海外ミステリ出張室

2017.05.25

リンク『失踪者』、キャントレル『この世界の下に』…「ミステリーズ!82号」(2017年4月号)書評 酒井貞道[翻訳ミステリ]その1

 奇抜な設定や粗筋(あらすじ)は、読者に本を手に取らせるため――つまりは釣る際の最大最良の餌になり得る。しかし、実際に読む段になると、最重要なのは、設定や粗筋がどう描かれるかだ。シャルロッテ・リンク『失踪者』(創元推理文庫 上下巻各1260円+税)はそのことを痛感させてくれる作品だった。事件の筋立ては、はっきり言えば、よくあるパターンに該当する。少なくとも強いオリジナリティは持っていない。友人の結婚式に向かっている若い女性エレインが、悪天候のためヒースロー空港で足止めを食らってしまう。彼女は、親切な弁護士マークの家に一泊させてもらうことになった。そして翌日から、彼女は失踪する。5年後、エレインを結婚式に招待した元記者ロザンナが、エレイン失踪の謎を再調査し始める。

 このメイン・プロット以外には、一見無関係な、イギリスの女性連続殺人事件が意味ありげに語られる。しかしこれは、その内強く関連してくるんだろうなと容易に予想できるし、事実その通りとなり、取り立てて珍しい仕掛けではない。というわけで、粗筋だけで強く惹かれるミステリ読者は、あまりいないはずだ。

 しかし、いざ読み始めると、ページを繰る手が止まらないのである。理由ははっきりしている。人物設定と心理描写が圧倒的に上手(うま)いからだ。空港に足止めされたエレインは、後天的に重い障害を得た兄を世話して暮らしており、兄に縛り付けられ反抗も逃亡もできずイギリスの片田舎で燻(くすぶ)っていることに鬱屈(うっくつ)している。端的に言って卑屈だ。そんな彼女が、さして親しくなかった友人ロザンナの、ジブラルタルでの結婚式に招待された。それが純粋な友情からのものではなく、結婚という幸福の絶頂にある者が田舎から出られないエレインを哀れんだ、施しであることはエレイン自身にもわかっている。出発前には兄にも、もって回った厭味(いやみ)ったらしい言い方で、そう指摘された。卑屈な思いを抱えつつも楽しみにしていた旅行の機会が、今まさに目の前で、欠航という形で阻害されている。彼女は動揺する。翌日の運航再開を待つべく空港の近くのホテルを探さねばならないのはわかっているが、混乱して動けない。ロザンナたちとは違って、田舎に籠(こも)り、来る日も来る日も同じ毎日を過ごして、世間知らずになってしまったからだ。こういうときに自分で決断して自分で動けない。情けない。情けない。情けない――。

 エレインは空港で涙を流し、そこでマークに声をかけられるのである。ページ数にしてわずか十数ページで、エレインのキャラクターと行動原理が手に取るようにわかるのだ。しかも、彼女の感じる焦燥(しょうそう)は迫真性に満ちている。ただ単に飛行機が欠航しただけなのに、《手に汗握る》ものを読者に感じさせるのである。

 この特色は、5年後に舞台が飛んで、ロザンナによる調査が始まって以降も同様だ。ロザンナ、夫デニス、そして夫の連れ子ロバートの3人の家庭は、主に夫の「思い通りにならないと不機嫌になる」性格により破綻(はたん)の危機に瀕している。ロンドンでの仕事は、そこからの逃避または息抜きであり、ロザンナ自身後ろ暗さを感じている。そして妻/継母が去ることを予感するロバートとデニスの焦燥感も、微に入り細を穿(うが)ち、万全に描写されるのだ。

 ロンドンでも、エレインの兄の根無し草っぷりとそこに自身が感じている不安や、親切心を発揮してしまったがゆえにエレインを殺したとマスコミ等に疑われ、家庭も仕事も崩壊した弁護士マークの誇りと後悔が綯(な)い交ぜになった状態など、とにかく読ませる。しかも、空港でパニくっていたエレインとは異なり、失踪発生から5年後の本篇部分で活躍するロザンナをはじめとした主要登場人物は、700ページを超える長丁場の中で、様々な状況と千変万化する展開に、様々に反応する。それもまた精度と鮮度が素晴らしく高い。あらゆるシーンに緊迫感もしくは吸引力がある、なんて小説愛好家の夢だが、『失踪者』 は、書き方でその夢をほとんど実現した傑作だ。

 この書き方の嬉しい副産物として、登場人物にとってのサプライズが、読者にとってのサプライズにもつながりやすいことを挙げておきたい。読者各位が失踪事件の真相それ自体に驚くか否かは保証の限りではない。しかし、登場人物がなぜそれに驚いたかは、痛いほど理解できるはずだ。

 そんな『失踪者』とは逆に、設定であらかた勝負を決めてくるタイプの作品も存在する。レベッカ・キャントレル『この世界の下に』(小桑みお訳 マグノリアブックス 829円+税)はその典型だ。ソフトウェア開発で富を得た主人公の億万長者ジョー・テスラは、ある出来事によって広場恐怖症となり、屋外に出られない。彼は、ニューヨークの地下構造物を自由に行き来できる権利と、地下に建てられた大邸宅を獲得し、地下とそこに繋がる建物の中で暮らしている。ある日、地下鉄の線路沿いで愛犬と散歩していたジョーは、そこで不審な男を見つけ、大陰謀に巻き込まれていく。

 広場恐怖症という形で、主人公の行動に制約をかけ、サスペンスを強めるのは作劇法として上手い。それ以上に本書を特徴づけるのは、やはり設定の法螺(ほら)とケレンだ。陰謀は第2次世界大戦まで遡(さかのぼ)り、ニューヨークの地下世界は広大で誰も詳細を把握しておらず、ジョーはニコラ・テスラの子孫、凄腕の殺し屋が登場するなど、法螺とケレンがたっぷり詰まっている。正直B級の作品である。だがこれはいいB級だ。ジョーが広場恐怖症になった原因に隠された陰謀を扱うらしい続篇にも期待がかかる。

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■酒井貞道(さかい・さだみち)
書評家。1979年兵庫県生まれ。早稲田大学卒。「ミステリマガジン」「本の雑誌」などで書評を担当。

(2017年5月25日)



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