突然走り出したい。頭に浮かんだ言葉を脈絡なく叫びたい。その他意味不明な言動の衝動に駆られたことはないだろうか。私にはある。もちろん頻繁(ひんぱん)にではないし、そう感じたところで、実行には移さない。自宅に一人でいたらその限りではないが。

 ディックス『マイロ・スレイドにうってつけの秘密』(高山祥子訳 創元推理文庫 1300円+税)の主人公マイロは、この衝動がとても強い。いったん欲求が生じたら、その行動をとらずにはいられなくなる。また、このような奇癖を他人に知られるのがまずいとも感じている。そのためマイロは33歳の今に至るまで、必死に隠し通してきた。妻にも気付かれていないのだから、その徹底ぶりが窺(うかが)われよう。

 そんなマイロが、公園でビデオカメラとテープを拾う。そこには、若い女性が、友人が自分のせいで死んだことを告白する映像が記録されていた。無断で他人の秘密を垣間見たマイロは、人に言えない秘密を抱える同志として、大いに共感してしまう。そして協力すべく、彼女を探し始めるが。

 マイロの人物造形が絶妙である。彼は自分が変人であると自覚している。正体を隠す努力も涙ぐましい。しかしながら、隠し事自体が、負い目や自信のなさにつながって、周囲との十分な意思疎通や相互理解を妨げているところまでは、思いが至っていない。また物事の優先順の付け方にもおかしなところがある。

 ……何が言いたいかというと、マイロは現在、意思疎通の貧弱さが原因で妻を盛大に怒らせて、別居する羽目になり、離婚の瀬戸際にいるのだ。にもかかわらず、彼はビデオに映った見知らぬ女性のために、時間をかなり割(さ)いてしまう。他にやるべきことがあるだろうと私としては思う。ただ、離婚問題から現実逃避したかったんだろうな、という気持ちも痛いほどわかる。辛さに耐えかねての行動ミス、誰しも覚えがあるはずだ。そんな彼を誰が嘲(わら)えようか。

 一方、マイロはいい奴でもある。妻にちゃんと向き合っていない点は非難されて然(しか)るべきだが、ビデオの女性――困り悲しんでいる他人――の役に立ちたいという意思は本物である。また先述の自信のなさは、押しの弱さのみならず、人の好さにもつながっている。ビデオの謎を解くべく訪問する先々で、初対面の人相手に無茶を頼んでも気持ちよく引き受けてもらえることが多いのは、そのせいである。こういった《都合のいい》展開に、それなりの説得力を持たせるのは並大抵のことではないが、この点作者はとても上手(うま)い。

 愛すべき、または憎めない変人。それがマイロのキャラクターであり、彼が巻き起こす騒動と、その顛末(てんまつ)は、意外と人情豊かな展開を示す。マイロにとって嫌なことも起きるし、マイロが他人にとって嫌なことをしでかすこともあるけれど、それも含めて人生である。読後感が爽やかなのは、決して故(ゆえ)なきことではない。元気が欲しい人に、特に強く薦めたい一冊である。

 元気は別に欲しくないから、犯罪捜査をがっつり読ませろ、という人にはエイドリアン・マッキンティ『コールド・コールド・グラウンド』(武藤陽生訳 ハヤカワ文庫HM 1000円+税)を薦めよう。死体が見つかった現場に落ちていた右手は別人のもの、しかも被害者の体内からオペラの楽譜が見つかる、と、殺人の内容は猟奇殺人そのものである。

 だが本書最大の特色は、舞台が1981年の北アイルランドであることだ。地域紛争の最中(さなか)にあって、刑事たちはちゃんと捜査できるのかが、最大の読みどころとなる。しかも主役の刑事ショーン・ダフィはカトリック教徒――現地住民から見れば裏切り者であり、彼と他者のやり取りは、宗教対立や荒れた世相を鋭敏に表徴する。加えて、捜査が曲がりなりにも進展するにつれ、この年代の北アイルランドならではの事情が、猟奇殺人そのものに色濃く影を落としていたことがわかってくるのだ。現代史の影を生々しくあばき出しており、その密度と熱量たるや半端ではない。素晴らしいシリーズの開幕である。

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■酒井貞道(さかい・さだみち)
書評家。1979年兵庫県生まれ。早稲田大学卒。「ミステリマガジン」「本の雑誌」などで書評を担当。

(2018年8月2日)



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