海外ミステリ出張室

2009.01.06

山口雅也/エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』[新版]解説[2009年1月]

1932年の奇跡
《国名シリーズ》の最高峰
《読者への挑戦》を含む本格ミステリ
(09年1月刊 エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』[新版]解説)

山口雅也 masaya YAMAGUCHI

 

 1932年には、320馬力のスーパーチャージ・モデルJが登場する。(中略)ユタ州のボンネビル・ソルトフラッツにおいて平均時速245キロメートルを達成した。
(英語版『ウィキペディア』の「デューセンバーグ」の記事より)

 ――と、のっけから、ミステリの解説と関係なさそうなアメリカの自動車に関する文章の引用から書き始めたのには、もちろん理由がある。
 理由の一つは、上の引用の冒頭にある1932年という年が意味するもの。
 この年には、1929年に始まった大恐慌がピークに達していて、アメリカの世相には、まだまだ暗いものがあったろうし、いっぽう、国外でも、ナチがドイツ国会選挙で第一党となり、満州国が建国を宣言するなど、来るべき第二次世界大戦の予兆となるような不穏な影が世界を覆い始めていた。
 ところが、そんな年に、アメリカのミステリ作家エラリー・クイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの従兄弟同士の合作)は、そのキャリアの頂点を迎えることになる。
 1932年にクイーンは、四冊の長編を発表している。1929年に処女作『ローマ帽子の謎』で始めた所謂《国名シリーズ》(探偵役は作者と同名のエラリー・クイーン)の第四作『ギリシア棺の謎』と第五作の『エジプト十字架の謎』(本書)、そして、バーナビー・ロス名義で発表した、シェイクスピア俳優のドルリー・レーンを探偵役に配した四部作の内の最初の二作、『Xの悲劇』『Yの悲劇』――の計四作品である。それら四作品の内容がまた凄かった。例えば、『ギリシア』『エジプト』は《国名シリーズ》、あるいはクイーンの代表作として常に名前があがってくる秀作だし、『X』『Y』の両悲劇に至っては、独りクイーンの代表作と言うにとどまらず、ミステリ全史のオールタイム・ベストで、常に一、二位の座が指定席になっているほどの名作なのである。ミステリの長い歴史において、一年の間に、これほどの質と量の作品を発表した作家を他には知らない。この奇跡の1932年をクイーン――いやミステリ全史の《当たり年》と言わずして何と言ったらいいのだろう。
 ――で、この奇跡の1932年に、アメリカ車デューセンバーグも、冒頭の引用にあるような頂点を極めることになる。デューセンバーグは、当時のアメリカで「最も大きく、高速で、高価で、品質のよい」自動車であり、所謂《狂乱の20年代》を象徴する文物の一つとして知られていた。世界中の自動車スピード・レースで数々の輝かしい戦歴を残し、クラーク・ゲーブルなど有名人たちの愛車となり、当時の標準的な大衆車の実に40倍もの値段で売買されていた当時の最高級車デューセンバーグ。
 ――そのデューセンバーグが名声の頂点を極めた1932年に、作家エラリー・クイーンもその創作活動の頂点を極め、軌を一にするかのように、同年発表の本書『エジプト十字架の謎』の中に、探偵エラリーの愛車として、この車を初登場させているのだ。
 このミステリ史に残る最高の名探偵と当時の最高級車の組み合わせというのが、本書『エジプト十字架の謎』の特徴を、象徴的に、そして如実に、物語っているように思えてならない。
 その特徴とは、ずばり、当時のミステリ小説が盛り込みうる最高の《エンターテインメント》性――ということ。
 それが、端的に表れているのが、物語終盤のスリリングな犯人の追跡シーンだ。ここで探偵エラリーは「最速」の愛車デューセンバーグと近代高速交通機関を駆使して、四州にまたがり550マイルにわたる真相究明のための大追跡を敢行する。当時の読者が、この場面に、全盛を極めていたハリウッド映画顔負けの《エンターテインメント》性を感じたであろうことは、想像に難くない。
 『エジプト十字架の謎』のエンターテインメント性重視の姿勢は、この終盤部だけにとどまるものではない。冒頭から、T字形の道標に磔にされた奇妙な首なし死体が発見されるというインパクトの強い事件が起こり、以後、T十字架に絡む不気味な首なし死体は四連続で現われて、探偵と読者は大いに幻惑・翻弄されることになる。クイーンという作家は、同時代のディクスン・カーのように怪談じみた謎やオカルト趣味などのケレン味でリーダビリティーを確保するという手は使わなかったし、小説の冒頭から展開部にかけては、事情聴取や現場の精査などに終始する、どちらかと言うとスタティックな(私は楽しめるのだが、人によっては退屈に感じる)印象が強かったが、本作では、異例とも言えるほどの派手な掴みと展開で、まさに「巻おく能(あた)わざる」一編となっている。
 こうした豊かな「動」の《エンターテインメント》性が、名品揃いの奇跡の1932年発表作の中でも、『エジプト十字架の謎』をひと際輝かせ、忘れがたいものにさせているのだと思うが、一方の「静」の《エンターテインメント》性――本格謎解きミステリとしての読みどころである《推理》の部分については、どうだろうか。
 クイーンの作品では、犯人側が仕掛ける奇抜なトリックよりも、現場に残された些細な手掛かりから、探偵役が演繹的かつ精緻な推理を重ねる過程――つまり論理的推理の面白さが重視される。本書中でも、探偵エラリーが警察科学学校の標語を引用して、『目は求めるもののみしか見ず、すでに心中にあるものしか求めない』――と語っているが、実際、現場の捜査陣(読者)が見逃してしまいがちな些細なものを、エラリーは絶対に見逃さず、その些細なものどもを重要な手掛かりに変貌させ、そこから独創的な推理を展開して、まったく意想外な真相へと到達する。

 (以後、本書の中でエラリーが得る手掛りについて触れています。未読の方はご注意下さい。また他の作品の手掛かりも未読の方の興を殺がないよう、伏せ字にしています)

 だから、エラリー・クイーン作品の最大の魅力は、記憶に残る《名推理》の面白さ――と言ってもいいのかもしれない。
 それらの《名推理》の例を思い出してみても、『オランダ靴の謎』の○○の推理、『ギリシア棺の謎』の××の推理、『シャム双子の謎』の△△の推理……などなど、枚挙にいとまがない。本書もその例に漏れることはなく、前半のパイプとチェッカー駒の推理もいいが、何と言っても終盤で語られる、ヨードチンキ瓶に関するシンプルで鮮やかな推理から連続殺人事件の意外な全体像が浮かび上がる過程は圧巻。マニアの間で「ヨードチンキの推理」と言えば、それだけで通じるほどの、あまりにも有名なクイーン流《名推理》の好例として知られている。

 豊かなエンターテインメント性とクイーン本来の名推理の妙味が共存した本作は、最初に読むのならこれ――というエラリー・クイーン入門の書として、万人にお勧めできる絶好の一冊だと思う。

(2009年1月)

■ 山口雅也(やまぐち・まさや)
横須賀市生まれ。早稲田大学法学部卒業。1989年『生ける屍の死』でデビュー。『日本殺人事件』で第48回日本推理作家協会賞受賞。主な著書に『13人目の探偵士』『キッド・ピストルズの冒涜』『續・日本殺人事件』『ミステリーズ』『奇偶』『ステーションの奥の奥』『モンスターズ』『キッド・ピストルズの最低の帰還』等がある。


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