海外ミステリ出張室

2014.07.07

傑作警察小説!、フォルカー・クッチャー『ゴールドスティン』訳者あとがき(全文)[2014年7月]

酒寄進一 shinichi SAKAYORI


ゴールドスティン 上
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 本書はセルジオ・レオーネ監督の遺作映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(一九八四年、アメリカ・イタリア共同製作)へのオマージュを感じさせる作品だ。
 ギャング映画の金字塔ともいわれるこの映画は、一九二〇年代のニューヨークで台頭したユダヤ・ギャングの姿を描いている。本書では、この映画の中から抜けでたかのように、ひとりのユダヤ人殺し屋がニューヨークからベルリンへやってくる。名前はゴールドスティン。時は一九三一年。
 名うての殺し屋がやってきたという情報が一人歩きするベルリン。暗黒街では疑心暗鬼が渦巻き、ベルリン警視庁も対応に追われることになる。しかもこの殺し屋に濡れ衣を着せて、日頃の鬱憤を晴らそうとする怪しげな秘密組織まであらわれる。こんな騒動の中で奔走するのが、ベルリン刑事警察の警部ゲレオン・ラートだ。
 ゴールドスティンを二十四時間監視するよう命じられたラート警部と、それを嫌って行方をくらまそうとする殺し屋。ふたりの追いかけっこと騙し合いの中であぶり出されるのが、当時のベルリンのユダヤ人社会だ。
 ただしベルリンのユダヤ人社会といっても、一括りにするのはむずかしい。事業に成功したり、弁護士などの社会的地位を得たりして豊かな生活を営む人がいる一方で、東方の貧しい地域から不法入国した人も大勢暮らしていた。また貧富の差だけでなく、信仰においても温度差があった。ユダヤ教の信仰を厳格に守る人々もいれば、ドイツ社会に順応し、そこに根を下ろす人々もいた。そんな多層的なユダヤ人社会の様子が活写されていく。
 とくに、グレナディア通りとその周辺のユダヤ人街の描写は秀逸だ。ラートの目を盗んで拳銃を買いにやってきたゴールドスティンの目線で、こう語られている。

 正面壁の漆喰が薄汚れ、ところどころはがれ落ちているし、窓辺で洗濯物を干している家もある。いたるところ、それこそ歩道の上や通用門にも、ものを売る露天商がいた。中には馬車を車道に止めて、荷台にのせた商品をその場で売る者もいた。あちこちで店の看板やショーウィンドウに描かれたヘブライ文字やダヴィデの星が目にとまる。これほど多くのユダヤ人商店が立ち並ぶところといえば、ここのほかにはニューヨークのロワー・イースト・サイドしか思いつかない。

 アレクサンダー広場から北東の位置にあるこの地区は、かつて〈穀倉街〉と呼ばれていた。十七世紀、まだここがベルリンの市壁の外だった頃、防火のために市内に建てることを禁じられた穀物倉が建ち並んでいた。ここがユダヤ人街となったのは、一七三七年に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が、自宅を持たないユダヤ人を強制移住させてからだ。その後、この地区はベルリンの貧民街となり、犯罪の巣窟と化す。ベルリンの犯罪組織リングフェランが十九世紀末に産声をあげたのもここだ。
 その一方で、ベルリンの豊かさの象徴でもあった百貨店の多くがユダヤ資本だったことも忘れてはならないだろう。一九三二年の時点で、ドイツ各地の百貨店のおよそ八割がユダヤ人によって経営されていたという。本書ではデパート荒らしをするストリートチルドレンや、ひょんなことからそのひとりの行方を追うことになったゲレオンの恋人チャーリーの目を通して当時の百貨店文化を垣間見ることができる。
 ベルリンの百貨店といえば、まず紹介しなければならないのがKaDeWe百貨店だろう。本書でも百貨店荒らしをしているふたりが、ここだけは別格扱いにしている。
 KaDeWe百貨店(Kaufhaus des Westens)は百貨店チェーンで財をなしたユダヤ系商人アドルフ・ヤンドルフ(一八七〇年―一九三二年)がアメリカの百貨店をモデルにして一九〇七年に開業したもので、今なおベルリンのデパートの代名詞となっている。なおこの百貨店は一九二九年、ドイツ全国に百貨店を展開していたヘルマン・ティーツ・グループに経営権が移り、大改装がおこなわれた。本書でアレックスが警察に追われて逃げ込んだ先がまさに改装終盤にさしかかっていた高級食材フロアだ。だがティーツ一族もまたユダヤ系だったことから、一九三三年に権力を掌握したナチは銀行からの融資を止めたり、不買運動を展開したりして、一九三三年四月には閉店に追い込み、グループの経営陣からユダヤ人を一掃してアーリア化をすすめた。
 本書の下巻では、もう一軒の百貨店が詳しく描写されている。ライプツィヒ通りのヴェルトハイム百貨店だ。ヴェルトハイム・コンツェルンの立役者ゲオルク・ヴェルトハイム(一八五七年-一九三九年)は一八九〇年代に市内に数件の百貨店を展開した。その代表格が一八九六年に開店したこのライプツィヒ通り店で売り場面積はKaDeWe百貨店の二万四千平方メートル(一九二〇年時点)に対して七万平方メートル。ロンドンのハロッズ百貨店(約六万二千平方メートル)や一九三〇年開店の銀座三越(約四万三千平方メートル)を凌駕していた。だがこのヴェルトハイム・コンツェルンも一九三五年には「純粋ユダヤ系」のレッテルを貼られ、一九三七年、ナチに没収された。なおライプツィヒ通り店は一九四四年に謎の火災事故で全焼し、現存しない。
 また本書では、こうした百貨店の豊かさを下支えしているインフラにも目配りが効いている。チャーリーがヴェルトハイム百貨店の従業員を追って行き着いた先が、ベルリン東部に広大な敷地を持っていた中央食肉処理場(敷地面積約三十九ヘクタール)だ。ベルリンがヨーロッパ有数の工業都市へと変貌する過程で大量消費に対応する大規模な食肉処理場が必要となり、一八八一年に営業を開始した。第一次世界大戦後にベルリンが周辺自治体を併合して大ベルリンとなってからは、冷蔵施設などの近代化が図られた。本書で描かれる中央食肉処理場の廃屋は、この近代化に取り残された施設だろう。
 当時のベルリンのインフラでもうひとつ紹介しておきたいものがある。本書のクライマックス近くで重要な舞台になるシェーネベルク地区のガスタンクだ。ドイツ語ではガソメーター(Gasometer)と呼ばれる。一般家庭とガス灯にガスを供給する巨大な施設(高さ七十八メートル、最大容積十六万立方メートル)で、一九〇八年から一九一〇年にかけて建設され、一九一三年から操業開始している。このガスタンクは第二次世界大戦の戦火を免れ、現在はインフラ設備としての役目を終えたものの、史跡として保護対象になっている。
 本書を一読いただければわかることだが、シリーズが進むにつれ時代はいよいよきな臭くなってきている。一九二八年五月のドイツ国会選挙ではわずか十二議席だったナチ党が一九三〇年九月の国会選挙で百七議席を獲得して第二党に躍進した。ナチ党の推定党員数も一九二九年には約十八万人だったのが、翌年末には約三十九万人、そして本書が描いている一九三一年末には八十万人を越え倍々の急成長を遂げている。本書でもこれまで以上にナチによるユダヤ人迫害や、肥大化したがゆえの内部対立の様子が物語にうまく取り込まれている。一九三一年九月十二日、ユダヤ教の新年を狙い撃ちした突撃隊による暴動はあまり知られていないが、歴史的事実だ。それまでもっぱら共産党との闘争に明け暮れていた突撃隊が組織的にユダヤ人に牙をむいた最初の事件である。なおこの暴動を裏で指揮している人物をラート警部が垣間見るが、これは重要な伏線だ。この人物の正体はいずれ明かされることになるだろう。
 なお二〇一三年十月、ゲレオン・ラート事件簿シリーズのテレビドラマ化が発表された。まだキャストは不明だが、ドイツ映画を代表する監督のひとりトム・ティクヴァーがプロデューサーをつとめ、まず十二話で最初のシリーズが制作されるという。タイトルは「バビロン・ベルリン」。フォルカー・クッチャーが克明に描いた戦間期のベルリンの光と影が、音と映像で追体験できるようになるのは楽しみだ。

(2014年7月7日)


■ 酒寄進一(さかより・しんいち)
ドイツ文学翻訳家。クッチャー「濡れた魚」、「死者の声なき声」、フォン・シーラッハ「犯罪」「罪悪」「コリーニ事件」、ノイハウス「深い疵」「白雪姫には死んでもらう」、グルーバー「夏を殺す少女」「黒のクイーン」、アベディ「日記は囁く」など訳書多数。



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