かわいい見世物小屋で会いましょう
交錯し繁茂するイメージの蔓にいつしか搦め取られる、摩訶不思議な物語。
(09年1月刊 キアラン・カーソン『シャムロック・ティー』解説)

桜庭一樹 kazuki SAKURABA

 

 「これは、 いい本だなぁ!」
 と、 読みながら知らず独り言が滑りでた。本書の36ページ辺りに差しかかったところでだ。
 子供の頃から、祖父母がきまぐれに語る昔話にぼんやりと耳をかたむけるのが好きだった。過去とは、どんなに近しい過去の出来事でも、ある種の“家族内の神話”であって、起承転結なんてあまり関係なくって、まるで、作りかけの巨大なキルトを広げたよう。各エピソードは、語り手という糸によって縫いあわされているだけのバラバラの小鬼だった。
 この本を読むのは、そういう経験と似ている。外国で書かれたものなのにとても懐かしい。懐かしいけれども寂しくはなく、ほくそ笑んでるようなちょっと不遜な顔で読んでいける。
 この独特の感覚をとても的確に表現している文章がある。著者キアラン・カーソンの前作『琥珀捕り』(栩木伸明訳、 東京創元社、2004年刊)の訳者あとがきにある「カモノハシの文学」 がそれだ。ちょっと反則ではあるけれどそこを引用してみたい。


 こいつはいったい何の本だろう?
 ページをぱらぱらめくってみると、アルファベット順に並んではいるものの、お互いに関係なさそうな単語が各章のタイトルになっている。フェルメールの絵に関する薀蓄があり、薔薇の品種名が夜会の賓客リストのように延々と読み上げられたかと思うと、いつのまにかアイルランドの怪談がはじまっているというぐあいだから、『琥珀捕り』をはじめて手に取ったあなたが戸惑っておられるのも無理はない。愛嬌だけはありそうだが、このへんてこな本をなんと呼び、どう分類したらいいのだろうか?
 原書が出たとき書評家たちもどうやら困り果てたらしい。しかし、そのなかのひとりがうまいたとえを思いつき、キアラン・カーソンの『琥珀捕り』は「文学においてカモノハシに相当するもの――分類不可能にして興味をひきつけずにおかない驚異――の卵を孵化させた」、と書いている。カモノハシは、獣なのに卵を産み、鴨に似た嘴をもち、趾(あしゆび)には蹼(みずかき)がある原始的な哺乳類とされ、一属一種、独自の進化の道をたどったといわれる動物である。異質なものがさまざまはぎあわされた結果、個々の部分には見覚えがあるけれど全体としては途方もない合成物になっているという点で、この本はカモノハシそっくりである。


 わたしは『琥珀捕り』が刊行されたときに勇んで買い、うわぁ、自分もこんな本を書きたいなぁと長々と夢想した記憶がある。ちょうどその頃、『GOSICK』というミステリーのシリーズを書いていた。その短編集を作る打ち合わせの席にこの本を持っていき、「水時計」「薫製ニシン」「マルメロ」「水の精」などと魅力的なキーワードが躍る目次を見せ、これがかっこいいんだ、わたしもこういう本にしたいんだ、と訴えて、あれこれと説明をした。結局、最初に思い浮かべたイメージを非常に単純化して採用したので、いま二冊を並べて見比べても直接的な影響を拾えるかどうかはわからない。が、ともかく、「花」という共通キーワードを持たせた短編を集めて、琥珀ならぬ“過去の花を摘む”ような一冊にまとめることができた。……と、そんなことがあったのだけれど、東京創元社の誰かにそれを話したことはなかったので、今回、新作の解説にご指名をいただいてちょっとばかり飛びあがってもいる。まるで、キアラン・カーソンの洋風の曼荼羅世界、かわいい見世物小屋に一瞬こっそり顔を出して、こそこそと出てきたところで、旧知の編集者に「あら、奇遇ですね?」と声をかけられたような気持ちだ。

 キアラン・カーソンは1948年、北アイルランド生まれ。ウィスキーと伝統音楽を愛し、詩人、作家、音楽家として旺盛に活動している。子供の頃から、家庭ではゲール語を、外では英語を話し、いまは英語で執筆している。
 アイルランド文学について、詳しい方には蛇足になるけれども、わたしのように「読んではきたけれど成り立ちについてはよく知らない」という読者の方のために簡単な説明をしたい。もともとは口承文学として、ゲール語で語られてきたが、その後、約700年続いたイギリスの植民地支配、1845年からのジャガイモ飢饉での人口減などによって衰退した時期もある。一方では、世界に拡散して浸透したのだとも言える。わたしが大好きなオスカー・ワイルドは、本書にも書かれているようにアイルランド人であり、『ドリアン・グレイの肖像』 はアイルランドの伝承〈取り替え子〉がモチーフになっているという説もある。『吸血鬼ドラキュラ』の著者ブラム・ストーカーもアイルランド人で、じつはルーマニアには一度も行ったことがなく、あのおどろおどろしくも魅力的な舞台はアイルランドのイメージだったという話もある。シャーロック・ホームズの生みの親、コナン・ドイルもアイルランド系なので、ホームズのあの陰鬱で虚無的で“おかしな闇”とでも言える空気の出所もまた、彼の地なのかもしれない(話がすこぅしずれるが、アイルランドで妖精ありきの世界観で生まれ育ち、叔父の職業は妖精画家だったのだと聞くと、例の少女たちの妖精事件にドイルが引っかかったことにも納得できる)。
 生まれた土地を舞台にした、土着的な呪縛の強い作品を通して、作家は世界と接続されることがある。局地的なちいさなお話が、普遍性を得てひろがっていく。アイルランドで生まれ育ち、土地や言語に引っぱられ、古いものから普遍的な作品を生みだそうとする作家たちはいまもいる。著者カーソンもその一人で、かつ突然変異の個性を持つ作家なのだろう。そう思うとこれから彼が産みだすであろう新たな作品にも興味は尽きない。
 本書『シャムロック・ティー』には起承転結という意味でおおきな道筋がひとつついている。それを追っていくと一種のファンタジーSFとしても楽しめる。が、魅力的で野放しの枝葉の部分もまた、いつまでもそこで遊んでいたい、と思わせるほどどれも面白い。まるで、図書館で目当ての本を探している途中で、ふと手に取った本たちに夢中になってしまい、なかなか目的の本にたどり着かないときのような気持ちだ。ことに好きなのが、主人公が図書館で、本筋のキーとなる大事な“黄色本”を手に取る直前に読み始めてしまう本『ペンシルヴァニアのメアリー・レノルズ――ひとつの肉体にふたつの魂』と『アル=ガーザリーの鏡』のエピソードだ。ほかにも、枝葉の部分に、たまたま語られてないだけの無数の物語が眠っていて、情報量の多さと、にも拘わらず著者がすこぅし笑っているような不思議な感覚がやみつきになっていく。個人的には、内田善美の『星の時計のLiddell』を読んだときの衝撃と似ているかもしれない。膨大な知識とセンスと狂気によって、独自の進化をした珍種の文学。動物にたとえると、やっぱり、カモノハシ。カーソンの本は、遙かな古代と近い過去と未来がちいさく神話化されてぎゅうっと詰めこまれた、変な色をした密室のようだ。著者が好き勝手に書いてるのだから、こっちもいろんな動物になって好きに読めばよいのだ。
 読み終わって、あぁ、やっぱりいつかキアラン・カーソンみたいな小説の書き方をしてみたい、と憧れた。あれから、『琥珀捕り』を読んでから、四年半ぐらいが経っているけれど、変わらぬ、淡い吐息をついてしまった。いまは無理でも、願わくばなるべく長生きをして、土地に根ざしたほら話を変な色をしたガスみたいに体内に溜めこみ、ほら吹きの怪しいおばあさんとなって、こういう物語を書き、その頃の、若くて生真面目な本読みたちをア然とさせてみたいものだ。

(2009年2月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。著作は他に『青年のための読書クラブ』『荒野』、エッセイ集『桜庭一樹読書日記』『書店はタイムマシーン 桜庭一樹読書日記』など多数。最新刊は『ファミリーポートレイト』。


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