海外ミステリ出張室

2014.11.05

山崎まどか/ダフネ・デュ・モーリア『いま見てはいけない』(務台夏子訳)解説(全文)[2014年11月]

山崎まどか madoka YAMASAKI



 二十代半ばの頃、VHSテープで『赤い影』(一九七三年)という映画を見た。
 ちょうど、フラッシュ・バックとフラッシュ・フォワードという編集の手法が使われている六〇年代終わりから七〇年代の映画作品に、興味があった頃だ。映画では過去の一場面を現在進行形のシーンに差し込むモンタージュ手法をフラッシュ・バック、その反対に未来に起きるはずのシーンを差し込むことをフラッシュ・フォワードと呼ぶ。その二つを同時に使うと映画の時系列は曖昧になり、観客は混乱状態や(ドラッグ等で)トリップしているような感覚を経験することになる。『キャッチ22』(一九七〇年)や『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(一九六七年)、物語の設定上、この手法が不可欠な『スローターハウス5』(一九七二年)など、フラッシュ・バック&フォワードを使った映画の傑作は多い。
 ビートルズの『ハード・デイズ・ナイト』(一九六四年)や『ナック』(一九六五年)で知られるリチャード・レスターも、ジュリー・クリスティ主演の『華やかな情事』(一九六八年)という映画でこの手法を用いている。フラッシュ・バック&フォワードを多用したせいで普通のメロドラマのはずの物語が脱構築され、筋がまったく頭に入ってこないという珍品だが、私はこの映画が大好きだった。『赤い影』を見たのは、『華やかな情事』の撮影監督だったニコラス・ローグ監督がジュリー・クリスティを主演の一人に迎えたこの映画で、やはり効果的にフラッシュ・バックとフラッシュ・フォワードを使っているということをどこかで読んだからだ。
 『赤い影』は、建築家のジョンとローラの夫婦が、幼い娘を水難事故で失うシーンから始まる。水面下の赤いコートの少女の遺体のイメージと、ジョンが見ているヴェネチアの大聖堂の写真の上に広がる血痕のイメージが鮮烈だ。舞台はそのまま冬のヴェネチアに移り、二人はレストランでスコットランド人の奇妙な姉妹と会う。姉の方は視力を失ってから霊的な力が宿るようになったという話だ。彼女は夫婦と一緒にいる幸せな娘の姿が見えたと言ってローラを喜ばせるが、ジョンはこの邂逅に何故か不吉なものを感じる。姉妹は、ヴェネチアにいるとジョンの命が危ういと彼らの亡くなった娘が伝えているというのだが…。
 ヴェネチアの河の水面が、現在進行形で起きている連続殺人事件とジョンとローラの過去、そして未来をイマージュのように映し出す、ダークで幻想的な作品だ。フラッシュ・バックとフラッシュ・フォワードの手法にも、意味が隠されている。現在、多くの映画人が影響を受けた一本として名を挙げるのも納得の傑作である。
 手法の他に、この映画で私が気になっていたことがもうひとつある。原作がダフネ・デュ・モーリアだということだ。
 ローティーンの時に『レベッカ』を読んで以来、その名前は私の心の特別なところにあった。『赤い影』という作品の持つ、暗くて危険なのに魅惑的なムードは、原作となったダフネ・デュ・モーリアの短編に起因するものに違いないと確信していた。
 『レベッカ』は一九三八年に発表され、その二年後にアルフレッド・ヒッチコックによって映画化されている。ヒッチコックは更に一九五二年に発表されたデュ・モーリアの短編集の中から「鳥」をピックアップして、一九六三年に同名映画を発表している。どちらも映画史に残る名作だ。デュ・モーリアの作品には、優れた映画作家を駆り立てるものがあるのだろう。
 私は『赤い影』を見てからずっと、その原作となったデュ・モーリアの作品を読んでみたいと思っていた。その待望の作品が、この短編集の冒頭に収録されている「いま見てはいけない」である。
 デュ・モーリアのキャリアは長く、三〇年代から七〇年代までの長きにわたるが、私は『赤い影』を見たとき、霊媒師やヴェネチアの街が醸し出すクラシカルなムードから、勝手に三〇年代か四〇年代に書かれた古い作品が元になっているだと思い込んでいた。この短編集は一九七一年に発売されたDon’t Look Now and Other Storiesを底本にしているが、インターネットで調べたところ、「いま見てはいけない」の初出は一九六六年にDoubleday and Companyから出たこの本と同名の短編集のようだ。表題作以外の収録作品は、この本とはまた違うらしい。
 発表は六〇年代終わりだが、描かれている時代はいつ頃だろう。ジョンが短く刈り込まれた老姉妹の髪型を見て、自分の母親の時代にイートン・クロップと呼ばれていたスタイルだと考える場面がある。イートン・クロップというのはショート・カットをヘア・クリームなどで固めてサイドに流した髪型で、イギリスでは一九二〇年代の半ばから後半にかけてこのヘア・スタイルが流行っていたらしい。ジョンの母親はその時代に、二十代から三十代だったと考えられる。結婚していて、寄宿舎に住まわせる程度の年齢の子どもがいることから推測するに、ジョンの年齢を三十代半ばから四十代はじめといったところだろう。そうすると、「いま見てはいけない」の時代設定は書かれた時期とそう変わらない、六〇年代のどこかだと思って間違いがなさそうだ。「いま見てはいけない」『赤い影』の時代は、隔たっていないのである。
 読んでみて、設定に細かい変更はあるもの、改めて、ニコラス・ローグが原作の持つエレメントやムードといったものをいかに大事にしているか分かった。映画は主演のドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティの大胆なベッド・シーンが話題だったが、あれほど直接的ではないものの、夫が肉体的なつながりで夫婦の再生を確認しようとする場面はちゃんと原作にも織り込まれている。しかし、双方に触れて映画や小説の謎が解けるかというと、そうではなく、その謎とミステリアスな空気は一層深くなる。小説では気配だったものが、映画では生々しい肉体を持って描かれ、小説では主人公の意識としてはっきりと語られていたものが、映画では曖昧にぼかされている…ダフネ・デュ・モーリアの「いま見てはいけない」と映画の『赤い影』の関係は単なるアダプテーションではなく、それぞれの世界に映る影のようだ。
 映画の方は未見だという人には是非ともこの短編を読んだ後、『赤い影』を見て欲しいと思う。逆もまた然りだ。
 「いま見てはいけない」という作品の世界と、ヴェネチアの街は切り離せないが、この本の収録作は他にも、旅先のエキゾチックな風景をバックにしたものが多い。
 「真夜中になる前に」は、絵を描くのが趣味の真面目な教師が、休暇で訪れたギリシャのクレタ島でいかがわしい夫婦に出会い、人生を狂わされる物語だ。サスペンスだが、ギリシャ神話が織り込まれていて、ストーリーに超自然的な力の気配を及ぼしている。ストール夫人に半人半山羊のシレノスの顔がついた角杯を一方的に贈られた主人公が見る、非常にホモ・エロティックな夢が印象的だ。
 「ボーダーライン」では、父を亡くした娘が謎めいたその級友を訪ねて、アイルランドまで旅をする。そこで彼女を待っていたのは、残酷なラブ・ストーリーだ。メロドラマティックな話だが、そのメロドラマ的な要素がどうしようもなく魅惑的で、そこがデュ・モーリアの作品らしいと思う。
 「十字架の道」はエルサレムにツアーで来た英国人たちを描く群像劇。急に引率役の代役を頼まれた若い司祭、孫を連れた上流階級の夫婦、教会が生き甲斐の老婦人、成金の企業家の夫婦、上手くいっていない新婚カップルと、顔ぶれからして一悶着ありそうなメンバーである。ロビン少年が言う「ニサンの十三日」とはユダヤ暦でキリストが処刑された前日、最後の晩餐の日のことだ。彼はそれで、キリストがその弟子と最後の晩餐の後に祈りを捧げたゲッセマネの園に行きたがる。ロビン少年はその後、「復活」が見られるかと期待する。大人たちの方は旅を通して恥辱や困難を経験し、そこからもう一度どうにか立ち直ろうとする。それもまた復活の形なのだろう。
 最後の「第六の力」は、他の作品と少し趣が違うサイエンス・フィクションになっている。発達障害の子どもを媒介に使い、死にゆく青年の生命エネルギーをコンピューターに取り込もうとする研究者グループの話だが、彼らがとんでもないものをコンピューターに閉じ込めてしまうという展開が、ジョニー・デップ主演の映画『トランセンデンス』を思わせる。
 デュ・モーリアの豊かな物語世界に触れることが出来て、大満足な作品集だ。



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