海外ミステリ出張室

2013.01.08

古市真由美/レーナ・レヘトライネン『雪の女』訳者あとがき(全文)[2013年1月]

(2013年1月刊『雪の女』訳者あとがき[全文])

古市真由美 mayumi FURUICHI


 北欧の国フィンランドで抜群の人気と知名度を誇るマリア・カッリオ・シリーズから、『雪の女』(原題 Luminainen)をお届けする。小柄でパワフルな赤毛のヒロイン、マリア・カッリオを主人公とするこのシリーズは、第一作が一九九三年に発表されて以来フィンランドの読者の圧倒的な支持を受け続け、現在までに十一作が刊行されている。二〇〇三年にはテレビドラマ化もされて好評を博した。
 日本では、フィンランドといっても、具体的なイメージがわかない人が多いかもしれない。簡単に紹介すると、フィンランド共和国の人口は五百四十万で北海道と同程度、面積は日本より一回り小さい三十三万八千平方キロ。その四分の一が北極圏に属する国土は、七割以上が森林、一割が湖沼などの水域に覆われている。森林以外の天然資源は乏しいが、豊かな森の資源を活用した木材・製紙・パルプ産業がこの国の経済を支えてきた。これらと並んで戦後長らく重要産業の一つだった機械・造船業は、第二次世界大戦後の賠償(フィンランドは東の隣国ソ連と交戦しており敗戦国である)で金属機械や船舶などの物品供与を義務付けられたことから大きく成長したといわれる。九〇年代前半には重要な貿易相手国のソ連が消滅した影響を受け深刻な不況に陥るが、産業・経済政策の転換を図り、電子機器メーカーのノキアに代表される情報通信分野などのハイテク産業を成長させて、みごとに再生を遂げた。本書の物語は、九〇年代半ばのフィンランドが舞台になっている。一九九五年のEU加盟、移民や難民の増加など、九〇年代はこの国の社会があらゆる面で変化していく激動の時代だった。その空気は物語の背景に感じられることと思う。作中で言及される複数の立てこもり事件も実際に起きたものである。
 首都ヘルシンキや本書の主人公マリアが住むエスポーは国の最南端に位置し、冬季には国内で最も日が長い地域だが、それでも本書の物語が進行する十二月から一月ごろの日の出は午前九時台で、午後三時台には日没を迎えてしまう。そのかわり夏季には夜遅くまで太陽が輝き、北極圏では太陽が地平線下に沈まない白夜の期間が何週間も続く。このような環境に生きるフィンランドの人々は、気温の変化よりもむしろ明るさの変化で季節の移り変わりを感じ取っている。フィンランドはまた、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランドとともに北欧諸国としてひとまとめに論じられることが多い。確かにこの五か国は、いずれも北欧会議(Nordic Counsil)のメンバーであるなど一定の協力関係を築いているし、似通った気候風土ゆえに共有する文化的特徴もあるが、フィンランドをほかの北欧の国々から明確に隔てているものがある。それは言語である。ほかの四か国の言語がすべてゲルマン系で、ドイツ語や英語とも互いに“親戚”といえるのに対し、フィンランド語だけはまったく系統が異なっていて、ほかの北欧語とは血のつながりを持たない、いわば“赤の他人”の言語なのである。
 ゲルマン系の北欧各国語を含むヨーロッパの言語のほとんどは、大きく見れば互いに親戚関係にある。一方、フィンランド語の親戚筋で一国の公用語になっているのは、フィンランド語以外ではバルト諸国の一つエストニアの言語エストニア語と、中欧のハンガリーのハンガリー語だけである。このため、欧米の主要言語になじんだ人々の目には、フィンランド語は既知の言語と似たところのない、風変わりで難解そうな言語と映るのだろう。フィンランド語で書かれた作品がこれまであまり海外に紹介されてこなかったのは、言語をめぐるこのような事情も背景にある。しかし近年、フィンランド語作品がさまざまな言語に続々と翻訳され、海外の読者を獲得するようになってきた。マリア・カッリオのシリーズもすでにドイツで高い評価を得ており、欧米やアジアの多くの言語への翻訳も進んでいると聞く。各国での反応が楽しみだ。
 フィンランド語にはユニークな特徴も多い。たとえば、道路名の語尾に付いているティエ(tie)、カトゥ(katu)は、それぞれ英語の road、street に相当するが、英語の場合と違い、道路の名そのものと一体化していて容易に分解できない構造になっている。原語の音を尊重する意図もあり、今回は語尾までを含めた道路名全体をカタカナ表記にした上で、「通り」などのルビを振った。ちなみに主人公が夫と印象的な会話を交わす舞台となるサウナ(sauna)は、もともとフィンランド語の単語である。その場面で主人公の語りの中に現れるコケモモの実の一節は、民族叙事詩『カレワラ』のエピソードを意識したものだ。
 なお、言語に関して忘れてはならないのは、フィンランド語と並んでスウェーデン語もこの国の公用語だということである。これはフィンランドが長きにわたりスウェーデン王国の一部だったという歴史的経緯によるものだ。十四世紀から(実質的には十二世紀ごろから)スウェーデンの統治下にあったフィンランドは、十九世紀初頭にロシアに割譲されて同国の大公国となり、ロシア革命の混乱に乗じて一九一七年に独立を宣言した、まだ若い国家である。スウェーデン系の人々はこの国のかつての支配階級であり知識層であった。日本で有名なフィンランド人も、ムーミン童話の作者トーベ・ヤンソンや作曲家ジャン・シベリウスなどスウェーデン系の人が多い。本書に登場するロースベリという姓もスウェーデン系であり、郊外の優雅な館に居を構える裕福なロースベリ一族は、スウェーデン系フィンランド人にまつわるイメージの一端を巧みに体現しているようにも思えて興味深い。
 本シリーズの主な舞台となるエスポーは、ヘルシンキの西に位置する人口二十五万の都市である。市内には大学のキャンパスがあり、市の北西部ヌークシオ地区には国立公園を擁する、落ち着いた雰囲気の美しい町だ。シリーズ中、本書は四作目に当たる。実は、一作目から三作目まで、主人公マリアは作品ごとに異なる職業に就いている。高校卒業後すぐに警察学校に入学した彼女は、卒業後二年ほど警察官として勤務した後、法学を修めようとヘルシンキ大学法学部に入学。約六年に及ぶ学生生活の間は、勉学の傍ら、時折期限付き契約の警察官として働いていた。フィンランドでは労働者の夏季休暇や産休などの取得制度が充実しており、これを維持するために代理の人員を確保する期限付き雇用契約は特に珍しくない。シリーズ一作目のマリアは、ヘルシンキ警察に病欠者の代理として勤務しているものの、まだ法学部にも在籍中だ。そんな彼女が生まれて初めて担当することになった殺人事件は、犠牲者も被疑者の多くも大学で知り合った友人たちだった。友人を取り調べなければならない自分の立場に悩みながらも、事件解決を目指してひたむきに頑張るマリアの奮闘ぶりが初々しい。続く二作目では法学の知識を生かしてエスポー市内の法律事務所に勤務、三作目では故郷の田舎町に帰り臨時の治安執行官を務めるが、いずれの作品でも身近なところで殺人事件が発生し、これに深く関わっていくことになる。こうして職を転々としてきた主人公が、ようやくエスポー警察に腰を落ち着けた後の第一作が、本書『雪の女』だ。今後は、マリアがエスポー警察の仲間たちとともにさまざまな経験を重ねながら――ときに歯を食いしばりながら――警察官としても女性としても成長する姿が描かれていく。日本の読者には、シリーズの中核を成すエスポー警察編の第一弾である本書をまず紹介することになった。本書は作品としての評価も高く、一九九七年にはフィンランド・ミステリ協会が前年に発表された優れた国産ミステリに贈る〈推理の糸口賞〉を受賞。二〇〇二年には北欧五か国のミステリ作品が対象となる〈ガラスの鍵賞〉にノミネートされた。シリーズ五作目の Kuolemanspiraali も、東京創元社から近く刊行の予定である。
 作者レーナ・レヘトライネンは一九六四年生まれ。新作を発表すれば必ずベストセラーランキングの上位に躍り出る、フィンランドを代表する女性ミステリ作家である。デビュー作を出版したときは十二歳だったというから、早くから才能が開花したのだろう。その後ヘルシンキ大学でフィンランド文学を専攻している。最新作は二〇一二年に完結した Henkivartija 三部作で、主人公はニューヨークで訓練を受けてボディガードになったフィンランド人女性だ。代表作であるマリア・カッリオ・シリーズはフィンランド国内を舞台に据えたローカルな味わいが魅力だが、この三部作はそれとはまた異なる、国際的な雰囲気を持っているようである。
 作者はマリア・カッリオについて、特にモデルは存在せず、自分にとっては定期的に会わずにいられない友人のような存在であって、自分自身ではない、と言っている。ただ、かつて鉱業で栄えた東部の小さな町で少女期を過ごした過去(ただしマリアの故郷アルピキュラは架空の地名である)や、猫が好きなことなど、作者とマリアに共通する要素も多い。マリアの音楽の嗜好とウィスキーの好み、それに男性の好みも、作者と似ているそうだ。女性であることを肯定し、存分に楽しみながら、周囲が押し付けてくる“女らしさ”に甘んじることは断固として拒否するマリアの生き方からは、やはり作者の価値観が垣間見えるように思う。女性の社会進出が進み、専業主婦は極めて珍しい(本書に登場するヨハンナは特異な例である)この国でも、女が演じることを期待される役割があり、マリアはそれをことごとくぶち壊そうとしていて痛快だ。作者によるとマリアのキャラクターは最初に名前が決まったそうだが、聖母マリアにも通じるやわらかな印象の名と、カッリオという、“岩”を意味する男性的で硬質な響きを持つ姓との組み合わせは、主人公の造形をよく表現しているといえるだろう。
 本書を訳しながら、考える前に走り出してしまう主人公に向かって、何度も「ちょっとマリア、少し落ち着いて……」と言いたくなった。いや、実際に声に出して言ってしまった。彼女とは対照的に沈思黙考型の夫アンティも、こんな妻の身を案じて毎日生きた心地がしないのではないか。しかし、このずば抜けた行動力こそが、マリアという女性の最大の魅力でもある。次の作品では、本書の物語から数か月後、初夏のエスポー市内で発生したある事件にマリアが体当たりで挑む。すでに本書を読まれた読者には、そのころマリアの身体的状況がどういうことになっているかご想像いただけると思う。どんな状況だろうと持ち前のパワーを失わずに突き進んでいくマリア・カッリオの活躍を、ぜひお楽しみいただきたい。

  二〇一二年十月

(2013年1月)



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