まずは翻訳から。ジョン・ディクスン・カー『盲目の理髪師』(三角和代訳 創元推理文庫 940円+税)はギディオン・フェル博士シリーズ第4長篇の新訳版です。


フェル博士のもとに『剣の八』事件で知り合った探偵作家モーガンがたずねてきました。モーガンはアメリカからイギリスへの旅の途中、ある政治的に重要な撮影フィルムの盗難事件、そして宝石の盗難事件、さらには《盲目の理髪師》による殺人事件に遭遇したのだと、旅の顛末(てんまつ)をフェル博士に語りはじめて……。

カーの初期長篇の中では珍しくユーモアを前面におしだしていて、ファンの間で極端に好みが分かれる作品です。豪華客船上のスラップスティックなやりとりが主題で、そのやりとりを面白いと思うかどうかが評価に直結してしまうためです。素人(しろうと)探偵たちが捜査をしくじって船長から疑いをかけられるくだりの繰り返しなど、筆者はとても好きなのですが。会話がすんなり読めるかが肝なので、新訳版ではまた印象が変わって読めるかもしれません。もちろんドタバタの裏にどんな伏線が仕込まれていたかがミステリ的なたくらみではあって、安楽椅子探偵ものを扱うための様式の模索だと見ることもできるでしょう。

ボリス・ヴィアン『お前らの墓につばを吐いてやる』(鈴木創士訳 河出文庫 920円+税)は、ヴィアンが架空の米黒人作家ヴァーノン・サリヴァンを仕立て、英語から仏語への訳書と見せかけた創作をした長篇の新訳版です。『墓に唾(つば)をかけろ』の旧題には覚えがあるという方が多いのではないでしょうか。


バックトンの街に書店の雇われ店長としてやってきた青年リーには、人種差別によって弟を喪(うしな)った不幸な過去がありました。リーは街の若者たちとしだいに打ち解け、慕われるようになります。そしてある富豪の姉妹と知り合ったことで、リーの秘(ひそ)かな想いは実行に移されていき……。

フランスのロマン・ノワールと呼ばれる作品群の嚆矢(こうし)ともいうべき位置づけで、ある男の暴力的な犯罪の記録が、差別への諷刺(ふうし)の側面をもって語られます。ヴィアン作品が新刊で出るのはたいへん久々なので、若い読者の方は本書ではじめてふれるというのが大半かと思うのですが、全集も出ていますのでぜひ何作か読んでみていただきたい。一般文芸のほうでも、代表作『うたかたの日々』をはじめとして型やぶりな作品をたくさん残している作家です。

フランス産ノワールの紹介は、近年はJ=P・マンシェットの新訳がなされたくらいで寂しいものです。ヴィアンの新訳が他の作家の紹介に広がっていくことを、ジャンルのファンとしては期待しています。

国内のほうでは、まず連城三紀彦『連城三紀彦傑作集1 六花の印』(松浦正人編 創元推理文庫 1500円+税)が目をひきます。連城作品の復刊は近年続いていますが、傑作選を編む企画というとわりと珍しくて、著名作家が収録作を選んだ『連城三紀彦レジェンド』(講談社文庫)が思いつくくらいです。


今回の企画は編者・松浦正人が、初刊の短篇集からは最大2篇までしか選ばないなどの制約を設けて、2冊の短篇集に編年体でまとめるものです。目次に「桔梗(ききょう)の宿」「花虐(かぎゃく)の賦(ふ)」「恋文」と代表作が並ぶのを見ると、これから連城作品を手にとろうという方に薦めるには抜群のショーケースで嬉しくなります。本書を読んで気に入った短篇があれば、その収録短篇集に読み進んでいただければよいわけですし、入り口としやすい本が増えるのはありがたい。またエッセイが多数収録されたのも珍しくて、これを読みたいがために買うファンはたくさんいそうです。 

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■■大川正人(おおかわ・まさひと)
ミステリ研究家。1975年静岡県生まれ。東京工業大学大学院修了。共著書に『本格ミステリ・フラッシュバック』がある。