ドイツ推理作家協会賞受賞の鮮烈なデビュー長編
本書の主人公は小説家のヘンリー・ハイデン。小説家を主人公にしたミステリというと、最近ではデイヴィッド・ゴードンの『二流小説家』を思い浮かべる読者も多いだろう。だが、『二流小説家』の主人公がタイトルどおり二流の小説を書く売れない作家であるのに対し、本書の主人公ヘンリーはベストセラー作家だ。人間の姿を深く描き出した緊迫感のあるスリラーに定評があり、男らしい精悍な外貌から多数の女性ファンに崇められている。妻と愛犬とともに海辺の広壮な屋敷に住み、マセラティを乗り回すという、誰もが羨む生活を送るヘンリーだが、実は妻ただひとりと分かち合う重大な秘密を抱えていた。
新作長編があと二十ページほどで完成というあるとき、愛人関係にある担当編集者ベティから、妊娠したと告げられる。最初は妻に真実を告げて離婚してもらうしかないと考えるが、気が変わり、ベティとの関係を清算することに。待ち合わせ場所である海辺の崖へ向かい、深淵の手前に停まっているベティの車を見た瞬間、長いあいだ眠っていたヘンリーのなかの悪が目を覚ます――
日曜の夜、特定のテレビ番組が始まると、ああ、週末が終わったなと、どこかもの哀しく実感する――そんな人は多いだろう。日本には「サザエさん症候群」という言葉まであるくらいだ。ドイツでは、そんな日曜夜の番組といえば『犯行現場』一択である。毎回、ベルリン、ミュンヘン、ケルン、ウィーンなどの都市が舞台となる刑事もので、各都市のシリーズにそれぞれの脚本家、監督、刑事役の俳優がいる。一九七〇年から続く長寿番組で、これを見ないと明日からの一週間が始まらないという人も多い。「日曜夜は当店で『犯行現場』を!」という看板を出しているレストランやカフェ、居酒屋などもあり、客たちは備え付けられたテレビやモニターで『犯行現場』を見ながら食事や酒を楽しむ。
本書『悪徳小説家』の著者ザーシャ・アランゴは、このドイツの国民的番組である『犯行現場』の脚本家だ。一九五九年にコロンビア人の父とドイツ人の母のあいだに生まれ、西ベルリンで育ったアランゴは、一九八九年からテレビドラマ、ラジオドラマ、映画の脚本家として活躍してきた。『犯行現場』ではバルト海沿いの町キールを舞台にしたシリーズの脚本を手掛けている。テレビ番組に対する最も権威ある賞であるグリメ賞を二度も受賞するなど、ドイツ屈指の人気と実力を備えた脚本家が初めて書いた小説が、本書『悪徳小説家』だ。
アランゴは、ストーリーテリングおよび人物造形の両面で、人気脚本家の実力を見せつける。本書の主人公ヘンリーは、ピカレスク小説の主人公の要素をすべて備えた、絵に描いたような悪漢なのだが、この悪い男がなんとも魅力的なのだ。これまで出た書評のほとんどが、パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を引き合いに出しているのもうなずける。ルネ・クレマン監督の同名映画でアラン・ドロンが演じる主人公リプリーは、やはり悪漢でありながら、いやむしろ悪漢であるが故の強烈な魅力で、世界中の観客を虜にした。リプリーと本書の主人公ヘンリーに共通しているのは、彼らの悪に陰影がある点だろう。言ってみれば、「悪人」ではなく「悪い男」と呼びたいタイプなのだ。
ヘンリーは悪い男だが、さもしさや、がつがつしたところがない。富や名声を目指しながらも、世間の評価や基準に執着しない潔さを持っている。自らのなかの悪の声に導かれ、計算高く策を弄しながら、常に一貫して肩の力を抜き、運命に楽観的に身をゆだねて生きている。罪が露見しないよう小細工を施す冷徹さを持ちながら、愛する人を失ったことを真摯に悲しむ。さらに、嘘が暴かれたと確信した際には、思わぬ潔さで刑に服する覚悟を固めもする。また、本書のなかの言葉を借りれば、「悪の一時の中断」ともいうべき瞬間があり、そんなときのヘンリーは損得を抜きにした善人にさえなり、思いもよらない行動に出る。ヘンリーのそんな姿に触れるうちに、読者もやがて彼の魅力につかまり、彼の嘘が明るみに出ないことを望むようになるのではないだろうか。
いや、明るみに出てはならないのは、ヘンリーの嘘ではなく、真実のほうかもしれない。本書の原題はDie Wahrheit und andere Lügen(真実その他の嘘)。真実も諸々の嘘のひとつにすぎないという、なんとも含みのあるタイトルだ。実際に崖でなにがあったのか、すなわち「真実」は、読者に早い段階から提示されている。だが、果たしてそれは本当に「真実」なのか。刻々と変わる状況と相手に応じてヘンリーが組み立てるさまざまな「嘘」、そしてそれらの「嘘」から新たに生まれる「真実」。「真実」と「嘘」の境界は、物語が進むにつれてどんどんあいまいになっていく。
ヘンリーの真実と嘘は暴かれるのか。もし暴かれるなら、誰によって、どのように? 北海、バルト海というドイツの海とは微妙に違った雰囲気を持つ海辺の町に暮らし、どこかドイツ人らしからぬ響きの名前を持つ登場人物たちは、皆が名前のとおりどこか奇妙で、強烈な個性の持ち主だ。なかでも特別な存在感を放つのは、ヘンリーの妻マルタだろう。悪漢ではあっても根本では俗物の(そこが魅力でもある)ヘンリーに対して、マルタはとことんエキセントリック。共感覚を持ち、物欲も名誉欲もなく、夫が有名になり、巨万の富を得ても、貧しかったころと同じように、淡々と毎日泳ぎにいく生活を送る。ほかにも、野心家のベティ、ベティを愛するモリアニー、モリアニーを愛しベティを憎むホノア、ヘンリーの唯一の友人であるセルビア人の魚屋オブラディン、ヘンリーの正体を暴くことに執念を燃やすギスベルト・ファッシュ、一見お人好しの単細胞に見えて実は頭の切れるイェンセン刑事――最初は敵に見えた人間が味方になり、味方だった人間が脅威となり、真実と嘘が複雑に絡み合いながら、状況は刻々と変化していく。
本書と作中のヘンリーの小説には、共通点が多い。作中では、ヘンリーの小説は「簡潔でありながら、同時に詳細に、緻密に描かれている」と絶賛されている。また、ヘンリーがファンに“小説を書く時一番大切なのは、なにを書かないかだ”と語る場面もある。これらはおそらく著者にとっての理想の小説のありかたを反映したものだろう。ヘンリーの小説同様、本書もやはり余計な描写をそぎ落とした簡潔でありながら力強い文章で、読者をぐいぐいと牽引していく。
刊行直後から大きな反響を呼んだ点でも、本書とヘンリーの小説は同じだ。作品のなかでペッフェンコーファーなる批評家がヘンリーの小説に送った賛辞に、勝るとも劣らない絶賛の書評が数々出ている。
そのなかのひとつ、『ヴェルト』の書評で、書評者エルマー・クレケラーは、ほかの多くの批評家同様、ヘンリー・ハイデンを「トム・リプリー以来の魅力的な悪の体現者」と呼び、諸々の考察の後、こう結ぶ。「ザーシャ・アランゴが、日曜日の『犯行現場』の視聴者の少なくとも半数の読者を獲得することを祈ろう。だがたとえそうなっても、アランゴには、ぜひすぐに次のろくでなしを生み出す仕事に取り掛かってもらいたい。もしここまでの記事でまだはっきり伝わっていないのならもう一度言うが、我々はろくでなしを愛するものなのだ」
訳者である私も同感だ。本書を初めて読んだときには、ヘンリーをはじめとする登場人物たちにすっかり魅せられ、真実その他の嘘が交錯するストーリーに、文字通り寝食を忘れて没入した。そんな読者が私ひとりでないことは、多方面での評価で明らかだ。本書はドイツ推理作家協会賞の新人賞を受賞したほか、世界二十五でヶ国出版され、映像化権も売れている。
さらに、このあとがきを執筆中の五月末、本書『悪徳小説家』がCWA(英国推理作家協会)インターナショナル・ダガー賞の候補作に入ったというニュースがもたらされた。ヘンリーの悪の魅力が、ドイツ語圏を越えて認められたことを喜びたい。
翻訳にあたっては、東京創元社の桑野崇さんにさまざまな面でお世話とご迷惑をかけた。熱意を込めて丁寧に編集してくださったことにお礼を申し上げたい。
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社
浅井晶子 shoko ASAI
本書の主人公は小説家のヘンリー・ハイデン。小説家を主人公にしたミステリというと、最近ではデイヴィッド・ゴードンの『二流小説家』を思い浮かべる読者も多いだろう。だが、『二流小説家』の主人公がタイトルどおり二流の小説を書く売れない作家であるのに対し、本書の主人公ヘンリーはベストセラー作家だ。人間の姿を深く描き出した緊迫感のあるスリラーに定評があり、男らしい精悍な外貌から多数の女性ファンに崇められている。妻と愛犬とともに海辺の広壮な屋敷に住み、マセラティを乗り回すという、誰もが羨む生活を送るヘンリーだが、実は妻ただひとりと分かち合う重大な秘密を抱えていた。
新作長編があと二十ページほどで完成というあるとき、愛人関係にある担当編集者ベティから、妊娠したと告げられる。最初は妻に真実を告げて離婚してもらうしかないと考えるが、気が変わり、ベティとの関係を清算することに。待ち合わせ場所である海辺の崖へ向かい、深淵の手前に停まっているベティの車を見た瞬間、長いあいだ眠っていたヘンリーのなかの悪が目を覚ます――
日曜の夜、特定のテレビ番組が始まると、ああ、週末が終わったなと、どこかもの哀しく実感する――そんな人は多いだろう。日本には「サザエさん症候群」という言葉まであるくらいだ。ドイツでは、そんな日曜夜の番組といえば『犯行現場』一択である。毎回、ベルリン、ミュンヘン、ケルン、ウィーンなどの都市が舞台となる刑事もので、各都市のシリーズにそれぞれの脚本家、監督、刑事役の俳優がいる。一九七〇年から続く長寿番組で、これを見ないと明日からの一週間が始まらないという人も多い。「日曜夜は当店で『犯行現場』を!」という看板を出しているレストランやカフェ、居酒屋などもあり、客たちは備え付けられたテレビやモニターで『犯行現場』を見ながら食事や酒を楽しむ。
本書『悪徳小説家』の著者ザーシャ・アランゴは、このドイツの国民的番組である『犯行現場』の脚本家だ。一九五九年にコロンビア人の父とドイツ人の母のあいだに生まれ、西ベルリンで育ったアランゴは、一九八九年からテレビドラマ、ラジオドラマ、映画の脚本家として活躍してきた。『犯行現場』ではバルト海沿いの町キールを舞台にしたシリーズの脚本を手掛けている。テレビ番組に対する最も権威ある賞であるグリメ賞を二度も受賞するなど、ドイツ屈指の人気と実力を備えた脚本家が初めて書いた小説が、本書『悪徳小説家』だ。
アランゴは、ストーリーテリングおよび人物造形の両面で、人気脚本家の実力を見せつける。本書の主人公ヘンリーは、ピカレスク小説の主人公の要素をすべて備えた、絵に描いたような悪漢なのだが、この悪い男がなんとも魅力的なのだ。これまで出た書評のほとんどが、パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を引き合いに出しているのもうなずける。ルネ・クレマン監督の同名映画でアラン・ドロンが演じる主人公リプリーは、やはり悪漢でありながら、いやむしろ悪漢であるが故の強烈な魅力で、世界中の観客を虜にした。リプリーと本書の主人公ヘンリーに共通しているのは、彼らの悪に陰影がある点だろう。言ってみれば、「悪人」ではなく「悪い男」と呼びたいタイプなのだ。
ヘンリーは悪い男だが、さもしさや、がつがつしたところがない。富や名声を目指しながらも、世間の評価や基準に執着しない潔さを持っている。自らのなかの悪の声に導かれ、計算高く策を弄しながら、常に一貫して肩の力を抜き、運命に楽観的に身をゆだねて生きている。罪が露見しないよう小細工を施す冷徹さを持ちながら、愛する人を失ったことを真摯に悲しむ。さらに、嘘が暴かれたと確信した際には、思わぬ潔さで刑に服する覚悟を固めもする。また、本書のなかの言葉を借りれば、「悪の一時の中断」ともいうべき瞬間があり、そんなときのヘンリーは損得を抜きにした善人にさえなり、思いもよらない行動に出る。ヘンリーのそんな姿に触れるうちに、読者もやがて彼の魅力につかまり、彼の嘘が明るみに出ないことを望むようになるのではないだろうか。
いや、明るみに出てはならないのは、ヘンリーの嘘ではなく、真実のほうかもしれない。本書の原題はDie Wahrheit und andere Lügen(真実その他の嘘)。真実も諸々の嘘のひとつにすぎないという、なんとも含みのあるタイトルだ。実際に崖でなにがあったのか、すなわち「真実」は、読者に早い段階から提示されている。だが、果たしてそれは本当に「真実」なのか。刻々と変わる状況と相手に応じてヘンリーが組み立てるさまざまな「嘘」、そしてそれらの「嘘」から新たに生まれる「真実」。「真実」と「嘘」の境界は、物語が進むにつれてどんどんあいまいになっていく。
ヘンリーの真実と嘘は暴かれるのか。もし暴かれるなら、誰によって、どのように? 北海、バルト海というドイツの海とは微妙に違った雰囲気を持つ海辺の町に暮らし、どこかドイツ人らしからぬ響きの名前を持つ登場人物たちは、皆が名前のとおりどこか奇妙で、強烈な個性の持ち主だ。なかでも特別な存在感を放つのは、ヘンリーの妻マルタだろう。悪漢ではあっても根本では俗物の(そこが魅力でもある)ヘンリーに対して、マルタはとことんエキセントリック。共感覚を持ち、物欲も名誉欲もなく、夫が有名になり、巨万の富を得ても、貧しかったころと同じように、淡々と毎日泳ぎにいく生活を送る。ほかにも、野心家のベティ、ベティを愛するモリアニー、モリアニーを愛しベティを憎むホノア、ヘンリーの唯一の友人であるセルビア人の魚屋オブラディン、ヘンリーの正体を暴くことに執念を燃やすギスベルト・ファッシュ、一見お人好しの単細胞に見えて実は頭の切れるイェンセン刑事――最初は敵に見えた人間が味方になり、味方だった人間が脅威となり、真実と嘘が複雑に絡み合いながら、状況は刻々と変化していく。
本書と作中のヘンリーの小説には、共通点が多い。作中では、ヘンリーの小説は「簡潔でありながら、同時に詳細に、緻密に描かれている」と絶賛されている。また、ヘンリーがファンに“小説を書く時一番大切なのは、なにを書かないかだ”と語る場面もある。これらはおそらく著者にとっての理想の小説のありかたを反映したものだろう。ヘンリーの小説同様、本書もやはり余計な描写をそぎ落とした簡潔でありながら力強い文章で、読者をぐいぐいと牽引していく。
刊行直後から大きな反響を呼んだ点でも、本書とヘンリーの小説は同じだ。作品のなかでペッフェンコーファーなる批評家がヘンリーの小説に送った賛辞に、勝るとも劣らない絶賛の書評が数々出ている。
そのなかのひとつ、『ヴェルト』の書評で、書評者エルマー・クレケラーは、ほかの多くの批評家同様、ヘンリー・ハイデンを「トム・リプリー以来の魅力的な悪の体現者」と呼び、諸々の考察の後、こう結ぶ。「ザーシャ・アランゴが、日曜日の『犯行現場』の視聴者の少なくとも半数の読者を獲得することを祈ろう。だがたとえそうなっても、アランゴには、ぜひすぐに次のろくでなしを生み出す仕事に取り掛かってもらいたい。もしここまでの記事でまだはっきり伝わっていないのならもう一度言うが、我々はろくでなしを愛するものなのだ」
訳者である私も同感だ。本書を初めて読んだときには、ヘンリーをはじめとする登場人物たちにすっかり魅せられ、真実その他の嘘が交錯するストーリーに、文字通り寝食を忘れて没入した。そんな読者が私ひとりでないことは、多方面での評価で明らかだ。本書はドイツ推理作家協会賞の新人賞を受賞したほか、世界二十五でヶ国出版され、映像化権も売れている。
さらに、このあとがきを執筆中の五月末、本書『悪徳小説家』がCWA(英国推理作家協会)インターナショナル・ダガー賞の候補作に入ったというニュースがもたらされた。ヘンリーの悪の魅力が、ドイツ語圏を越えて認められたことを喜びたい。
翻訳にあたっては、東京創元社の桑野崇さんにさまざまな面でお世話とご迷惑をかけた。熱意を込めて丁寧に編集してくださったことにお礼を申し上げたい。
二〇一六年五月
ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社