海外ミステリ出張室

2017.01.06

石井千湖/ダフネ・デュ・モーリア『人形』解説[全文]

石井千湖 chiko Ishii



 ダフネ・デュ・モーリアの日記によれば、「人形」を執筆したのは一九二八年。彼女が二十一歳のときだったらしい。作家としてデビューしたのは一九三一年だから、まだ何者でもなかったころの作品だ。本書は近年になって発見された「人形」を含む十四編を収めた初期短編集。栴檀は双葉より芳しといおうか、若書きでもデュ・モーリアはデュ・モーリアだと思わされる。 なんといっても「人形」には、レベッカという魔性の女が登場するのだ。ヒッチコックによって映像化された代表作『レベッカ』の主人公の夫の先妻で、死してもなおマンダレーと呼ばれる屋敷を支配する人と同じ名前。ただし「人形」のレベッカはマンダレーの女主人ではなく、ハンガリー出身のバイオリン奏者だ。彼女に恋をした“僕”は、

 レベッカ―― レベッカ、あの浅黒い真剣な顔、聖人を思わせる狂信的な大きな目、象牙のような尖った白い歯の潜む小さな口、そして、黒く輝き、荒れ狂う、手に負えない髪の光輪―― そう、あれ以上、美しい人はいまだかつていなかった。誰がきみの心を見抜くだろう? 誰がきみの考えを見抜くだろうか?

 と語る。映画になったレベッカも黒髪の美女だ。見抜き難い心に〈輝きはするが、自らを燃やすことのない火花、他の炎を煽る炎〉を隠しているというくだりにも共通点を感じて比べてみたくなる。
 どちらのレベッカが恐ろしいかといえば、マンダレーのほうに軍配が上がるだろう。主人公はレベッカに会ったことがなく、周囲の人々の証言や遺された物をもとに想像するしかないからこそ、どこまでもつかみどころがなく、不穏な人物像ができあがる。「人形」のレベッカのキャラクターはもっとわかりやすく奇抜でグロテスクだ。しかし書かれた当時よりも今のほうがリアルに受け取られそうなところが面白い。

「人形」の他にも、本書には『レベッカ』につながる話がある。「幸福の谷」だ。作中に出てくる谷は、『レベッカ』のマキシムがマンダレーにやってきたばかりの新妻(わたし)と一緒に散歩する〈幸せの谷〉とそっくりなのだ。茅野美ど里訳の『レベッカ』(新潮文庫)で、幸せの谷はこんなふうに描かれている。

 辺りには目くるめくような甘い匂いが立ちこめていた。小川の流れとアザレアのエッセンスが溶け合い、雨滴と足元の湿っぽい苔の絨毯とが渾然一体となっているかのようだ。小川のせせらぎと静かな雨音しか聞こえない。
「〈幸せの谷〉と呼んでいるんだ」
 口を開いたマキシムも、辺りの静けさを破りたくないのだろう、そっとやさしい声だった。

 短編の「幸福の谷」は、〈あなたはぼうっとしている。いつだってぼうっとしている〉と言われる「彼女」の夢に繰り返しあらわれる場所の話だ。

 それは複雑に入り組んだ、草深い道で、まわりには灌木しかなく、シャクナゲやツツジやアジサイが両側から触手を伸ばし、彼女を閉じこめようとする。やがて、谷の底に至ると、下生えのなかに開けた箇所があり、苔の絨毯とのどかに流れる小川がある。

 苔の絨毯と小川があるふたつの谷にはモデルがある。コーンウォール地方の林の奥、メナビリーという空き家があった場所だ。訳者の茅野美ど里氏によると、『レベッカ』はメナビリーの持ち主にまつわる噂から着想されたのだという。
 のちにその場所に移り住んだ作者の思い入れを反映しているのだろう。『レベッカ』において幸せの谷があるマンダレーは、失われたあとも語り手の“わたし”の心を囚え続ける。「幸福の谷」の谷も現実に居場所を見出だせず、放心しがちな主人公にとって、愛する夫とも共有できない聖域になっているのだ。
 千街晶之氏による『鳥』(創元推理文庫)の解説をはじめとして、デュ・モーリアの経歴を紹介した文章を読むと、都会の華やかな芸術家一家に生まれた彼女が人づきあいを苦手としていたことがわかる。誰もいない谷底にひっそり佇む空き家の光景を微に入り細に入り想像することは、彼女の孤独な魂を解放したにちがいない。生き生きとした荒れ地や廃墟の描写に魅入られてしまう。

 社交は得意ではないが、デュ・モーリアは人間に興味を抱いていた。しかもアッパー・ミドル・クラスの自分とは異質の他者に。「英語青年」二〇〇八年五月号に掲載された新井潤美の「『お嬢様作家』としてのデュ・モーリア」という小論は、マーガレット・フォスターによる伝記など、日本語訳のない資料をもとに、彼女の階級意識に迫っている。デュ・モーリアは自分の家の使用人ととても仲がよく、彼らの生活に好奇心をあらわにしていたのだそうだ。
 本書に収録されている「ピカデリー」では、メイジーという女性がメイドから娼婦になるまでの半生を告白する。普通の女の子を失望へと導く〈お告げ〉は残酷だ。別の「メイジー」という短編でも、彼女の行き止まりの日常が切り取られる。
 不運でもどこかで神を信じているメイジーと対照的なのは「いざ、父なる神に」「天使ら、大天使らとともに」に登場する俗物牧師、ジェイムズ・ホラウェイだ。彼は五十代にしては若々しい外見と軽妙なトーク術で裕福な信徒を集めている。上流階級の人々の相談には親身になるが、助けても得にならない人たちは無視。潔いほど利己的な男だ。身分違いの恋をした娘を死に追いやっても、貧しい人に公平な副牧師を蹴落としても全く罪悪感を抱かない。好きにはなれないが、記憶には残る。欠陥のある人物を描くときに、デュ・モーリアの筆は冴える。
 本書の中で最も近寄りたくないのは、「笠貝」の語り手“わたし”だろう。彼女は岩にしがみつく笠貝のように誰かに粘着し、その人生を操ろうとする。本人は善意のつもりで、相手に歓迎されていると思い込んでいるから、遠回しな拒絶には気づかない。しがみつかれた人は疲弊して逃亡する。この短編は以前「あおがい」というタイトルで訳されている(早川書房の異色作家短編集シリーズ『破局』に収録)。旧訳の乾いた語り口もいいが、新訳の“ですます”調は“わたし”の話の通じなさをさらに際立たせていて効果的だ。

「性格の不一致」「満たされぬ欲求」「飼い猫」「痛みはいつか消える」「ウィークエンド」「そして手紙は冷たくなった」は、さまざまなスタイルで人間のわかりあえなさを描きだす。愛し合う男女でも、親しい友人でも、血の繋がった家族でも、相手の感情を正確に読み取ることはできず、言葉は噛み合わず、お互いに対する期待は裏切られる。それでも読む歓びを味わえるのは、幻滅のスパイラルがスリルやユーモアを生みだしているから。特に「満たされぬ欲求」は、新婚旅行に出かけるカップルが愚かすぎて愛らしくもある。
 デュ・モーリアは、心のなかに他人の正体を目にして喜ぶ悪魔を棲みつかせている作家だ。でも意地悪なだけではない。
 例えばある島の秩序が異文化との接触によって崩壊する「東風」に、こんな文章がある。

 彼らの暮らしが激しい感情、激しい悲しみに揺さぶられることはなく、彼らの欲望は一度も燃え上がらずに魂のなかに囚われたままだった。彼らは手さぐりで暗闇を進むことに満足し、その闇の外にあるものは決して求めず、子供のように盲目に幸せに生きていた。心の奥の何かが、無知にこそ安全があるのだ、と彼らに告げていた。

 無垢や安全を失っても、闇の外にあるものを見てみたい。デュ・モーリアの小説は、そんな人間の昏い欲求に応えてくれるのだ。



■ 石井千湖(いしい・ちこ)
1973年佐賀県生まれ。早稲田大学第一文学部史学科美術史専修卒業。書店員を経て、2004年よりライターになる。現在、書評やインタビューを中心に活動中。執筆媒体は「読売新聞」「週刊金曜日」「週刊文春」「日経ウーマン」「DRESS」「小説新潮」「ジェイ・ノベル」「ドリームナビ」など。





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