マルセイユはフランスのなかでも、とりわけ古い歴史を持つ町だ。なにしろその起源は紀元前600年、古代ギリシャのフォカイヤ人が築いた植民都市マッシリアに遡(さかのぼ)る。地中海交易の玄関口として栄え、現在でもパリに次いでフランス第二の人口を誇る大都市だが、映画『フレンチ・コネクション』で有名な麻薬密売の中心地という顔も持ち合わせている。ジョゼ・ジョバンニの『おとしまえつけろ』(ハヤカワ・ミステリ)を映画化したジャン=ピエール・メルヴィルの『ギャング』や、そのリメイク版『マルセイユの決着(おとしまえ)』(監督アラン・コルノー)にも、マルセイユの暗黒街が印象的に描かれている。
 1990年代の半ば、そうしたマルセイユを舞台にしたミステリ小説がフランスでたて続けに発表され、衆目を集めた。マルセイユ・ミステリ、あるいは南仏料理の伝統的ソースの名を取って、アイオリ・ミステリ(polar aïoli)とも呼ばれたブームの牽引(けんいん)役を担(にな)ったのは、2000年に54歳で亡くなったジャン=クロード・イゾ。邦訳のあるイゾの作品は、現在のところ『失われた夜の夜』(創元推理文庫)一冊きりだが、いかにもフランスらしいロマン・ノワールとして記憶にとどめている読者も少なくないだろう。刑事と犯罪者、進んだ道は違っても、少年時代に育んだ友情を絶やさず持ち続けた男たちの切ない心情が胸に迫る秀作だ。
 本書『狩人の手』も、《アイオリ・ミステリ》の流れを受け継ぐ一作と位置づけることができる。型破りな警察官やギャング同士の抗争、それに哀愁漂う港町の描写など、このジャンルの特徴が盛り込まれている。しかし『狩人の手』がユニークなのは、そこにもうひとつ、先史時代の洞窟壁画という新たな要素をつけ加えた点だ。フランスの洞窟壁画といえばラスコーやショーヴェが有名だが、マルセイユ近郊の入江からも、1991年に注目すべき遺跡が発見されている。水深約37メートルの海底に開いた入口から、175メートルにわたって緩やかに上昇するトンネルを抜けて水上に出た先に広がる空間。発見者の名前からコスキュールと命名されたその洞窟には、数多くの壁画が残されていたのだ。描かれた時期は紀元前27000年から19000年ごろで、アイベックス、鹿、バイソン、野牛などの動物の絵とともに、人間の手形も残されていた。本書に登場するル・ギュアン洞窟は、巻末の謝辞でも触れているように、このコスキュール洞窟をモデルにしている。
 手形はコスキュール洞窟に限らず、世界各地の洞窟遺跡から見つかっている。描き方には二種類あって、手に直接顔料を塗りつけ、スタンプのように壁面に押しつけたポジ方式と、壁面に手をあてた上から顔料を吹きつけて型抜きをするネガ方式。手形の意味については、壁画の作者を示す署名だったとか、シャーマニズムの儀式に使われたものだとか諸説あるようだが、薄暗い洞窟の壁面を、無数の手形がいっぱいに埋め尽くしているさまは、写真で眺めただけでも迫力に満ちていて、太古の人間たちが手に対していかに特別な関心を抱いていたかをうかがい知ることができる。

『狩人の手』ではこの先史時代の手形が重要な役割を演じている。事件の発端は、マルセイユにほど近い入江から見つかった、他殺と思しき女の死体。被害者は大学で考古学を講じる教師で、貴重な壁画のある先史時代のル・ギュアン海底洞窟を研究していた。同じころマルセイユの近辺で、女性を狙った連続殺人が起きる。遺体の足は石斧のような凶器で無残に切り取られ、傍らにはル・ギュアン洞窟と同じネガ方式の手形がついた紙が残されていた。犯人はいったい何のために、そんなことをしたのか? 入江の死体も、これと関連しているのだろうか? 洞窟の研究成果を独り占めしようとする考古学者や、マルセイユの裏社会に暗躍するギャングも絡んで、事件は混迷を深めていく。
 その捜査にあたったのが、司法警察地方局マルセイユ署の敏腕刑事、ミシェル・ド・パルマ主任警部だった。身長1メートル85。オペラをこよなく愛し、「憂(うれ)いに満ちて、気品漂う物腰」から男爵(バロン)とあだ名されている。しかし犯罪を憎む気持ちは人一倍強く、ときには違法すれすれの荒っぽい手法も辞さないため、杓子定規(しゃくしじょうぎ)な上司や若い部下からは反発を買うこともある。警官の仕事にのめり込むあまり妻に愛想をつかされ、現在は別居中というダメ男の一面にも読者の共感が集まったのだろうか、ド・パルマ主任警部を主人公とした作品はシリーズ化され、足かけ10年にわたり6作まで書き続けられた。また本書は英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ルーマニア語、クロアチア語に翻訳されたほか、ミステリ・ファンの交流サイト・ロンポル(RomPol : roman policierの略)によるロンポル賞(のちにミステリ・ヴァーチャル賞 Le Prix Virtuel du Polar)を受賞、読者の大規模な投票によって選ばれるフランス国鉄ミステリ大賞( Le prix SNCF du polar )の最終選考に残るなど好評を博した。ちなみにフランク・ティリエの『死者の部屋』(新潮文庫)は、この賞の第7回の受賞作である。

 作者のグザヴィエ=マリ・ボノ(Xavier-Marie Bonnot)は1962年、マルセイユ生まれ。少年時代、海で溺れかけたところを、のちに海底洞窟の発見者となるダイバーのアンリ・コスキュールに救助されたというエピソードも伝わっている。大学院の博士課程で文学と歴史学を修めたあと、テレビのドキュメンタリー番組を作るディレクターとして活躍した。そのときに扱ったテーマは歴史や司法、犯罪など多岐にわたり、創作活動のなかでも生かされているようだ。2002年、本作で作家デビューしたのちは、1、2年に一冊のペースで順調に作品を発表し続けている。2015年に出された初めてのノンシリーズ作品『La dame de pierre 』(石の女)は、新たな境地を拓く野心作として高い評価を受け、コニャック・ミステリ・フェスティヴァルにおいて、2016年度最優秀フランス・ミステリ賞を受賞した。派手な外連味(けれんみ)はないものの、堅実な作風で現代フランス・ミステリ界の一角を担う作家である。

 最後に、グザヴィエ=マリ・ボノの長編作品リストを挙げておこう(*はド・パルマ主任警部シリーズ)。

La première empreinte(2002)* 本書
La bête du marais(2004)*
La voix du loup(2006)*
Les âmes sans nom(2008)*
Le pays oublié du temps(2011)*
Premier homme(2013)*
Le sang des nègres(2015)
La dame de pierre(2015)
La vallée des ombres(2016)
Le dernier violon de Ménuhin(2017)

2017年11月


【Webミステリーズ!編集部付記】本稿は創元推理文庫『狩人の手』解説の転載です。


(2017年11月21日)




【2009年3月以前の「本の話題」はこちらからご覧ください】

海外ミステリの専門出版社|東京創元社