杉江松恋 mckoy Sugie
時効が成立した事件の犯人を裁くことはできるのか。
それがレイフ・GW・ペーション『許されざる者』の主題である。
2010年7月5日に、ある男性がストックホルムのカールベリス通り66番にある〈ギュンテシュ〉(実在する)でお気に入りのホットドッグを買う場面から小説は始まる。直後、彼は脳塞栓の発作を起こし、危ういところで命を拾う。国家犯罪捜査局元長官のラーシュ・マッティン・ヨハンソンにとっては青天の霹靂ともいうべき出来事であった。
右半身に麻痺が残ったほか、かつては部下たちに「角の向こう側が見通せる」と畏怖された頭脳にも以前ほどの切れが戻らない。病床で失意を噛みしめるヨハンソンに、主治医のウルリカ・スティエンホルムが驚くべきことを打ち明けた。牧師だった彼女の父は、ある殺人事件の犯人を知っているという女性から懺悔を受けたものの、聖職者の守秘義務ゆえに誰にも口外できず、悔いを残したまま亡くなったのだという。それは1985年6月にヤスミン・エルメガンという九歳の少女が殺害された事件で、警察の初動捜査が遅れたことなどが災いして、迷宮入りしていた。
スウェーデンでは2010年に法改正が行われ、殺人を含む重大犯罪については時効が廃止されたが、それも同年7月1日以降に時効となるもののみが対象である。ヤスミンの事件は一足早く時効が成立してしまっていた。つまり、ヨハンソンが犯人を突き止めたとしても法で裁くことはできないのだ。それでも彼は、ヤスミン事件を解決することを決意する。
「わが主が、25年前の古い殺人事件に正義をもたらすために、頭に血栓の詰まった意識不明の元警官をお前さんの元へ送ったとでも言うのか。さらには、たった数週間ちがいで新しい法律に間に合わず、時効を迎えさせたとでも?」
序盤で以上の状況が説明される。以降はヨハンソンによる執拗な犯人捜しが描かれるのである。怪我や病気で身動きのとれない探偵が、協力者を介して集められた情報のみを用いて推理を行う謎解き小説を〈ベッド・ディテクティヴ〉と呼ぶ。代表例がジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年 ハヤカワ・ミステリ文庫)だが、ヨハンソンはじきに退院して動き回るようになるので、このタイプからは逸脱する。ただし、後遺症のせいで、以前の超人的警官だったころの活躍は望めない。そこで、仲間を集めてチームを結成するのである。警官時代の元相棒で同じく年金生活者のボー・ヤーネブリング、義弟で元会計士のアルフ・フルト、介護士のマティルダ、兄エーヴェルトから派遣されたロシア人の若者マキシム・マカロフといった面々だ。すでに盛りを過ぎた老境の探偵がもう一花咲かせようとして頑張ると周囲の面々も活気づいてくる、という展開はL・A・モース『オールド・ディック』(1981年 ハヤカワ・ミステリ文庫)などを連想させる。設定から本書と同じ創元推理文庫の、ダニエル・フリードマンによる老人探偵小説『もう年はとれない』(2012年)を思い浮かべる読者も多いのではないか。
物語の幹は太く、余計な枝葉はあまりない。主人公のヨハンソンこそ病身の老人らしく、見聞したものにいちいちけちをつけたり、自身の感覚と時代とのずれに驚いてみせたりしないと気が済まない様子なのだが、それを除けば、ほぼ一直線に結末へと向かって進行していく小説と言っていいだろう。その剛直さが魅力なのである。作中の関心は冒頭に掲げた時効の問題にほぼ集中する。読みながら、本書に弱点があるとすればまさにそこだろうと感じていた。というのは、「法で裁けぬ悪を裁く」という主題は自警団的な暴走を招くことになるからである。そうした傾向は1980年代以降のアメリカ・ミステリに顕著で、主人公による私刑が美化された形で描かれる作品が一時期は増加した。思考を放棄した事態の単純化というべきで、手放しに賛美すべきとは思えない。本書においても、果たしてヨハンソンは極端な結論に至ってしまうのか、それとも他の道を選ぶのか、という関心が全体を支配するのである。彼がいよいよ自身の選択を明らかにする第五部こそは、小説の肝というべき個所であろう。
余計な枝葉はない、と書いたが一点だけ本筋とは別に説明しておくべき事柄がある。25年前のヤスミン事件が迷宮入りした一因に、オロフ・パルメ事件があるとされていることである。現代スウェーデン史の汚点というべきこの事件は、1986年2月28日に起きた。スウェーデン首相として二期目を務めていたオロフ・パルメが何者かによって殺害されたのである。パルメは有能な宰相だったが強引なやり方によって敵も作った。また、後に述べる閣僚絡みのスキャンダルもあり、内閣運営は決して順風満帆というわけでもなかった。実行犯とされた人物は逮捕され、裁判で終身刑が宣告されている。しかし控訴審では無罪判決が出ており、以降も事件に関する新情報が出てくるなどして、現在でも全貌が解明されたとは言いがたい。自国の首相が暗殺されるという大事件を司法機関が解決できなかったという事実は、スウェーデン国民の心に大きな傷を残した。
本書においてはヤスミン事件の捜査が不完全だった理由としてパルメ事件に人員の大部分が割かれたことが挙げられる。それだけではなく、パルメ事件によって生じた黒い雲、法による統治に対する不信感とでもいうようなものが、関係者全員の心を覆っているのである。こうした形で虚構に実在の事件を絡める書きぶりに、作者の特質が現れてもいる。
レイフ・GW(Gustav Willy)・ペーションは1945年3月12日、ストックホルムのオスカー地区で生まれた。大工であった父グスタフと母マルギットの間には、他に六歳下の妹マウド(愛称モー)がいる。ストックホルム大学に学び、1980年に博士論文を提出、二年後には同大学の講師に、1991年に国家警察委員会(2015年に現・警察庁に改組)から「警察の手法と諸問題に関する犯罪学」の教授に任命された。その間ずっと学究の徒として専念していたわけではなく、1960年代後半からスウェーデン統計局のコンサルタント、社会省の科学アドバイザーなどの職に就いている。
特に心血を注いだのが1967年から在籍した国家警察委員会での仕事であり、長官であったカール・ペーションの補佐役も務めたことがある。にもかかわらず1977年に彼は解雇処分を受けた。これはパルメ政権の法務大臣を務めていたレンナルト・ゲイヤーがドリス・ホップの経営する売春組織の顧客であるとダーゲンス・ニーヒエテル紙が報道した、いわゆるゲイヤー・スキャンダルが原因である。ペーションは報道に関わったジャーナリスト、ペーター・ブラットの情報提供者とされたのだ。
解雇後にペーションは大学に戻って前述の通り博士号を取得するが、並行して1978年には初の小説Grisfesten を発表する。これは売春宿を経営する検察官が話の中心人物となる警察小説で、ゲイヤー・スキャンダルを逆手にとったような内容だった。この本が売れたことがペーションにとっては追い風となり、1980年には公職復帰を果たす。そしてかつて自分を追放した国家警察委員会にも迎え入れられたのである。以降現在に至るまで作家業と並行して犯罪学研究者としても多忙な日々を送っており、私生活では三度の結婚を経験して、六人の子供(うち二人は継子)と四人の孫を授かっている。
ペーションの作品が邦訳されるのは本書が初めてなので、簡単に作歴を振り返っておきたい。先に述べたGrisfesten と1979年のProfitorerna、そして1982年のSamhallsbararnaにはいずれも、現役時代のヨハンソンとヤーネブリングが登場する。そこからしばらく小説の著作が無いが、犯罪学に関する著作を大量に上梓しているほか、狩猟や料理に関する本も手掛けるなど執筆活動は旺盛に行っている。特に重要なのが映像作品の脚本執筆で、1996年から99年にかけて17本が制作されたのが、アンナ・ホルト刑事の登場するTVシリーズである。『許されざる者』でベテランの検察官として登場する彼女の、若き日の物語だ。
小説家としての活動に話題を戻せば、20年の沈黙を破って2002年に発表したMellansommarens langtan och vinterns kold、2003年のEn annan tid, ett annat liv、2007年のFaller fritt som i en drom の三部作は、ペーションの最も重要な著作である。パルメ暗殺と絡む事件を扱った内容であり、これらの作品でペーションは、現実と虚構を接続させるという、自身の作家としての特質を確立させたのである。
また、ペーションが創造したヨハンソンとヤーネブリングのコンビは大当たりし、1984年の映画Mannen fran Mallorca(Grisfesten が原作。ヨハンソンをトマス・フォン・ブレムセン、ヤーネブリングをスヴェン・ヴォルターが演じた)他、何度も映像作品が制作されている。彼らやアンナ・ホルトと並ぶ第三の人気キャラクターとして登場したのが、エーヴェルト・ベックストレームである。本書をすでに読んだ方はご存じの通り、ヤスミン事件を迷宮入りに追い込んだ張本人として指弾される警察官だが、2005年のLinda - som iLindamordet、2008年のDen som dodar draken、2013年のDen sanna historienom Pinocchios nasa の三長篇では堂々と主役を張っている。チビでデブで怠け者、おまけにひどい差別主義者という最低の男が、なぜか奇跡のように難事件を解決してしまう、というのがこれらの作品の骨子だ。英国作家ジョイス・ポーターの〈ドーヴァー警部〉シリーズ(ハヤカワ・ミステリ文庫他)を思わせる設定である。
以前スウェーデン大使館の広報文化担当官アダム・ベイェ氏と話した際、本国では人気があるのになぜか邦訳されない作品の筆頭としてこのベックストレームものを挙げておられたが、2015年にアメリカではベックストレームのキャラクターを移植したTVシリーズBackstrom が制作され、好評を博している。「クレイジー刑事」の題名で日本でも放送されたので、ご覧になった方も多いのではないだろうか。
こうして振り返ると『許されざる者』という作品の位置づけが見えてくる。第一に本作は、時効を迎えた重大犯罪をいかに裁くべきかという重い主題によって現実に接続する物語である。犯罪学研究者ペーションが自らの専門領域からの問題提起を行った一作なのだ。同時に絶大な人気を誇るキャラクター、ヨハンソンにとっての「白鳥の歌」であり、ペーションが手持ちの登場人物を総出演させて探偵に最後の花道を飾らせたという性格もある。また、それによってデビュー以来の創作活動に区切りをつけ、以降の新しい展開を睨むに至った作者にとっての記念作という意味もあるだろう。
ペーションはスウェーデン推理作家アカデミーの最優秀長篇賞を三度獲得している。1982年のSamhallsbararna(ちなみにこのときが同賞の第一回)、2003年のEn annan tid,ett annat liv、そして『許されざる者』である。さらに本作は「ガラスの鍵」賞も2011年に授与されている。これは国際推理作家協会北欧支部のスカンジナヴィア推理作家協会が毎年決めているもので、北欧圏では最も権威のあるミステリ文学賞である。〈ミレニアム〉シリーズの故スティーグ・ラーソンや〈特捜部Q〉シリーズのユッシ・エーズラ・オールスンなど錚錚たる作家がこの賞を獲得しているが、意外なことにペーションにとってはこれが最初の受賞となった。さらに本作は三話連続のミニ・シリーズとしてドラマ化され、2018年1月に本国で放送されている。ヨハンソン役は過去のTVドラマ版と同様でロルフ・ラスゴード、ヘニング・マンケル原作のドラマではクルト・ヴァランダーを演じた俳優でもある。余談だがこのドラマの冒頭、ホットドッグの屋台の場面にはペーション自身がカメオ出演しているらしいので、ご覧になる機会があればどうぞご確認を。
これまで訳されなかったスウェーデン・ミステリの大物の代表作を、じっくりと楽しんでいただきたい。重い主題を魅力的なキャラクターの活躍によって軽妙に書き上げた娯楽大作である。次に訳されるペーション作品は若き日のヨハンソン&ヤーネブリング・コンビの活躍か、それとも最低最悪の名探偵ベックストレームものか。期待は膨らむばかりだ。
■杉江松恋(すぎえ・まつこい)
1968年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。書評家。書評・評論書の著書に『読み出したら止まらない! 海外ミステリーマストリード100』(日経文芸文庫)、『路地裏の迷宮踏査』(東京創元社)、『スギエ×フジタのマルマル読書』(幻冬舎plus+。藤田香織との共著)など。演芸関係の共著として『桃月庵白酒と落語十三夜』(KADOKAWA。桃月庵白酒との共著)、『“絶滅危惧職”講談師を生きる』(新潮社。神田松之丞との共著)がある。2008年から2011年まで都内公立小学校のPTA会長として活動した経験は『ある日うっかりPTA』(KADOKAWA)として単行本化。その他『バトル・ロワイアル2 鎮魂歌』(太田出版)、『外事警察 その男に騙されるな』(イースト・プレス)などのノヴェライズ多数。
(2018年2月6日)
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