海外ミステリ出張室

2018.06.08

越前敏弥/アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会2』解説[全文]

「だれもが夢中になれる名作」――越前敏弥
6人の知的エキスパートが
匙を投げた難問を鮮やかに解決する
いぶし銀の名給仕ヘンリー

全ミステリファン待望のリニューアル版



 黒後家中毒。
 黒後家依存症。
 1990年代の前半、わたしはそう呼ばれてもおかしくない状態に陥っていた。当時はふたつの仕事(翻訳ではない)を掛け持ちして、毎日十五時間ほど拘束され、読書にあてることができる時間はせいぜい三十分。好きなミステリーを読むにしても、よほどのことがなければ長編に手を出す気力はなく、眠りに落ちる前の三十分で満ち足りた気分になれる短編だけが頼りだった。
 そんな自分が文字どおり寸暇を惜しんで読んだのは坂口安吾の「明治開化 安吾捕物帖」や都筑道夫の「なめくじ長屋捕物さわぎ」、それにこの「黒後家蜘蛛の会」のシリーズだった(三十分すらとれないときは、一編がさらに短い『ユニオン・クラブ綺談』で渇きを癒やした)。特に「黒後家」は何度繰り返し読んだかわからない。ミステリーとしては小粒というか、ときには謎とすら呼べないような日常の些細な出来事が題材だというのに、なぜあんなに夢中になったのか。ただただ、ブラック・ウィドワーズたち六人が繰りひろげる丁々発止のやりとりの妙と、この上なく謙虚な「史上最高の安楽椅子探偵」ヘンリーが示す解決の鮮やかさの虜になったというほかはない。作者のアイザック・アシモフは、自分が見た夢のなかで謎めいた場面に出くわしたその瞬間、「これはいける。『黒後家』にお誂(あつら)え向きだ」と叫んだらしいが(第四集「赤毛」あとがき)、作者をも巻きこむこの中毒性の高さはミステリー史上屈指のものではないだろうか。
 このシリーズが生まれたいきさつや博覧強記のアシモフの経歴、ミステリーとしての歴史的な位置づけなどは、訳者あとがきや第一集の太田忠司さんの解説、そして何より、愛すべき自己顕示欲の発露とも言うべき作者の各編あとがきで語りつくされているので、ここではまず、つねに侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を戦わせるわが常連たちを、少しばかりの独断を交えて紹介しよう。

●ジェフリー(ジェフ)・アヴァロン――特許弁護士。つねに理性的で、酒量はグラス一杯半までと決めている。古典文学や歴史への造詣が深く、その手の話題になると口をはさまずにはいられず、しばしば煙たがられる。長身で、七十四インチの高みから朗々たるバリトンの声を響かせるが、歌声となると昼寝中のワニのいびきにしか聞こえない。
●トーマス(トム)・トランブル――暗号専門家。政府関係の仕事をしているらしいが、くわしいことはメンバーのだれも知らない。「死にかけている男にスコッチのソーダ割りを頼む」が決め台詞とされているが、実際にはシリーズを通して数回しか口にしていない。ゲストの尋問役に指名されることが多い。しかめ面をたいがい保っているものの、好物のペカン・パイが出されると相好を崩す。
●イマニュエル(マニー)・ルービン――作家。ミステリーが専門で、アイザック・アシモフの友人らしいが、アシモフのような小物と並べられることをひどくきらう。身長五フィート四インチほどの短躯だが、六フィートの強烈な自意識を持ち、メンバーでいちばんの議論好きで減らず口。興奮するとまばらな顎ひげを逆立て、顎をぐいと突き出す。レバーが大の苦手。
●ジェイムズ(ジム)・ドレイク――有機化学者。メンバーでただひとり「本物」の博士号を持っている。かなりのヘビースモーカーで、十フィート先まで煙草のにおいを漂わせるほどだが、自分の吐いた煙にむせることも少なくない。
●マリオ・ゴンザロ――画家。ゲストの似顔絵を描く係を担当している。ルービンへの対抗意識が強く、互いに「三文文士」「落書き絵師」とけなし合って、まったく引かない。深紅を基調とした派手な装いであることが多く、意外に洒落者で、名前から受ける印象ほどは変ではない、横道世之介みたいなやつだ。
●ロジャー(ログ)・ホルステッド――数学者。中学校の教師。きれいさっぱりとした禿頭の持ち主で、腹のふくらみを隠しきれない。穏やかだが、額の色にすぐ感情が表れる。リメリック(諧謔五行詩)をひねり出すのが生きがいで、その話をやめさせるにはだれかが本人の目の前に料理を置くしかない。
●ヘンリー(あえて苗字を伏す。第一集の某短編でのみ言及)――〈ミラノ・レストラン〉の給仕。その仕事ぶりには非の打ち所がない。かなりの年配と推定されるが、顔に皺ひとつない。『ワールド・アルマナック』や『コロンビア百科事典』や『ウェブスター地理学事典』を取りそろえている(そんなものがなぜレストランに置いてあるのか)。私服の折には、チャコール・ブラウンの上下、焦茶色の山高帽(ダービー)、真っ白のワイシャツに細い灰色のネクタイといういぶし銀のいでたちを披露する。

 こういった魑魅魍魎めいた知性派の面々が定型に則って話を進め、そのことが大いなる安心感を生んでいるのはたしかだが、作者はあの手この手で微妙な変化をつけていて、それもまたこのシリーズの楽しみだ。さて、以下のうち、黒後家シリーズで実際にある話はどれだろうか。

(1) 〈ミラノ・レストラン〉以外の場所で例会がおこなわれる。
(2) ゲストとして女性が招かれる。
(3) ゲストがひとりも招かれない。
(4) ゲスト以外の人物が闖入(ちんにゅう)して謎解きを依頼する。
(5) 謎解きをうまくやってのけた場合に報酬が支払われる。

 正解は「五つすべて」。第何集のどの短編であるかは、ぜひシリーズ全作をお読みになってたしかめてもらいたい。
 とはいえ、骨組みとしてはほとんど変わらないのだから、あとへ行くほどマンネリで質が落ちていくのは、シリーズ物によくあることだ。実のところ、「黒後家」にも牽強付会と言わざるをえない話もあるにはある(それはそれで、ばかばかしくて楽しいが)。ただ、そもそもこのシリーズの作品の要は、唯一無二の正解を論理的に導き出すことよりも、教養自慢の面々があの手この手で知見を総動員しても歯が立たない謎を、「落穂拾い」と称してヘンリーがきわめてシンプルに解明する、そのプロセスの圧倒的なカタルシスにあり、謎の中身は二の次である。この第二集でその型にきれいにはまったのは、「電光石火」「鉄の宝玉」「終局的犯罪」あたりだろう。
 わたし自身がシリーズ最高傑作と考えるのは、(新版で読めるのがずいぶん先で申しわけないが)第五集の「三重の悪魔」だ。これはある本のタイトルを言いあてる話で、古今東西の名作がこれでもかこれでもかと登場するが、蘊蓄(うんちく)合戦のすえにヘンリーが正解を導き出す根拠はまさに究極の消去法とも呼ぶべきもので、まさにこれぞ「ザ・黒後家」だ。そのうえ、本好きにとってはうれしい話題が満載で、極貧の若者が機知と教養を生かして富を得ていく立身出世談もまったくいやみがない。第三集以降も印象に残るものが多く、レベルが落ちるのではないかという推測はまったくの杞憂である。
 わたしはこれまで、事あるごとに「黒後家」シリーズに首ったけだと言いつづけていて、毎年多くの翻訳者が選書を担当する書店フェア〈はじめての海外文学〉でも選んだことがある。これは翻訳書を読み慣れていない人のために特に薦める作品を紹介して売っていく企画であり、「黒後家」を推した理由は以下のようなものだ。

(1) 一作が短い。多忙な人でも読みやすい。
(2) 登場人物が少なく、それぞれに際立った造形がなされている。
(3) 事件と言っても、殺人などはほとんど起こらず、陰惨さがない。
(4) 古典文学、アメリカ史、自然科学などなど、多様なジャンルにわたる高度な知的満足が得られ、物知りにもなれる(翻訳者のご苦労がしのばれるものも多い。池先生、ありがとうございます!)。それでいて、いまの時代でも、スマートフォンで解決しそうな謎はほとんどない。たとえば、第一集の最初の「会心の笑い」なんて、どうやったって……。
(5) 気のきいた言いまわしがたっぷり身につく。「端倪(たんげい)すべからざる」とか「尊敬おくあたわざる」とか「水際立った給仕ぶり」とか(全部ヘンリーだ)。ただし、「あなたは何をもってご自身の存在を正当となさいますか」をところかまわず連発すると、大半の友達と仕事を失うので控えよう(ちなみに英語では"How do you justify your existence?"だ)。
(6) 爽快きわまりない結末。どこまでも慎ましいヘンリーの各話最後の台詞には、だれしも心地よい笑みを漏らすにちがいない。

 つまるところ、何かのきっかけがあれば、だれもが「黒後家」に夢中になれるということだ。第一作が書かれてから四十年以上が経ったのに、まだまだ信奉者を量産しそうなシリーズなので、この新版を機に、新たな読者が手にとってくれることを願ってやまない。  ところで、一九九二年に死去したアシモフは計六十六作の「黒後家」短編を書いたが、これまで創元推理文庫には十二×五=六十作しか収録されていない。残りをまとめて一冊に、というのはファンの長年の悲願だった。諸事情から全作収録がなかなかむずかしいのは承知しているが、今回のリニューアルを機に、いよいよ『黒後家蜘蛛の会6』の刊行が実現するという噂が……どこかから聞こえてきた気がしなくもない。それが空耳でないことを信じたい。


【Webミステリーズ!編集部付記】本稿は創元推理文庫『黒後家蜘蛛の会2』解説の転載です。



越前敏弥(えちぜん・としや)
1961年生まれ。東京大学文学部卒業。英米文学翻訳家。主な訳書にゴダード『惜別の賦』、ドロンフィールド『飛蝗の農場』、ワイルド『検死審問』、ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』、ハミルトン『開錠師』、著書に『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』などがある。

(2018年6月8日)




【2009年3月以前の「本の話題」はこちらからご覧ください】

海外ミステリの専門出版社|東京創元社
バックナンバー