海外ミステリ出張室

2014.04.07

イタリア発、歴史エンターテインメント超大作、ルーサー・ブリセット『Q』あとがき(全文)[2014年4月]

さとうななこ nanako SATO


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 一九九九年三月。本国イタリアでこの小説が世に出た時、巷にはたくさんの「?」が飛び交った。著者のルーサー・ブリセットって誰? 英語名だけど翻訳モノなの? アンチ・コピーライト小説って何? 好奇心が人々に本を買わせ、その内容のおもしろさが話題になって読書好きが飛びつき、果ては「これぞイタリア文芸の新しいスタイルだ!」と、この小説で卒論を書く大学生まで現れて、国内での販売部数は二十四万部を突破。ヨーロッパ各国民の読書量の番付ではいつも最下位近くに甘んじるイタリアで、それは異例のことだった。
 というわけで、このたびこの作品をご紹介するにあたって、まずは著者名の解説から始めたい。  小説刊行から遡って一九九四年、イタリアのアーティストや活動家や悪戯好きが集まり、ひとつのプロジェクトを起動させた。誰でも自由に参加できて、決まりごとはたったひとつだけ。各人が作ったものをルーサー・ブリセットの名前で発表すること、だ。ルーサー・ブリセットは、一九八十年代に英国にいたまったく無名のサッカー選手で、その名を使うことで彼らは、作者名によって作品の価値が決まるという昨今の商業主義的な傾向や、うわべばかりで実のないマス・メディアのありようを笑い飛ばしつつ批判したのだった。やがて主旨に賛同する人々の輪は各国へ広がって参加者は百名を超え、そして当初の予定通り、五年後にプロジェクトは幕を閉じる。その締めくくりとして発表されたのがこの小説だ。刊行当時、著者の実名が明かされなかったのはもちろんだが、実は本著にはもうひとつ、反商業主義という主旨から生まれた特徴がある。これは大手出版社からの出版物では初のアンチ・コピーライト小説で、公式ウェブサイト上で原書の全編を無料で読めてしまうのだ。また本作品は、イタリア最高の文芸賞であるストレーガ賞にノミネートされたが、最終選考まで残った時点で著者側が辞退を表明した。このエピソードからも、徹底して権威的なものに抗おうという著者の姿勢が窺える。
 さて、そんな著者の正体は? 答えは後に公表された。ボローニャ在住の四人のイタリア人だ。この小説は四人の共著だったのだ。彼らは、全員で二年間に亘るリサーチをして、持ち場を決めて全員が執筆し、全員で推敲をして、この長大で複雑な作品を編み上げた。この事実が公表されて、さらに興味深かったのは、彼らの拠点がボローニャだということだ。  
 ボローニャは、ミラノとフィレンツェの間、エミリア=ロマーニャ州の州都で、欧州最古の大学であるボローニャ大学を有する学生の街、パスタのボロネーゼソースやボローニャ・ソーセージといった料理や特産品がある美食の街として知られている。けれどもこの街にはもうひとつ、他にはない貴重な特産品がある。「ボローニャ方式」と呼ばれる街づくりシステムだ。自分と家族や友人が生涯暮らす場所を居心地のよいものにしたいという、ごく当たり前の発想からスタートして、ここでは文化による街の再生が盛んに行われている。端的に言えば、古いものを大切に保存してそれを新しい目的のために最大限に活用する。想像力と企画力と意欲さえあれば誰でも何でもできる。それがボローニャ方式の流儀で、そのために自治体や社会的組合が資金を出す。例えば、元王立の煙草工場を、建物はそのままに内部だけを大改造して、映画の修復と保存と普及のための一大複合施設にするなど、内容はごく具体的で地に足がついたものだ。結果、人口約三十八万のこの自治体には、七十以上の図書館と、四十を超える美術館や博物館ができ、映画館数では国内で第二位。想像するに、資料集めやリサーチをするのにまさにもってこいの環境だろう。また、無名だった著者たちが新たな試み満載の話題作を生み出せたのも、そんな環境に育まれたおかげという気がしてならない。
 また、歴史的な面からこの街を眺めると、ボローニャは、第二次世界大戦時、パルチザンによるレジスタンス戦の激戦地だった。ナチス親衛隊とファシスト軍から我が町を取り戻そうと、多くの住民が武器をとり亡くなった。さらに、戦後長きに亘って「左派の牙城」の異名をとってきたボローニャは、一九八〇年、国内史上最悪のテロの舞台にもなった。つまり、この小説に描かれている時の権力との戦いや、権力間の抗争は、時代や場所は違えど、著者たちの身近でも実際にあったことだった。

 前置きが長くなったが、このあたりで内容にも少し触れさせていただこう。本編は三部構成で、舞台は十六世紀の欧州。ローマカトリック教会の腐敗が進み、巨大権力の横暴に対する不満と拠り所を失った不安が民衆の間に広まっていた時代だ。そして物語は、日本でもおなじみのマルティン・ルターが宗教改革の幕を開けるところから始まる。全編を通じて史実がベースになっていて、大半の登場人物は実在だが、これはいわゆる歴史小説ではない。著者はその欧州きっての激動期の歴史に、「多くの名前を持つが最後まで実名のわからない主人公」と「最後まで素姓が明かされないQ」というふたりの架空の人物を大胆に差し入れ、あたかもこのふたりのせいでヨーロッパの歴史が変わったかのような、壮大な嘘っぱち、見事なフィクションを練り上げたのである。  第一部の舞台は、宗教改革と農民戦争の渦中にあったドイツ全域。どちらも歴史的な大事件だが、背景には、当時の権力者たちの複雑な勢力争いがあった。堕落しつつも巨大な権力を保ち続ける教皇とローマカトリック教会。そこからの訣別を宣言するルターと、巨大権力からの自立という目的のために彼を支持するドイツ領邦の諸侯。対して、ドイツ、スペイン、イタリア南部まで広範囲に及ぶ神聖ローマ帝国の皇帝カール五世は、崩れ始めた帝国を立て直すために、カトリックの擁護者を名のり、離散しそうなドイツの諸侯たちをなんとかまたひとつにまとめたい。さらに、カール五世と敵対するフランス王がいて、海の向こうから神聖ローマ帝国の領土を狙うオスマン帝国の皇帝がいる。すべての思惑が絡み合い、誰もが誰もを出し抜こうとするなかで、民衆は忘れ去られ、ただ搾取の対象となっていた。それに怒ったのがトマス・ミュンツァーだ。彼は農民や炭鉱夫を従えて、一時的に手を結んだカトリックとルター派に闘いを挑む。そしてこの小説では、そんな彼の隣に主人公の姿がある。
 第二部の主な舞台は、再洗礼派の反乱で占領されたドイツの都市ミュンスターとアントウェルペン(現ベルギーのアントワープ)。再洗礼派は、新生児への洗礼を否定する一派で、ローマカトリック教会からは完全な異端と見なされていた。その再洗礼派が、ミュンスターからカトリックの司教領主を追い出し、ルター派の名望家たちを駆逐して、虐げられた平民たちと共に町を占拠。けれども当然ながら、追い出された両勢力は町をぐるりと取り囲んで包囲戦を仕掛ける。これもまた歴史的に実際にあった事件だ。そして、農民戦争で敗れてすべてを失った主人公は、ここでまたしても二大勢力を相手に、再洗礼派の隊長として闘うことになる。
 第三部に入って、舞台はようやくイタリアへ。ただ、当時は教皇領、ナポリ王国、フェラーラ公国というように小国が分立していて、そのひとつ、ヴェネツィア共和国を中心に物語は進んでいく。当時のヴェネツィアは、新大陸発見のせいで盛んだった海運業は低迷、オスマン帝国との勢力圏争いもあって国力は衰えてはいたが、ローマカトリックからの完全な自立を唱え、ローマからの干渉を一切受け入れないという頑固な国だった。信教の自由が貫かれていたおかげで世界各地の人々が集まり、そこには他国を追われた改宗ユダヤ人も含まれた。改宗ユダヤ人とは、迫害や追放を免れるために、進んで、あるいはやむなくローマ・カトリックに改宗した人たちのことだ。そんなヴェネツィアへ、ミュンスターで再び敗れて地獄を味わい、アントウェルペンで傷を癒すもまた追われる身となった主人公がやってくる。彼はそこで、大銀行家である改宗ユダヤ人の富豪一家と、書物や思想が制約なしに自由に広まることを理想とする本屋と共に、ローマカトリック教会が異端と決めた禁書を刷って広めるという出版事業に関わることになる。剣を捨てた主人公だが、ここでもまた別なかたちで、カトリック相手に闘いに挑むわけだ。
 そんな具合に舞台はめまぐるしく移動し、登場人物は入れ替わるが、全編に一貫して通じることがひとつある。主人公は、常に浮かばれない民衆と共に、巨大な権力と闘って、そして必ず負けるのだ。立ち上がって、闘って、負けて、追われて、逃げて、また闘う。敵は、幽霊のように実体は見えないながら巨大で、それでも闘わずにはいられない状況が目の前にあれば、彼は立ち上がって、闘って、負けて、追われて、逃げて、そしてまた闘うのである。この主人公は名前を持たないが、それを、この物語を読む人もまた誰もが主人公のようになりうる、いやむしろ「主人公のようにあれ!」というメッセージと読むのは深読みが過ぎるだろうか。けれども、巨大な権力が下々の者たちに不条理を強いるのは、なにも十六世紀の欧州に限ったことではない。現在のイタリアにも、そして日本にも、同じような構図は山ほどあるのだから。
 なお、著者たちはその後も共著で執筆を続けていて、十年後に続編『ALTAI(アルタイ)』を発表した。もっとも本編の物語は本編で完結している。
(2014年4月7日)


■ さとうななこ
新潟県出身。武蔵大学人文学部卒業。日伊の翻訳・通訳者。訳書に『いたずらルポロッソのできるできる』(2006年、グラフ社)がある。東京都在住。



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