海外ミステリ出張室

2012.11.05

夏来健次/ウィリアム・ピーター・ブラッティ『ディミター』解説(全文)[2012年11月]

(2012年10月刊『ディミター』解説[全文])

夏来健次 kenji NATSUKI


 驚いた。あまりにも有名なオカルト・ホラー小説の一大傑作『エクソシスト』の作者ウィリアム・ピーター・ブラッティが、こんな新作を書いていたとは!

 一九七〇年代、近代世界で稀(まれ)に見る厳しい鎖国政策と宗教弾圧の嵐が吹き荒れていた東欧の異端国家アルバニアで、一人の謎の男がスパイ容疑で官憲に拘禁され激しい拷問を受けるが、男は頑(がん)として正体を明かさず、挙句に強烈な印象を当局に与えたまま逃亡する。やがて舞台は一転して世界の宗教の中心地エルサレムへと移り、一見発端とかかわりのない数々の不可解な出来事が語られ、ついには殺人事件までが……と、ごく粗い筋立てのみを紹介しただけでは、漠然としすぎているといわれるだろうが、ここではやはりその程度にとどめておいたほうがいいと思われる。それほどにこれは予断なく読み進められるべき物語だからだ。それはこの小説『ディミター』がいわゆるミステリー(=推理小説、探偵小説、謎解き小説、等々なんと呼んでもいいが)のジャンルに入れるのがふさわしいもの、あるいは少なくとも前作に比べてその傾向がより際立って見える作品であることを意味する。ストーリーは先へ進むにしたがってますます謎の錯綜する読めない方向へ展開していき、クライマックスにいたって驚くべき真相と結末を迎えることになる。
 初めに記したとおり、ブラッティの代表作といえばなんといっても「ホラー史の流れを変え」「ホラーというジャンルそのものを広げる起爆剤の役割をも果たした」といわれる不朽の名作『エクソシスト』だ。その邦訳版(宇野利泰訳)は、一九九九年より創元推理文庫に編入され(文頭の引用はともに笹川吉晴氏による同書「解説」より)、以来今にいたるまで読み継がれ版を重ねている。今般本書『ディミター』が同じ版元から刊行されるのはその縁によるところが大きいが、しかしそこに綴られている物語は、前著とは大きく様相を異にしている。
 もちろんわれわれは『エクソシスト』でも〈真相と結末〉に大いに驚愕させられはしたが、この『ディミター』でのそれは質がちがっているのだ。冒頭で「驚いた」と書いたのはそのことで、つまり小説の内容自体への驚きと、『エクソシスト』とはイメージの大きくちがう小説だったということへの驚きとが重なっている。そして前者のほうの驚きというのが、よく練られた推理小説を読み終えたときに得られるカタルシスの質に似ているのだ。
 ところがここで興味深いことがわかってきた。それはほかでもない映画『エクソシスト』の監督であるウィリアム・フリードキンのブログにおいてのことだ。フリードキンは長年の友人の新作小説『ディミター』の刊行に際して作者にインタビューしているのだが、そのなかでブラッティは、本作を書きはじめたのはなんと『エクソシスト』撮影中のことで、それもフリードキンのオフィスを訪れたときたまたま読んだ『ニューヨーク・タイムズ』紙で、アルバニアのあるカトリック僧が軍により不当に処刑されたという記事を見て想を得たとうちあけているのだ。だが書きかけたものの途中までしか進められず、以後近年まで三十数年ものあいだ懸案としつづけてきたという。これが事実なら、小説『エクソシスト』が大当たりし自らの制作で映画化にまで乗りだしていた時点で、そのベストセラー書とは大きく異なっている新作、つまりこの『ディミター』の構想が、すでに作家の心の半ばをひそかに占めていたことになる!
『エクソシスト』では小説ばかりでなく映画が輪をかけて大ヒットしたために、原作者ブラッティは幸か不幸かホラー作家・オカルト作家というイメージでのみ見られがちだ(それは決して誤りというわけではない)。しかし当の小説『エクソシスト』を、あえて映画から切り離して虚心に読み返してみると(なかなかむずかしいことではあるが)、じつはそこにすでに推理小説的方向への作者の関心の高さが表われていたことに気づかされる。たとえば、少女リーガンの悪霊祓いを描いたクライマックスにいたる前の中盤――小説の構成上ではある意味いちばん重要なパートともいえる――において作者がもっぱら力をこめて書いているのは、ヒロインの友人デニングズの変死をめぐってキンダーマン警部補が捜査を進める過程だ。ところが映画版においては、フリードキン監督の方針によってその過程がほとんど省(はぶ)かれてしまっている。そのために、われわれは仮に原作を読んでいたとしても、映画の印象があまりに勝ちすぎているせいで、あのストーリーにそんな側面があったことすら念頭からスッポリ抜け落ちてしまうことになる。原作者兼脚本担当者兼プロデューサーだったブラッティと監督フリードキンとの確執を追った力作ノンフィクション『バトル・オブ・エクソシスト――悪夢の25年間』(マーク・カーモード著 上岡雅史訳 河出書房新社)によれば、ブラッティが最初に書いた脚本の段階ではその部分がまだたしかに存在していたのに、フリードキンの「不必要に凝りまくっただけのもの」という却下のひと声によって文字どおりバッサリと切り捨てられたのだという。
 では原作小説においても、フリードキンがいうようにその部分は無駄なものでしかないのかといえば、まったくそんなことはない――というよりも、不必要だなどとんでもない話だ。そもそもあの小説は、デニングズの変死事件のみならず、少女リーガンを含むマックニール家の内情、カラス神父と母親の葛藤、さらには病院や教会の動向などのリアリスティックな描写も加わり、書きこめられたあらゆる要素が重層的に組み合わせられてこそ成り立っているのであって、「お化け屋敷ではお化けだけ見せればよくて、それ以外のススキや提灯(ちようちん)は邪魔っけでしかない」といわんばかりのフリードキンの考え方は、原作小説の本来の姿を損なうものだといわねばならない(とはいえおそらく本当はフリードキン自身そんなことは内心百も承知していたはずで、だからこそかつてない映像美と迫力を持つ映画を創りあげることができたのであり、彼の表面上の強硬なやり方は天才肌の商業映画監督としての自負からくるものにすぎないと想像されるが)。
 その面での齟齬があったために、ブラッティとフリードキンはともにくだんの映画によって大成功を収めたにもかかわらず――あるいはともにおたがいを偉大な才能として尊敬しあう親友でありつづけたにもかかわらず――その後も長年にわたって削除問題などをめぐり対立していくことになった(そのへんの経緯は前述の『バトル・オブ・エクソシスト』に詳しい)。
 そんな事情のなかで、ブラッティは『エクソシスト』の続編にあたる自作小説Legion(一九八三)を自ら監督して映画『エクソシスト3』(一九九〇)を撮るが、それはキンダーマン警部補が謎めいた殺人事件を捜査しその深い闇に呑みこまれていくという話で、あたかも『エクソシスト』のときにフリードキンから否定された推理小説的趣向を意趣返しとばかりに蘇らせようとするかのようなドラマに仕立てられていた。またそれより十年遡る一九八〇年にもやはり自作の長編The Ninth Configuration(一九七八)を同タイトルの映画(日本未公開だが『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』としてDVD化されている。この邦題は原作小説の旧タイトルTwinkle, Twinkle, “Killer” Kaneに基づく)にしていて、そちらはいわゆる超自然的要素の出てこない話だが、古城の精神病院を舞台とする錯綜した群像劇に意外性のある真相を加えたこれまた一種推理小説的な感興をそそる作になっている。さらに一九九九年には中編ながらElsewhereという異色の〈幽霊屋敷小説〉を発表し、怪談でありながらまたしても多分にミステリー風のツイストを利かせた話にしあげている――ちなみにその邦訳は「別天地館(エルスウエア)」のタイトルで、三分冊の書き下ろしホラー傑作集『999』(アル・サラントニオ編 創元推理文庫)のうちの『狂犬の夏』に収録されており、不肖解説子が訳を担当した(今回本稿を書かせてもらえたのはその縁による)。
 今般上記のLegionを初めて原書で読んでみたが(The Ninth Configurationのほうはすでに入手難で諦めた)、インターネット上での情報においてそれら二作と『エクソシスト』が併せて〈信仰の神秘〉(=Mystery of Faith)三部作と称されているとおり、たしかに信仰と救済にかかわる〈神秘〉を中心のテーマにしていることがうかがわれた。それは『エクソシスト』のときと同様に作家が深く帰依(きえ)してきたカトリックの精神世界に根ざしたものであるのはまちがいないが、とくにこのLegionにおいては、宗教的神秘をある種の推理小説的な〈謎〉と呼びうるものに変換して語ることをより意識的にやっていた。とすれば、それ以前からすでにずっと胸に秘めていた本作『ディミター』を、より深い〈謎〉に満ちた小説にしてやろうと考えることは、作者にとってはごく自然な流れだったのではないか。
 人種の坩堝(るつぼ)ニューヨークで生まれたブラッティは、レバノン移民で敬虔なイエズス会信徒だった両親を持ち、自然にカトリックを信仰して、青年期はイエズス会系のジョージタウン大学に学んだ(ワシントンDCにあるこの大学は『エクソシスト』の重要な舞台のひとつとなっている)。小説と映画の世界で功成り名遂げたブラッティは、世界的にも当代のその会派を代表する言論人といえるだろう。このイエズス会という組織、かつてはカトリックのために戦う軍隊といっていい武闘派集団で、しかも開祖イグナティウスの神秘体験を錦(にしき)の御旗として全世界的な布教と教育に乗りだすなど、歴史上果敢な活動を展開しつづけ、場合によっては神秘主義の一翼と見なされることさえあるから、現代での同会の有力な知識人の一人であるブラッティが、信仰における〈神秘〉の問題に人一倍深く魅せられてきたのもまた自然なことだったろう。そういう宗教上の関心が創作に際して〈恐怖〉という方向へ向かうにせよ、あるいは〈謎〉というベクトルを選ぶにせよ、彼自身にとっては同等に価値のあることだった。つまり前者に傾いてホラー小説となったものが『エクソシスト』であり、後者を前面に出した作が今般の『ディミター』だったのだ。
 思えば恐怖小説と謎解き小説とは、それぞれ非合理と合理を代表する分野ゆえに対立するかのように見えながら、実際にはなぜか古今東西むしろ親和性が高く、推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーはもとより、わが国の江戸川乱歩・夢野久作・横溝正史もいわずもがな、現代の担(にな)い手たる綾辻行人や京極夏彦にいたるまで、一見矛盾するかのようなふたつの方向性をバランスよく共存させている――あるいは並立させることによって双方の到達点をより高めてすらいる――例は枚挙にいとまがない。わがブラッティも老境にいたって、〈神秘〉の表現をミステリーの〈謎〉によって成し遂げることにふたたび強く惹かれたのではないか(この作品を発表した二〇一〇年、作者は齢八十二を数えていた!)。あるいはまた一部情報によれば二〇〇六年に三男が十九歳の若さで先立ったとのことで、私生活での悲しみがこの作品の神秘性に一層の深みを与えたかもしれない(本書劈頭〈へきとう〉の献辞「ピートの思い出に」は亡子に捧げる意味を持つ)。いずれにせよ本作の完成度はきわめて高く、現出された世界観が持つ迷宮のごとき展望はかのホルヘ・ルイス・ボルヘスを思わせもする(ボルヘスもまたホラーとミステリーに均しく魅せられた才人の一人だった)。紡ぎだされた数々の謎は、上質な推理小説の例に洩れず、終章において解き明かされることによってこそ驚くべき〈神秘〉を出現させるが、読者にはどうかエピローグにいたるまで油断なく読みきっていただきたい。そこに生みだされる嫋々(じようじよう)たる余韻にひたるとき、この老作家がやはりまぎれもない稀有(けう)の才能であることを再確認できるだろう。そしてもし『エクソシスト』未読の人が本書を通じて興味を持たれたなら、そちらも是非手にとってみてほしい。


    ウィリアム・ピーター・ブラッティ略年譜

一九二八 ニューヨークにて建築業者の父ピーターと母メアリのあいだに生まれる。
     ウィリアム三歳のころ父が出奔し、以後母が五人の子供を育てる。
一九五〇 ジョージタウン大学卒業、ジョージ・ワシントン大学大学院に進む。
     この年二度の結婚/離婚。
五〇年代 空軍心理作戦司令部奉職後、海外情報局入局、一時レバノン派遣。
     ロヨラ大学、南カリフォルニア大学などで事務職を経験。
一九六〇 エッセイWhich Way to Mecca, Jack?刊行(未訳)。
一九六三 ユーモア小説John Goldfarb, Please Come Home刊行(未訳)。
一九六四 映画『暗闇でドッキリ』の脚本担当。
一九六五 ユーモア小説I, Billy Shakespeare刊行(未訳)。
     映画『地上最大の脱出作戦』脚本。
一九七一 小説『エクソシスト』刊行。
一九七三 映画『エクソシスト』アメリカ公開、同書日本版刊行(新潮社版)。
一九七四 同映画、日本公開。
一九七五 三度目の結婚/離婚。
一九七八 小説The Ninth Configuration刊行(未訳)。
一九八〇 The Ninth Configuration映画化、脚本・監督。
一九八三 小説Legion刊行(未訳)。この年四度目の結婚。
一九九〇 Legion映画化(『エクソシスト3』)、制作・脚本・監督。
一九九六 小説Demons Five, Exorcists Nothing: A Fable刊行(未訳)。
一九九九 中編Elsewhere発表(邦訳「別天地館(エルスウェア)」)。
     同年、『エクソシスト』日本版、創元推理文庫に編入。
二〇〇六 三男死去。
二〇一〇 Dimiter刊行(本書)。※一部諸国ではThe Redemptionとして。
     同年、ユーモア小説Crazy刊行(未訳)。
二〇一二 母校ジョージタウン大学の中絶容認に反対声明発表。八十四歳。

最後に余談だが、フリードキンが本作の映画化に興味を示しているとの噂が一部にある。実現すればおもしろいことになりそうだが、はたして……?

(2012年11月)



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