海外ミステリ出張室

2015.11.05

「無口な巨人」ヘニング・マンケルを偲ぶ。

柳沢由実子 yumiko YANAGISAWA (スウェーデン文学翻訳家)


 そうか、やっぱり。
ヘニング・マンケル死去の知らせを受けて、わたしは胸の内で呟いた。二〇一五年十月五日、スウェーデンを代表する作家ヘニング・マンケルがヨーテボリで逝った。六十七歳だった。
 去年(二〇一四年)の一月、ヘニング・マンケルはフェイスブックでがんにかかっていることを告白した。人からそう聞いて、さっそくフェイスブックを開けてみると、確かに、首が痛くて寝違えたかと思い、痛み止めをもらいに医者に行ったところ精密検査を勧められ、思いもよらなかった肺がんが、それもかなり進行しているものが発見されたとあった。
 動揺、否定、落ち込み、無気力、怒りと、それからほぼ毎週のようにマンケルが発表した手記にはすべてが正直に記されていた。あまりにも正直すぎて、読むのが辛いほどだった。でも同時に、手記には痛みと絶望の中で、もの皆寝静まっている深夜、毎晩かならず見回ってくれる看護師たち、日々進歩している医療技術とそれを駆使する医者たち、そしてなにより、そばにいていっしょに過ごしてくれる同志であり妻である人に対する感謝の気持ちが満ち溢れていた。もっとも弱っていると思われるときさえも、不思議なほど文章が生き生きとしていた。
 ヘニング・マンケルは肺がんのラストステージであることを知ってから、これからの人生をどう生きるか、もっとはっきり言えば、これからも書き続けるかどうかを決めるのに“十二日から二十日間”考えたと言っている。そして、まだまだ書きたいことがある、書き続けられるだけ書こうと決心した。実際に、がんにかかってから逝去するまでの一年半の間に、エッセイ集『流砂』『スウェーデン製のゴム長靴』を発表している。彼にとって生きることはまさに書くことだった。手記と、これまでにないほど明るく生き生きとした文章のエッセイ集『流砂』のおかげで、いつのまにかわたしはきっと治療がうまくいっているのだろう、まだまだ書き続けられそうだと安心していた。そんな隙に飛び込んできた知らせだった。
 ヘニング・マンケルは一九四八年二月三日ストックホルムに生まれ、一歳のとき、北スウェーデンの小さな村スヴェーグに移り、スヴェーグ地方裁判所の裁判官だった父親の手で姉とともに育てられた。当時は裁判官の官舎が裁判所になっていたため、上階でミニカーで遊びながら、泥棒が刑期を言い渡されたり、家庭内暴力の裁判の様子を聞いていたとマンケルは語っている。一階で行われる裁判の様子を二階から垣間見ながら、少年ヘニングは十三歳までスヴェーグで過ごした。そのころの経験がのち彼の代表作である刑事クルト・ヴァランダーシリーズに大きく影響しているという。その後一家は西海岸側のボロースという町に引っ越したが、マンケルは学校と折りが合わず、十六歳で退学し、船乗りになった。二年間世界を運行する貨物船の乗組員の下働きをしたのち、一年あまりパリに住み、そこで一九六八年にパリで始まりヨーロッパ全土に広がった学生革命の胎動を経験する。このころからベトナム戦争反対、アフリカにおける元ヨーロッパ宗主国支配への抵抗支援、南アフリカのアパルトヘイト反対の活動を始める。
 一九六八年ストックホルムに戻り劇場の仕事を始めた。最初の脚本『子犬から詩人へ』と最初の小説『鉱山爆破人』(未訳)を発表、次第に若手脚本家として認められるようになる。父親イーヴァル・マンケルはヘニングが二十四歳のときに亡くなるが、最初の本の出版を非常に喜んだという。父親は彼の才能を最初に認め、必ず作家として世に出ると信じてくれていたとヘニングは語っている。その後、ダーラナ県のファールンの劇場開設に参加し、一九八四年にはヴェクシューのクロノベリ劇場の支配人になり一九九〇年までこの劇場の発展に心血をそそぐ。この間、小説は一作も発表していない。
 モザンビークの首都マプートに居を構えたのは一九七〇年代に入ってからである。アフリカはマンケルにとって幼いときからのあこがれの土地だった。初めてアフリカの土を踏んだとき、“家に帰った”という不思議な安心感を得たという。アフリカに住んだおかげで物事を多角的に見られるようになったと語っている。マプートではテアトロ・アヴェニーダ劇場を立ち上げ、脚本を書き舞台監督をして現地の劇場文化に貢献した。現在に至るまでその興行は現地の人々の手で続けられている。その後マプートと刑事ヴァランダーの舞台であるスウェーデン南部の田舎町イースタに、その後は三番目の結婚相手であるエヴァ・ベルイマン(映画監督イングヴァル・ベルイマンの娘でヨーテボリ市立劇場総支配人)とヨーテボリ近辺に住み、モザンビークと行き来しながら創作活動を続けた。この間もずっと彼にとってアフリカは心の故郷であり、エイズ撲滅運動、エイズで両親を亡くした子どもたちの暮らしの向上のため基金を作り支援をしてきた。〈メモリー・ブックス・プロジェクト〉を立ち上げ、エイズにかかった人々の話を記録した『私は死ぬが、思い出は生き続ける』(未訳)を二〇〇四年に刊行している。
 作品は児童文学からミステリーまで多岐に及び、小説(エッセイ、ドキュメンタリーを含む)を四十五作、うちイースタ警察刑事クルト・ヴァランダーを主人公にする作品が十一作、脚本・戯曲を二十一作発表している。加えて映画の脚本も十本以上書いている。マンケルの作品は四千万部以上刊行され、四十カ国語に翻訳されて世界的規模で読まれている。最優秀北欧ミステリーに与えられるガラスの鍵賞、優れた世界の児童文学に与えられるアストリッド・リンドグレーン賞、イギリスのゴールド・ダガー賞など、スウェーデン国内外の大賞を多く受賞している。とくに、ドイツにおけるマンケルの評価は高く、ナチスの残党を暴いた『タンゴステップ』(二〇〇〇年原作発行 二〇〇八年邦訳)がドイツ語版発表後一年以上にわたってベストセラーのトップにランクされたことは、とくにヨーロッパの人々には感慨深い出来事として記憶されているにちがいない。二〇〇三年にドイツ図書賞を、二〇〇四年には彼の全作品に対してドイツの権威あるトレランス賞が南アフリカのノーベル平和賞受賞者デズモンド・ツツ師の手から授与されている。
 わたしが初めてヘニング・マンケルの作品イースタ警察署の刑事ヴァランダーを主役とする警察小説『殺人者の顔』を翻訳したのは二〇〇一年のことだった。いまでも多分にそうなのだが、当時海外の作品はほとんどが英語から翻訳されていた。原語がスウェーデン語やノルウェー語のように希少な言葉のものはたいていいったん英語に、ときにはドイツ語やフランス語に訳されてから日本語に訳されるのが常だった。重訳である。そんな中で、このヘニング・マンケルの目立たない地味な作品がわたしの手に渡された。しかも原語のスウェーデン語のままで。わたしはスウェーデンではこの地味な本が数年前に突然田舎町の書店のウィンドーに、あるいはストックホルムの大型書店の店頭に大きく飾られ、大々的に売り出されたことを、そしてその後シリーズとして他を寄せ付けない人気を博していることを知っていた。もしかして、スウェーデンの田舎町の中年刑事を主人公にしたこのシリーズ、日本の渋い時代小説の愛読者たち、例えば藤沢周平を読む中年男性たちに読まれるかもしれないという淡い期待が胸に浮かんだ。
 『殺人者の顔』は版を重ねて現在14版に至っている。これに続く『リガの犬たち』『白い雌ライオン』『笑う男』『目くらましの道』『背後の足音』『五番目の女』『ファイアー・ウォール』も版を重ねている。ヴァランダーシリーズで未訳なのは一九九〇年代の最後に発表された『ピラミッド』(Pyramiden)とそれから十年後の二〇〇九年に満を持して発表された十作目の『苦悩する男』(Den orolige mannen)だが、いまは少しでも早くこれら二作を訳したいと思っている。間近なところで二〇一六年の一月に警察官実習生寸前のヴァランダーの娘リンダを主人公にする『霜の降りる前に』が刊行される。すでに翻訳は終わっていて、再校ゲラの段階である。リンダが中心とはいえ、この本も雰囲気はいつものヴァランダー独特の世界である。
 この追悼文を書いている今日、二〇一五年十月二十五日の東京新聞に、〈スウェーデンでも極右の影〉と題して、刃物を持った覆面男が学校を襲撃し教員補佐の男性と移民の男子生徒を殺害したという記事が掲載された。犯人はスウェーデンの移民政策に不満を持つ極右思想の持ち主とある。移民排斥思想がスウェーデン社会をゆがめていることはヴァランダーシリーズを読んでおられる読者には、周知の事実であろう。いまから二十四年前の一九九一年にマンケルがすでにヴァランダーシリーズの第一作『殺人者の顔』で取り上げていたテーマである。現在のスウェーデンの人口は九百七十五万人(二〇一四年国連統計)。当時からさらに八十五万人増えている。その多くが移民である。国民の四人に一人が、いや三人に一人近くが本人あるいは親が外国から移住してきた“新スウェーデン人”なのだ。欧州連合(EU)の加盟国で、移民・難民を受け入れる政策を取っているため、現在スウェーデンはドイツに次いで移民受け入れ数が多く、シリア難民を始め今年国内に流入する難民の数が当初の想定の倍の十九万人に達する見通しと発表されている。二〇一四年の秋に樹立した社民党と環境党の連立政府はEU加盟国としての責務と国内の移民政策に反対する人々や極右思想のスウェーデン民主党(最初は少数党だったが昨年の総選挙で第三党に躍り出た)からの突き上げに苦渋の選択を迫られているところだ。そんなときに今回の事件が起きた。人々の動揺が移民排斥運動につながらないように祈る気持ちである。それこそヘニング・マンケルがもっとも恐れていたことだ。
 モザンビークとスウェーデンの間を行き来するなかで、マンケルの強く望んでいたことは、西欧の富裕国とアジア・アフリカの国々の間の経済格差の解消と平和的共存だった。アパルトヘイトを憎み、エイズ対策の遅れを解消するために経済的援助と政治的援助に奔走し、パレスティナ支援のためガザ行きの援助船に乗り込んだ行動する作家ヘニング・マンケルが元気だったら、いま国内の安定と道義的立場のはざまで苦しむスウェーデン政府になんと進言しただろう。ソリダリティ(連帯)という言葉が聞こえる。マンケルがもっとも信じていたことである。残された私たちにも感じてほしいと願っていたのではないだろうか。
 ヴァランダーシリーズ以外には前出の『タンゴステップ』『北京から来た男』を訳したが、まだまだたくさん魅力的な作品が残っている。『コメディア・アンファンティル』(Comedia infantil)、『ケネディの脳』(Kennedys hjarna)『イタリアン・シューズ』(Italienska skor)……そして最後の作品『流砂』。なにしろマンケルは書くことが生きることだった作家である。そのエネルギーは尽きることがなかった。
 笑い話のようだが、あるとき夫人のエヴァさんがたまには休暇をとって旅行するとか、なにか面白いことをしたいとヘニングに訴えたという。ヘニングは目を丸くして「しかし僕たち(僕たちというところがまたヘニングらしいところだが)、こんなに面白いことをしているじゃないか、毎日!」と言って、書きかけの原稿を指差したという。
 今回、死去する二週間前にマンケルがスウェーデンの新聞インタビューに答えている映像を見た。「いままでの人生に満足している。私は不器用な人間だが、文章はまあまあ書ける。現在私の体は一日二時間だけ機能する。その二時間を私は執筆に当てている」と語っていた。さらにガンの研究がものすごいスピードで進められていて、結果がすぐに治療に役立っていることに驚嘆し、「すべてがガン研究のようなスピードで進められたら、世界の問題はすぐにも解決できるはず」という言葉で話を結んでいた。
 ヴァランダーシリーズの映画監督ペッレ・ベリルンドはヘニングとわたしの共通の友人である。わたしがヴァランダーシリーズを訳すことになったと知ったとき、ヘニングとわたしをある夏の夜、食事に招待してくれた。ヘニングはじつに物静かな紳士で、終始楽しいエピソードを披露するペッレの聞き役だった。その後も何度かお会いしたが、スウェーデン北部の出身者に特有な、無口で温和な人という印象だった。まだまだ書きたいことがあったにちがいない。ご冥福をお祈りする。
(二〇一五年十月二十五日記す)


(2015年11月5日)



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