Web東京創元社マガジン

〈Web東京創元社マガジン〉は、ミステリ、SF、ファンタジイ、ホラーの専門出版社・東京創元社が贈るウェブマガジンです。平日はほぼ毎日更新しています。  創刊は2006年3月8日。最初はwww.tsogen.co.jp内に設けられました。創刊時からの看板エッセイが「桜庭一樹読書日記」。桜庭さんの読書通を全国に知らしめ、14年5月までつづくことになった人気連載です。  〈Webミステリーズ!〉という名称はもちろん、そのころ創刊後3年を迎えようとしていた、弊社の隔月刊ミステリ専門誌〈ミステリーズ!〉にちなみます。それのWeb版の意味ですが、内容的に重なり合うことはほとんどありませんでした。  09年4月6日に、東京創元社サイトを5年ぶりに全面リニューアルしたことに伴い、現在のURLを取得し、独立したウェブマガジンとしました。  それまで東京創元社サイトに掲載していた、編集者執筆による無署名の紹介記事「本の話題」も、〈Webミステリーズ!〉のコーナーとして統合しました。また、他社提供のプレゼント品コーナーも設置しました。  創作も数多く掲載、連載し、とくに山本弘さんの代表作となった『MM9―invasion―』『MM9―destruction―』や《BISビブリオバトル部》シリーズ第1部、第2部は〈Webミステリーズ!〉に連載されたものです。  紙版〈ミステリーズ!〉との連動としては、リニューアル号となる09年4月更新号では、湊かなえさんの連載小説の第1回を掲載しました(09年10月末日まで限定公開)。  2009年4月10日/2016年3月7日 編集部

軍人が書いた未来架空戦記SF『血の叫び』は××本だった!――SF奇書天外REACT【第8回】(1/3)[2011年2月]


◆SF古書と生きる。ひそかに人気の古書探求コラム
年末に一冊の文庫本を買ったことから、
ずいぶんと遠くまで来てしまった。だが、まだまだだ。
今後も『血の叫び』が見つかるたびに、ひとつひとつ確認しなければいけないのだ。


北原尚彦 naohiko KITAHARA

 

大好評企画、第5弾! 北原尚彦先生蔵書より、古書を1名様にプレゼント!(2011年2月28日締切)【ここをクリック】


●これまでの北原尚彦「SF奇書天外REACT」を読む
 【 第1回第2回第3回第4回第5回第6回第7回

 

 

 二〇一〇年末の『東京創元社文庫解説総目録1959.4-2010.3[付・資料編]』に続いて、二〇一一年一月、またまた凄い本が出た。横田順彌氏の『近代日本奇想小説史 明治篇』(ピラールプレス)である。これは〈SFマガジン〉において、日本における古典SF(及びその周辺領域の奇想小説)の流れを順に追った連載(二〇〇二~二〇〇八年)を一冊にまとめたものだ。
 豪華な箱入りで、定価一万二千六百円と、お高い値段ではある。しかしこの本には、その値段以上の価値がある。物理的なことから言えば、文献目録や索引も含めると千二百ページを超える、ぶ厚い本なのだ(横田氏は「枕にもなるよ」とおっしゃっていたが、厚すぎて枕にはできないと思います)。そして何よりも、圧倒的な情報量の多さ。ぶっ続けに読んでいたら、目眩がしそうになったほど。だからその価値から考えれば、決して高くはないのである。
 それにしても、横田氏の古本探しの“カン”には、恐れ入った。『滑稽小説 羽根子夫人』のタイトルで、誰が明治百年を描いたSFだと思うだろうか? わたしも横田氏の薫陶を受けて、少しは嗅覚を働かせられるようになったつもりでいたが、まだまだである。
 そしてこの本の出版を記念して、先日、神田神保町の東京堂書店でイベントが開かれた。横田氏が人前に出るのはカンベンして欲しいとおっしゃっていたので、当初は日本古典SF研究会の現会長であるわたくしと、前会長である長山靖生氏が対談するということになっていた。
 しかし現物(見本)が完成してそれを手にした感慨と、編集氏の熱心な説得のおかげで、直前になって横田氏も出演なさることとなった。
 かくして当日は、横田氏がそもそも古典SFにハマったエピソードから始まって、『近代日本奇想小説史』の「大正・昭和篇」はいつ書かれるのか、という未来の話までを鼎談形式で行った次第。
 その中でわたしは、横田氏の研究手法を見習って最近調べている奇書のことを話した。今回は、その調査報告を披露させて頂くことにしよう。

 そもそもの始まりは、二〇一〇年十二月末のことだった。その日、わたしは新宿の京王百貨店を目指していた。この日から、歳末古書市が開催されるためだ。これは、古本者にとって一年の古本ライフを締めくくる、重要なイベントなのである。
 この年の初日は日曜日で、大混雑が予想された。開場十分前に入口へ到着すると、案の定催事フロア直行エレベーター前は、長蛇の列となっている。通路を挟んで反対側には、食品フロア入口からの行列が。あちらは、人気のラスクを求めての列らしい。向こうは、不審そうにこちらの列を眺めている。
 午前十時になると同時に、列が動き出す。並んでいた間は「エスカレーターを駆け上がった方が早かったかなあ」とどきどきしていたが、あにはからんや、数台目のエレベーターで簡単に階上へ。さあ、ハンティングのスタートだ。
 一冊目に掴んだ本は、珍しいけれども絶対に持っている翻訳小説。でも、これは欲しがる人がいるから買っておくことにする。もう一冊、ビニール袋封入の児童向けの科学解説書もキープ。
 そしてその次に見つけたのが〈つはもの叢書〉だ。これは昭和初期に発行された、軍事テーマ文庫である。奥村敏明『文庫博覧会』(青弓社/一九九九年)で紹介されていたので存在は知っていたが、現物を手にするのは初めてだ。いや、もしかしたら見たことぐらいはあるかもしれないが、手に取ってあまりに高くて「見なかったことに」したのかもしれない。
 とにかく今回は、値段を確認すると比較的お安い。今、新刊で文庫を一冊買うのと同じような価格である。遂に〈つはもの叢書〉を我が物とする日が来たのだ。……しかし、見つけたはいいが、ここにはなんと六冊もあった。六冊全部ともなると、それなりのお値段になってしまう。ううむ、どうしようか。
 とりあえず、全部掴んだまま残りの会場を見て回ることにする。児童書のSFを一冊追加。一回りしたところで、古本者の某氏と遭遇。お互いの収穫(まだ自分のじゃないけど)を見せ合う。あっ、それ、わたしも探してた本だ。悔しい。ここで〈つはもの叢書〉を見せたが、反応は「ふーん」という感じ。うーん、今これを欲しがるのはわたしぐらいなのだろうか。
 あとで気づいたが、わたしは頭の中で少々〈くろがね叢書〉と混同していたらしい。どちらも「ひらがな四文字+叢書」だし、どちらも軍事関係だし。〈くろがね叢書〉だったら、横溝正史やら海野十三やら大下宇陀児やらが収録されている上に超レア物なので、某氏だって顔色を変えていたはずだ。
 もう少し見て回ったところで、わたしは収穫(まだ自分のじゃないけど)の内容をチェック。児童向けの科学解説書は、ビニール袋を開けてみたらSF性皆無だったので、すぐにリリース。
 そして〈つはもの叢書〉を、一冊一冊吟味。兵士による詩歌集――これはいらないなあ。日露戦争に関する本も、あまりそそられない。……とはじいていくと、最後に一冊残った。戦記小説だが、どうも実際の歴史上の出来事とは違う模様。とすると、むむっ、未来架空戦記SFの可能性ありだぞ。
 というわけで〈つはもの叢書〉はこの一冊だけを買うことに決定。買ったのは合計三冊。いっときは九冊も抱えていたのに、三分の一に減らしましたよ(しかもうち一冊はダブリなので実質二冊)。
田中中尉 血の叫び
〈つはもの叢書〉版『血の叫び』
 かくして入手したのが、田中中尉『血の叫び』(つはもの発行所/昭和八年)。〈つはもの叢書〉の第一巻だ。出先でちらりちらりと拾い読みしてみたら、やはり日本の架空の戦争を描いているらしい。でも帰宅後にすぐに調べてみたところ、SF関係の資料や書誌には載っていない。あれっ、SFじゃなかったのか。
 となれば、自分でちゃんと読んで確認するしかない。仕事で読まなければいけない本が何冊もあったが、百二ページと薄いし、先に読んでしまうことに。
 ……読みました。横田順彌氏に電話してまず作品名と作者名を伝えたところ、そんな作品は知らなかったとのこと。また粗筋をかいつまんで話したら「それは未来架空戦記SFでしょう」と言って頂けた。よし、横田さんのお墨付きだ!
 では粗筋を。主人公は、立花光(たちばな・ひかる)という青年。彼は透徹なる学究の徒で、日本という国はどうあるべきかを追求していた。労働党の総会にも出てみたが、この党では国は救えない、と結論を出した。
 やがて戦争が始まる。何という戦争か、相手がどこかなどは語られない。光の兄・昭は出征したが、戦場偵察の任務において狙撃されて戦死した。光も、辞令によって戦地に送られる。彼の小隊長は、貴島中尉。光は中尉とも、「戦争とは」と語り合う。
 彼らを率いる押川将軍は、珠霊山高地を落とすべく、半年も攻撃を続けていた。そしていよいよ、総攻撃の時が来た。激しい戦闘が繰り広げられる。次々と死んでいく兵士たち。だが遂に、彼らは敵の塁にまで達し、軍旗を立てることに成功したのである。
 しかし新たな敵勢が押し寄せる。更には空中戦も繰り広げられる。敵はZ型航空船数隻を中心に空軍を勢ぞろいさせている。我が軍は戦闘機が大暴れする。遂に遂に、敵本営に白旗が上がった。
 連隊が母国に凱旋する。光は功績を上げていたが、戦闘で目が見えなくなり、右手も動かなくなっていた。
 連隊長の「捧げ銃!」の号令、厳粛荘厳な感激の渦の中、光は敬礼しようと焦っていた。その時、奇蹟が起きた。光の手が動き、目も見えるようになったのだ……。

 「見えない飛行機」とか「X爆弾」といった、SF的超兵器が登場するわけではない。「Z型航空船」や「F偵察機」が登場するが、これらは実在の兵器だ(前者はツェッペリン飛行船、後者は写真偵察機である)。この作中で描かれている戦争が実際の戦争か否か、というところで、本作が未来架空戦記SFであるか否かが判定されるのだ。



SF小説の文芸系月刊ウェブマガジン|Webミステリーズ! 東京創元社

【読者プレゼント】北原尚彦先生の蔵書から特選古書、ロバート・メイヤー『悩みのスーパーヒーロー』を1名様に![2011年2月]


好評連載 北原尚彦「SF奇書天外REACT」はこちらをご覧ください。

毎回ご好評をいただいています人気企画、北原尚彦先生「SF奇書天外REACT」掲載記念・古書プレゼントです。

北原先生が著書『SF奇書天外』(弊社キイ・ライブラリー、2007年刊)で紹介された御自身の貴重な蔵書の中から、今回はロバート・メイヤー『悩みのスーパーヒーロー』を、ご希望される方の中から抽選で1名様にプレゼントいたします。

【古本プレゼント第7弾】

内容紹介
悩みのスーパーヒーロー
『悩みのスーパーヒーロー』
ロバート・メイヤー『悩みのスーパーヒーロー』(竹内書店新社/1979年)
 新聞社員のデイヴィッド・ブリンクリーは、実は引退したスーパー・ヒーロー「インディゴ」だった。近年ニューヨークの治安が乱れているのを見て、現役復帰を決意するが、その背後には大いなる陰謀があったのだ!
 身体にぴったりしたコスチュームを身につけ、背中にはマント、高いビルディングもひとっ飛び……と、設定はモロにスーパーマンのパロディだし、バットマンやキャプテン・アメリカなどの名前も出て来るのに、展開は妙にシリアス。
 ヒューゴー賞を受賞し映画化もされたアラン・ムーア『ウォッチメン』など、後の様々なアメコミに影響を与えたという、隠れた重要作品。
 カバー貼り付け、見返しにテープ跡、カバー背上部僅かに欠け、と少々難アリ本ですが、レア本ではありますので是非ご応募を。
『SF奇書天外』182~186ページにてご紹介。)



 【プレゼント応募要項


ご希望のかたは、下の応募フォームよりお申し込みください。プレゼント選択ラジオボタン「北原尚彦先生提供の古書プレゼント」をチェックしてください。ご応募多数の場合は抽選となります。当選発表は、作品の発送をもって代えさせていただきます。

 

お申し込み締切 2011年2月28日(月)





お申込み登録には株式会社パイプドビッツのシステム「スパイラル」を利用しており、送信されたデータは暗号化された通信(SSL)で保護されます。
(2011年2月7日)


SF小説のウェブマガジン|Webミステリーズ! 東京創元社

【特別掲載 先行公開】平田真夫「潮騒――矩形の海」(2/2)[2011年2月]


「解ってるって」
 息を深く吸い込んで、ちょっと止めてみた。一、二、三、四……二十数える位なら簡単に出来そうだ。もう一度空気を吸いなおし、思い切って目を開けたまま顔を浸けてみる。途端に視界がぼやけ、しかしその先で、水底に何かが光るようだった。
「ぷはっ」
 すぐ顔を上げて息を吐く。そして、心配そうな主に目配せすると、二度三度、同じことを繰り返してみた。目に塩水が入るのは決して気持ち良くはなかったが、さればとて、心配していた程難しいこともなさそうだ。繰り返していくうちに余裕も出来、やがて一分位は水の底を眺めやることが出来るようになってきた。
「一度上がられたら如何ですか」
「うん、そうしようか」
 主の提案で腕に力を入れる。足が宙ぶらりんであるにしては、体は意外にすんなり持ち上がった。柵を乗り越えて地下室に這い上がると、彼がタオルを渡してくれる。全くこの男は、何処からこんな物を出して来るのだろう。
「何か見えましたか?」
「いや、今のところ何も――。ただ、底の方が思ったより明るい気がする」
「光が届くんですかね」
「そうじゃない。何かが自分で光ってるんだ」
 体の水分を拭き取ると、海の傍らに身を横たえる。主が上から覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、別に心配は――。ただ、水に入るってのは結構疲れるもんだな。次の時は腕を離してみるよ」
「そうですか」
 横たわったまま全身の力を抜くと、冷たい空気に体温が奪われていくようだ。慌てて衣服を取り上げ、肩から下の上半身に掛ける。余り長くこうしていると、風邪を引きそうだ。
「おい、そういえば店は開けっ放しじゃないのか」
 顔を上げて尋ねると、主は事もなげに答えた。
「何、平気ですよ。前にも鍵を掛けないで外に行っちまったことがあるけど、別に何もありませんでしたから」
「そうかい」
 まあ、当人が言うのだから心配しても仕方あるまい。それから、しばらく深呼吸を繰り返しているうち、次第に体が楽になってきた。
「よしっ」
 がばっと起き上がると、再び水に足を入れる。そしてさっきと同じように、縁につかまりながらそろそろと体を沈めていった。主が上から声を掛けてくる。
「ははあ、そういう風に体を真っ直ぐに伸ばせばいいんですね。そうすると浮くんですか。なるほど、そう難しいことでもなさそうだな」
「やってみるかい?」
「いえいえ、滅相もない。まあ、ここで拝見させていただくだけにしますよ」
「じゃ、ちょっと手を離してみるから、もしも危ないと思ったら、すぐに腕を伸ばしてくれ」
「そりゃあ、やれと言われればやりますがね。あんまり役には立たないと思いますよ」
「多分そんなに大変なことは起きないよ。今までここに入った奴らも、みんな無事だったんだろう?」
 大きく息を吸い込んで、顔を浸ける。そっと手を離し、全身を伸ばしたまま徐々に力を抜いていくと、案の定、体は沈まないようであった。
「大丈夫だ」
 ぷはっと息を吐いて、目配せする。それからしばらく手を離したり、或いは水の中で体を動かしたりという行為を繰り返した結果、どうやら水中を自由に動けるようになってきた。唇を舐めてみると、やはり生臭い塩の味がする。
「やりましたね」
 水から上がると、主がタオルを渡してくれる。見ると、酒瓶はどれも皆空になっていた。横の床を、鼠がちょろちょろ走り廻っている。
「何だ、全部飲んじまったのか」
「あ、こりゃすみません。行って、取ってきましょう」
「いいよいいよ、さっきも言ったように、ここで飲むつもりはないんだ。でも、そう言われると咽が渇いてきたな。塩水のせいだろう。酒は店に戻ってからでいいから、今は水が欲しい」
「じゃあ、やっぱり上に行って来ます。なあに、すぐ帰って来ますから」
 彼が階段を上って行くのを見送りながら、一人残されて考える。一体、人間の体は自然に水に浮くようである。練習の成果というより、元々その機能が備わっているようだ。何故なのだろう。 「お待たせしました」
 主が瓶をぶら下げて戻って来た。さっきより大振りのが二本、うち一つが蓋を開けて渡される。 「どうぞ」
「有り難う」
「では、あたしはこちらを戴きます」
 主が手酌でワインをやるのを見つつ、受け取ったミネラルウォーターの瓶に口を付ける。それはひんやり心地好く、塩の味をすっきり流してくれた。
「やっぱり、底に行くにつれて広くなってるみたいだ」
「じゃあ、次はいよいよ――」
「うん、出来るだけ深い所まで行ってみる」
 瓶を片手に持ったまま柵を背にして凭れて座り、天井を見詰める。古びた蛍光灯の光が、ぼんやりと目に滲んだ。
 ――ここを最初に作ったのは、どんな奴らなんだろう。
 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
 この海が人工の産物とは思えない。どういう偶然か、地下深くにこれを発見し、それから……?
 気がつくと、鼠が体に這い上がってちょろちょろと歩き廻っていた。肌に直接爪が当たり、くすぐったくてたまらない。と思った途端、それは肩まで登って来ると、あっと言う間もなく柵に駆け上がり、そのまま水に飛び込んだ。
「おい!」
「解ってます」
 慌てて二人で駆け寄ると、驚いたことには、上手に四肢を動かして水面を進んでいる。そして、しばらく遊んでいたかと思うと、すうっと水に潜って行き、再び水面から顔を出してこちらを見詰めた。
「どうやら、鼠の方が手慣れてるみたいだな」
「そのようですね」
 すいすいと柵に辿り着き、爪を立てて這い上がるのを見ながら、自分もあんな風に出来ればいいのに、と思う。その間にも、鼠はさっさと床に飛び降り、全身を震わせて毛に付いた水を振り飛ばしていた。
「よし、行ってみるか」
「くどいようですけど、無茶はしないで下さいよ」
「大丈夫。何かあっても、鼠が助けてくれるさ。さて、行くぞ」
 この頃には大分慣れてきて、ただ水に入るだけなら造作もなかった。手を離しても、少しの動作で浮いていられる。すぐに、今度は潜ることの方が難しいと気がついたが、それも手足の動かし方でどうにかなりそうだ。
「行ってくる」
「お気をつけて」
 深く息を吸い込んでから、手を振る主を後に、静かに水に潜って行く。目を開けると、確かに海は円錐形に広がっており、緑の視界の底には、何処まで続くとも知れない深淵が掘り抜かれていた。足の動きにつれて体はどんどん沈んで行き、いつしか周りは、壁すら見えぬくらいに広い緑色の空間に取り囲まれている。
 だが、ここまで来ても、視界はさほど暗くはならなかった。あの、底から来る光の為である。目の前に手を持ってくると、指紋すらはっきり判るようだ。
 見上げると、遥か頭上に四角い光の窓が切り抜かれている。あの柵の縁である。もはや体を浮かすのも楽に出来るようになっており、少なくとも帰れなくなることだけはなさそうだ。
 力を得て、尚も深みに向かって降りて行く。光を放つ水底を見る限り、確かにこの海は、限界のない底無しの深淵などではないようだ。だが、とにかく急がなくてはならない。息が持たなくなったらそれまでだ。
 しかし幾ら潜っても、光の源にはなかなか辿り着かなかった。緑色の空間が広くなるばかりで、まるで底が見えてこない。そもそも真っ直ぐ降りているのだろうか。
 再び上を見ると、さっきの光の窓は、星のように小さな点になっていた。まあ、あれが見える限りは大丈夫だろう。いずれにせよ、この海が円錐形を成しているならば、とにかく上に昇って行けば自然に帰れる筈である。
 それにしても、どうしてこんなに深く潜ることが出来たのか。もう随分来たと思うのに、少しも苦しくなってこない。上で練習した時に比べて、また、莫迦に息が続くようだ。
 そう思った時――。
 ――おや、お前も来ていたのか。
 気がつくと、すぐ横で先程の鼠が水を掻いていた。そいつもまた、この何処まで続くとも知れぬ深みに挑戦しているようで、まるで競争するかのように手足をちょこちょこ動かしている。
 ――よしっ。
 負けじとばかりに筋肉に力を入れる。この深さまで来ると、もはや周りの壁が何処まで退いたのかも完全に判らなくなり、深くなる緑色だけが、未だこの海が円錐形に広がり続けているらしきことを物語っていた。鼠は――。
 そう、鼠だけが、この緑色の視界の中で、唯一周囲の色を押し退けている。その体の白さのお陰で、周りを包む緑色が、実は光の加減によるものであると、初めて判った。彼方に見える深淵の明かりは次第に強さを増していき、明らかにこの海の底面が、前後左右、果てしのない距離に向かってずっと拡がっていることが見て取れる。そして深みに向かうにつれ、どうやら鼠の体までもがぼうっと光り始めたようである。
 やがて――。
 光の底はようやく手の届く距離にまで近づき、鼠とともに、舞い上がる砂地に足をつけられる所まで辿り着く。この柔らかい平面が海の底だ。もう上からの光は少しも届かず、代りに一面の砂と鼠の体が光源となり、地平線――いや、このような水の底でも地平線と呼ぶのだろうか――の彼方まで続く淡い光だけが、この海の底の広さを物語っていた。
 ――お前もよく来たな。
 鼠を見下ろして、心の中で話し掛ける。すると、それはまるで、今回が初めてではないとでも言いたげに、こちらを見上げてきた。
 なるほど、そういうこともあるかも知れない。あの地下室に、二年以上も閉じ込められてきたのだ。海に飛び込んだこと、そこで自分の力を試したこと、光の床まで到達したこと、この鼠なら全て経験済みでもおかしくはなかろう。
 底にしゃがんで手を伸ばすと、砂は光を撒き散らしながら、靄の如く水中を舞い上がる。その様子は、大地に一面にとまった蛍が、安息を掻き乱されてうるさげに飛び立つようでもあった。手に取っても少しも留まらず、水が微かに動いただけで舞い上がり、一粒も残らず逃げていく。
 ――持って帰るのは無理みたいだな。
 幾度かの試みののち、袋を持参しなかったことを後悔する。素裸では何処にも砂を入れる所とてなく、手で握ったまま持っていっても、途中でこぼれてしまうだろう。あきらめて足を踏み出すと、何かが爪先にぶつかった。
 ――?
 砂の中に埋まった、滑らかな丸い筒のような物体。透明な表面を透かして、水と光の砂が詰まっていることが判る。屈んで掘り出してみると、それはさっきまで飲んでいたのと同じ、古い葡萄酒の瓶であった。
 ――あそこから落としたのだな。
 考えてみれば、地下室から物置まで、わざわざ瓶を持ち帰る必要もない訳だ。海を見た者が、これが全てを飲み込んでくれると考えるのも無理はない。
 そう思って辺りを見廻すと、酒瓶は今見つけた物だけではなく、あちらに一つ、こちらに一つと、かなりの数が光る砂床に顔を出していた。主が過去に案内したという二人の客、それ以前にこの海を訪れた者達――途中の物置に気づいたのも、一人や二人ではなかった筈だ。
 だからといって、そのどれかに砂を詰めて行くのも難しそうであった。手に持ったまま水を掻くのは困難だし、重過ぎて途中で落としてしまうだろう。ここは素直にあきらめるしかない。
 そのまま、頭上に目を向ける。まさか、今この瞬間に瓶が投げ込まれもすまいが、もしそんなことがあれば、それはどんな風に見えるのだろうか。気がつけば、先程より次第に息が苦しくなってきている。
 ――行こう。
 傍らの鼠に心の中で話し掛けると、それは、解ったというように砂を蹴り、手慣れた四肢の動きで、つい、つい、と水中を昇って行き始めた。その姿を追って手を伸ばすと、予想通り体は楽に浮かび上がる。あとは手足を少し動かすだけで、すぐに上まで出られるだろう。
 やがて、光る底面は遥か下方に沈んでいき、いつか、あの四角い窓が前方に見え始めた。

続きを読む
東京創元社ホームページ
記事検索
タグクラウド
東京創元社では、メールマガジンで創元推理文庫・創元SF文庫を始めとする本の情報を定期的にお知らせしています(HTML形式、無料です)。新刊近刊や好評を頂いている「新刊サイン本予約販売」をご案内します【登録はこちらから】


オンラインストア


創立70周年


東京創元社特設サイト