯』第3回(1/4)[2010年5月]


蜃気楼のごとく消えた謎の芸術家、藤江恭一郎。
彼の手になる仮面をめぐり各地で事件が頻発する。
仮面づくしの連作短編ミステリ。
仮面幻戯






   前口上


 吉祥寺駅の南口から井の頭公園を通り抜けて低い土手を上ると、碁盤の目に路地の入り組んだ品のよい住宅街が広がっている。住所でいうと、このあたりは三鷹市井の頭である。これを西へ向かえば、知らず識らずにまた広大な井の頭公園に呑みこまれることになり、所は武蔵野市御殿山と変ずる。一般に「武蔵野」の響きからイメージされる雑木林は、吉祥寺周辺ではこの御殿山の公園敷地内に美しい姿の大半を留めるのみだが、じつは吉祥寺通りをくだって自然文化園を過ぎた先の目立たぬ一角にも、丈高な雑木林の残る秘密めいた土地がある。
 その小暗い木立のなか、いかにも人目を避けるような風情で、ささやかな洋館が潜んでいるのだった。白壁にフランス瓦の赤い三角屋根をいただき、周囲の環境も相まって、どことなく別荘然、四阿【あずまや】然として見える一軒家である。この淋しい家の存在を知る者は少ないが、さらにそこの住人、全身を黒衣に包み、鉄の仮面をかぶった異様な人物については、近隣の住民ですら見かけた者は稀であろう。

 すこし前、藤江恭一郎という若き芸術家がいた。
 知名度は低く、発表作品も多くないが、独特の個性を持つ仮面作家として一部で評価の高まりつつあった青年だ。
 藤江が作品づくりに好んで用いた素材、それが鉄である。鍛鉄【ロートアイアン】。コークスを焚いて鉄を熱し、ハンマーで叩きのめし、火花を散らしてバーナーで焼き切る。やがて最後の工程において表面を埋め尽くす点描のごとき鎚目【つちめ】は、冷たく硬い鉄仮面に命を吹きこみ、あたかも人肌と見紛うほどの質感さえもたらすのだった。
 仮面作家としての藤江恭一郎の活動期間はごく短かった。工房における不幸な事故が、彼の芸術家生命を奪ったのだといわれている。
 ところで、蜃気楼のように姿を消したこの若き芸術家に関し、以前からまことしやかに囁かれている噂があった。
 いわく、藤江恭一郎の手になる作品には呪いが籠められているとの一種の怪談で、いかにも眉唾ものの話だが、事実、彼の生みだした仮面にまつわる奇怪な出来事が、さまざまな場所でたしかにいくつも起こっていた。


 第三話 黒百合(前篇)



    1

[稲村ガ崎に遺体、殺人か]
 十二日午前七時ごろ、鎌倉市稲村ガ崎の空き家で、私立白祥高校三年、能登七海さん(十七)が死亡しているのを友人らが発見し、一一〇番通報した。能登さんは頭から血を流して倒れており、状況に不審な点が見られることから、神奈川県警鎌倉署は殺人事件とみて捜査を開始した。現場は海岸ぞいの高台にあるサーフボードの元工房で、数年前から空き家だったという。能登さんらは十一日から泊まりがけで鎌倉へ遊びにきていた。(××新聞夕刊・平成十一年八月十二日付)

               *

 彼はあまりにも退屈屋で、かつ猟奇者でありすぎた。
 小柄な体格で、二十四になったいまもどこか子供子供して見えるこの可愛らしい青年は、いかにも育ちが良さそうで、事実、三代続いた富裕な医者の家庭に生まれ育っていたが、明朗爽やかな印象とは裏腹に、人並外れて猟奇を愛好する厄介な性質を持っていた。
 そうした嗜好の持ち主というのは、まるで猫のように薄暗い路地やらじめついた裏通りに入りこんでは、さもそこにみずからを待ち受ける怪異でもあるごとく、やたらといわくありげな顔つきで徘徊したがるものだが、この青年もまた例外ではなかった。
 大宇宙の神秘に対する彼の興味は稀薄であった。むしろ彼は、もっとささやかな、市井の神秘ともいうべき、町角の其処此処に宿る暗くいかがわしい秘密ばかりを欲していたのだ。
 青年の名は、能登新月という。
 一時期などは、谷崎潤一郎の主人公ばりに、馬鹿を承知で下着の一点一点から化粧や装飾品に至るまで念入りな女装を施し、不夜城の都内を当てもなくさまよったことさえあった。結果、彼はいくつかの出逢いと刺激を得ることとなったが、こうした遊戯は、元来その気【け】のない青年が、あえてぎりぎりのタイトロープを往きつ戻りつするところに面白さがあるので、そのうち、すさまじい執着心で彼を追いまわす純情な手合いが複数現れるに至って、何だか面倒になったのと飽きてきたのとで、或る日を境にそんなことはぱったり止してしまった。
 学業優秀であったにもかかわらず、高校卒業後の進路に進学を選ばなかった彼は、二つ三つアルバイトを経たのち、これはと見定めた探偵社に職を求めた。彼の両親は、六年前、平成十四年の四月、夫婦揃ってのゴルフ帰りに津久井湖近くの峠道で事故に遭い他界していた。二十歳の誕生日を待って新月は正式に財産を譲り受けていたから、仕事といっても明日の食い扶持のためではなく、あくまで目的は市井の神秘を覘き見ることにあった。
 だが、多少覚悟していたとはいえ、現実社会の探偵稼業は思いのほかに労多く、新米の下っ端仕事は致し方ないにしても、得られる刺激が辛気臭いものばかりなのにはほとほと幻滅した。忍耐のない彼はじきに嫌気が差して、あっさりと探偵業を止してしまった。特段引き留められることもなく、以来、彼は人も羨む自由気ままな暮らしのなかで、悶々と無聊を託っているのだった。
 ところで、あまりいい思い出のなかった探偵社勤めの間に、先輩社員から仕入れた奇妙な噂があった。
 都内某所に不気味な鉄仮面を着けて暮らしている男がいる!
 不慮の事故で顔を喪った芸術家……。
 それが事実なら何と興味深い話だろうと、ゾクリと好奇心が疼いた新月は、そのとき先輩社員とこんな会話を交わしたのを憶えている。
 ――その男に会ってみたいものですね。詳しい情報はあるんですか。
 ――やめとけ、相手はもはや正気じゃないらしい。下手にちょっかいを出して何をされるか知らんぜ。
 ――先輩はどこでその話を知ったんです。
 ――とあるバーで馴染みになった男から聞いたのさ。出版社の編集員とかで、カウンターで何度か世間話をした。しかし、ずいぶん前の話だ。
 ――それは、どこの店です?
 自称猟奇の徒たる新月は、まだ見ぬ謎めいた男に、常々渇望してやまない夢幻【ゆめまぼろし】のような怪奇と浪漫の匂いを嗅ぎとっていた。
 探偵社の先輩はもの憶えのいい男で、噂の出所である客の名刺は紛失していたものの、氏名は記憶していた。彼はバーのショップカードにその名を書いてくれた。が、それからすぐに新月は退職し、いつしか鉄仮面の男のことも忘却してしまった……。
 ところが、たったいま財布の内ポケットから、一枚の縒【よ】れたカードが出てきたのである。
 数秒間、新月は狐につままれたような面持ちで、その藍鼠に白抜き文字の紙片を見つめていたが、わが身に降りかかった素晴らしい偶然の一致について理解するや、思わず口もとがほころんだ。それもそのはず、なにしろ彼がいま止まり木に腰かけてホワイトラムを舐めている、このカウンター、この店こそが、くだんの会話に出てきたバー、是璃寓【ゼリグ】だったのだから。
 是璃寓は八重洲の裏通り、古びた雑居ビルの地下にあった。もとは年嵩の知人に連れられてきた店で、最初のうちは酒の種類もわからず借りものの猫みたいにしていたが、雰囲気が気に入って、じきに一人でもいそいそと足を運ぶようになった。
 長らく財布の奥に眠っていたショップカードが、よもやこの店のものであったとは、迂闊にもいまのいままで気づきもしなかった。
 平日の午後七時、カウンターにはまだ新月の姿しかなかった。テーブル席にも年配のサラリーマンが一組だけ。地下室の澱んだ空気を撫でるように古いシャンソンがたゆたい、年老いたマスターは目の前で黙々とロックアイスを削っている。
 新月は藍鼠のショップカードにボールペンで記された、乱暴な拙【まず】い文字を判読し、マスターに訊ねた。
 ――白石……白石光というお客は、最近もここへ来ていますか。
 唐突な問いかけに、マスターは眼鏡越しの眸を微笑の形に細めて答えた。
 ――ええ、白石様でしたら、ちょくちょくお見えになりますよ。
 人生には、偶然が連れてくるこの手の出逢いが時折あるものだと、若い新月も最近になって気づきはじめている。
 ――運命に導かれるままに……。
 密かに口のなかでそうつぶやくと、彼はにっこり笑ってグラスの中身を飲み乾した。


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