『堆塵館』に至るまで
古屋美登里 midori FURUYA



『堆塵館』に至るまで
 ついに、ようやく、とうとう……というのが、本書『堆塵館』の原書HEAP HOUSEを手にしたときに真っ先に浮かんだ言葉だった。鶴首して待つ、という言い方があるが、こちらはほとんど「ろくろ首」状態になっていた。
 エドワード・ケアリーの鮮烈なデビュー作OBSERVATORY MANSIONS(邦題『望楼館追想』)」が刊行されたのは二〇〇〇年のことだった。これは、共同住宅になった広大な館で、互いに干渉せずに暮らす七人の大人が、新たな住人の登場によって戸惑いながらも変化を余儀なくされていく様子を描いた作品である。「ぼくは白い手袋をはめていた。両親と暮らしていた。でも、小さな子どもではなかった。三十七歳だった」という印象的な冒頭から一気に物語の世界に引きずりこまれる。
 人々の愛した物を集めている主人公のフランシス・オームの過去と、彼のコレクションの謎が明らかになるにつれて、オーム一族の歴史が浮かび上がっていく描き方は圧巻だった。
 二〇〇三年に刊行された長編小説ALVA & IRVA(邦題『アルヴァとイルヴァ』)は、風変わりな双子の姉妹の人生を描いたものだが、読み進むほどに、実際の主人公は地震によって滅びるエントラーラという町そのものであることがわかり、失われた建物のひとつひとつが愛おしく感じられてくる。ニューヨークの世界貿易センタービルの崩壊後に発表されたために、人と建物と町との繋がりの深さや生と死について、改めて思いを馳せることになった。
 それから十年。二〇一三年九月に、ケアリーの三作目の長篇小説、〈アイアマンガー三部作〉の第一部にあたる本書HEAP HOUSEが出版された。
 ケアリーの小説の魅力は、謎めいた登場人物たち、ゼロから構築した新しい世界観、造形物の美しさ、細部の描写のみごとさ、物への偏愛、リズムのある独特な文体、グロテスクでありながらも愛らしいイラストなどに表れている。そのすべてが贅沢に織り込まれた世界は、ファンタジーやミステリや歴史小説やホラーやSFといったジャンルを超え、まさしく「ケアリーの世界」としか言いようのないものになっている。

『堆塵館』について
 まだ本書を読んでいない方のために、ここであらすじを少しだけ紹介したい。不要と思う方は、「『堆塵館』の魅力」あるいは「エドワード・ケアリーについて」の項に飛んでいただきたい。
 時は一八七五年十一月。舞台はロンドン郊外のフォーリッチンガム区。フォーリッチンガムの奥には壁で隔てられた場所、廃棄物が堆く積み上げられた広大な私有地がある。ロンドンから運ばれてきたごみが山となり、その山がいくつも列なっている土地の真ん中に、地上七階、地下六階の巨大な館「堆塵館」が建っている。ロンドン中の家の廃材から作られたこの館には、ごみで財を成したアイアマンガー一族が何代にもわたって暮らしてきた。地上階には風変わりな純血アイアマンガーたちが、地下には、両親のどちらかがアイアマンガーの二世、三世からなる召使いたちが、厳しい掟に従って住んでいた。上階には学校も診療所も礼拝堂もあり、ひとつの町そのものといってよかった。
 彼らは、誕生時に与えられた品物を肌身離さず持っていなければならず、それをなくしでもしたら災いがふりかかる、と信じていた。ある日、主人公クロッド・アイアマンガーの伯母ロザマッドの誕生の品「ドアの把手」がなくなり、館のなかはにわかに騒然となる。
 十五歳半のクロッドには、さまざまな物の声、物が名前を告げる声が聞こえるという、大変珍しい能力が備わっている。そのせいで、一族の者たちからは異端者扱いされており、なくなったドアの把手の声を求めて広い館を探し回るあいだも、いとこたちからばかにされたり、いじめられたりする。
 一方、フィルチングの孤児院では、十六歳の少女ルーシー・ペナントが、アイアマンガー一族の遠縁に当たると言われ、堆塵館に連れて来られる。堆塵館の階下で働く大勢の召使いは、限られた人物を除き、上階のアイアマンガーたちと会ったり言葉を交わしたりすることはできなかった。ところが暖炉係になったルーシーは、上階で仕事をしているときに偶然クロッドに出会い、それをきっかけにふたりの運命は、そして堆塵館の運命も、大きく変わることになる。

『堆塵館』の魅力
 この作品の魅力として、真っ先に挙げたくなるのは、この作品の雰囲気を大きく左右しているアイアマンガー一族の風変わりな名前である。クロッド(Clod)には土塊とか間抜けという意味が、ロザマッド(Rosamud)のmudには泥や屑という意味がある。
 こうした名前は、いわゆるイギリス的な名の母音や子音が少しだけ変えられていて、耳にしたことがないような独特な音になっている。その好例が、「創世記」に出てくるアダムとイヴの言い方――オドムとイフ――だ。 堆塵館ではAdamがOdom、EveがEefとなる。英語であればaをoに、vをfに変えて、しかも文字の順も変えられていることが一目瞭然だ。カタカナになると、その面白さが直接伝わらないものの、変わった音の愉しさは伝わってくる。
 そのほんの一例として、次のようなものがある。

  Harriet(ハリエット) → Horryit(ホリイト)
  Claudius(クラウディウス) → Clodius(クロディウス)
  Edward(エドワード) → Idwid(イドウィド)
  Tomas(トーマス) → Tammis(タミス)
  Albert(アルバート) → Olbert (オルバート)

 英語圏の人々、とりわけ子供たちは、この作品を朗読したり、登場人物の名前を口にしたりするたびに、その音とおかしな意味にくすくす笑ったり、元になっている名前に思いを馳せたりして愉しむことができる。茶目っ気のあるケアリーの遊び心がこうしたところに表れている。訳者は本書を読みながら、たくさん登場する人物名と誕生の品と品の名のリストを作るのがことのほか愉しかった。
 廃材やごみで作られた巨大な館でごみと悪臭に囲まれて暮らす人々がいる、という発想も魅力的である。見捨てられ、顧みられず、汚いごみや屑やがらくたが、ケアリーの手によって美しいもの、愛おしいものへ変わっていき、美醜の境がしだいに崩れていく。美醜だけでなく、善悪や正邪の輪郭も崩れていき、世界観、価値観の逆転が起きていく。
 さて、十九世紀、孤児、召使い、物語とくれば、イギリスを代表する作家チャールズ・ディケンズ(一八一二-一八七〇)の作品を思い起こす。ケアリーのほうがスマートな描き方をしているが、孤児や貧しい人々への優しい眼差し、上流階級や取り澄ました人々への軽蔑と嘲笑に満ちた視線、丁寧な人間の描き方、手に汗握るストーリー展開などは、ディケンズの魅力を引き継いでいると言える。
 さらに、軽妙な言葉の掛け合い、ユーモアと皮肉、ちょっとした間違いや過ちによって人々の運命が狂い、はらはらさせられる展開などには、シェイクスピアの影響も見て取れるし、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』へのオマージュのような箇所もあり、イギリスの小説に詳しい方は、そうした重層的な仕掛けを探してみるのも一興だろう。
 本書は十代の少年少女に向けて書かれているが、このことについてケアリーは「冒険を知らない子供たちに胸躍る冒険小説を読んでもらいたかったし、子供向けのほうが自由に書けるような気がするときがある」と述べている。
 アメリカの作家ケリー・リンクはこの作品を絶賛しており、二一〇四年の「ニューヨーク・タイムズが選ぶ今年の注目本」に選ばれ、さらには「ニューヨーク・タイムズの書評家が選ぶ一冊」にも入った。ミヒャエル・エンデの『モモ』と同じように、年齢を問わず愉しめる作品である。

エドワード・ケアリーについて
 ケアリーはインターネット上のホームページに経歴を載せている。それを参考にしつつ、詳しく紹介したい。
 エドワード・ケアリーは、一九七〇年にイングランド東部のノーフォーク州ノース・ウォルシャムで生まれた。寄宿制の私立学校を卒業後、海軍将校であった祖父と父が学んだパングボーンの海軍学校に入学したが、軍人になってほしいという家族の期待を裏切って、イングランド北東部にあるハル大学の演劇科で学び、国立青年劇団に参加。その後、形成外科の記録係やロンドンの劇場の楽屋の守衛、マダム・タッソー蝋人形館の警備員などの職に就いた。画家か俳優になりたかったが、自分に向いていないことを悟り、小説家を志したという。
 イラストレーター、彫塑家であり、人形も作っている。
 これまでにルーマニアの国立劇場とリトアニアの「ビリニュス・スモール・ステート・シアター」のために脚本を書いている。ともかく多才な作家である。
『望楼館追想』『アルヴァとイルヴァ』は十三カ国語に翻訳された。
 これらの翻訳をするにあたって、十数年前に訳者がメールで好きな作家について質問すると、ブルーノ・シュルツ(ポーランド)、トマス・ベルンハルト(オーストリア)、イタロ・カルヴィーノ(イタリア)、ブルース・チャトウィン(イギリス)、ナギーブ・マフフーズ(エジプト)、カーソン・マッカラーズ(アメリカ)、フェルナンド・ペソア(ポルトガル)、そして日本の村上春樹の名前が挙がった。これを見ると、彼が表現方法にこだわった物語性の強い作品を好むことがわかる。ケアリーは「想像力こそが小説にとっていちばん大切なもの」と述べている。
このとき、何か物を集めているかどうか訊くと、「自分はコレクターではないが、物を蒐集する人にとても惹きつけられる」という返事だったが、二〇一四年のロサンゼルス・タイムズのインタビューでは「あらゆる物を集めているので、外に出ないようにしている。外に出たら必ずなにか持ってきてしまうから」と言っている。
 長篇二作の邦訳は現在絶版となっているが、二〇一二年Unstuck#2に発表された短篇「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」は、『もっと厭な物語』(二〇一四年文春文庫)に収められている。同じアパートメントに暮らす人々の異様さを、語り手である物語作家があげつらっていき、しまいにはその作家自身の異様さが際立つ、というケアリーらしいニューロティックな描写にぞっとする一篇である。

 現在ケアリーは、アイオワ大学の作家養成講座や、テキサス大学の文学部とミチェナー・センターで、創作作法やおとぎ話について講義している。これまでに母国イギリスはもちろんのこと、フランス、ルーマニア、リトアニア、ドイツ、アイルランド、デンマーク、アメリカ合衆国で生活したことがあり、現在はアメリカ合衆国テキサス州オースチンで妻と子供ふたりと暮らしている。
 妻は、THE GIANT'S HOUSE(邦題『ジャイアンツ・ハウス』)を書いたアメリカの作家エリザベス・マクラッケンである。

挿絵について
 ケアリーは文章と絵で表現する作家のひとりである。『望楼館追想』では自分で描いた登場人物の版画が、『アルヴァとイルヴァ』では粘土で作った町の立体模型や双子の像の写真が口絵になり、話題になった。
 ケアリーは、自分で描いた絵を小説の挿絵にする作家について、二〇一六年三月の「ニューヨーク・タイムズ」にエッセイを書いている。〈ゴーメンガースト・シリーズ〉を書いたマービン・ピーク(一九一一-一九六八)や、〈ムーミン・シリーズ〉で有名なトーベ・ヤンソン(一九一四-二〇〇一)、〈ピーターラビット・シリーズ〉のビアトリクス・ポター(一八六六-一九四三)、などを挙げながら、文章と絵との統合がいかに大切かということを述べている。
 では、ケアリー自身にとって絵はどういうものなのか。

「ぼんやりとした状態で描いたたった一枚の鉛筆画が、大きな物語の始まりになったりする。私は、ヴィクトリア朝時代のごみの山を舞台にした三部作を書き終えたが、その物語の始まりは、心配そうな表情を浮かべた蝶ネクタイの不健康な少年を描いた一枚の鉛筆画だった。すべてが、その一枚から始まったのだ。病弱そうで憂鬱な顔つきをした少年から。その一枚が、四年後には三冊の本と大量の挿絵を生み出したのである。」

「絵を描くうちに小説の人物の性格が変わっていったり、新しいアイデアが浮かんできたりする。文章と絵が一致しないときもあって、そんなときは絵も文章も相互に変化していく。気がつくと、折り合いがつくまで文章を削ったり、絵の線を消したりしている」

 ケアリーのこれまでの作品に、登場人物の顔がしっかりと描かれた挿絵が入っていた理由がこれではっきりした。彼の物語では絵と文章が融合して深まっていくのである。

アイアマンガー三部作について
 Iremonger(アイアマンガー)というこの風変わりな姓は実際に存在している。献辞で著者自ら、「母の旧姓を拝借した」と述べているし、姓の起源などの情報をネットで公開しているHOUSE OF NAMEによれば、その起源は古く、十一世紀以前にすでに文書に記されているという。表記に、IronmongerやIrmyngesといった異綴りがあり、この姓を持つ人のなかには十九世紀に活躍した有名なクリケット選手や詩人、政治家もいる。Ironmonger(アイアンマンガー)はIron(鉄)+monger(商人)で、金物屋という意味である。それならIremongerのIreには、怒りという意味もあるので、怒りの商人や激怒屋といった訳をつけてもよさそうだ。
 もっとも本書に登場するアイアマンガーは、実在するのは名前だけでその他はすべてフィクションである。この壮大な物語は三部から構成され、二〇一三年に第一部HEAP HOUSEが、一四年にFOULSHAMが、そして一五年に第三部LUNGDONが刊行された。
 第一部の終わり方に驚き、絶句し、うろたえ、悲鳴をあげた方も多いと思うが、その後の展開はまさに想像を絶している。
 FOULSHAM(仮題『穢れの町』)では、物語の舞台が「月桂樹の館」に、そしてLUNGDON(仮題『肺都』)ではロンドンに移り、ヴィクトリア女王まで登場する。
 ルーシーはラテン語の光(lux)に由来する名前である。暗くてじめじめした場所に射し込む一条の光であるルーシーと、物の声が聞こえる土塊のクロッドの運命はどうなるのか。アイアマンガー一族と誕生の品の謎はどんな展開を見せるのか。ごみの山の暴走は押さえられるのか。
 乞うご期待。


 本書の刊行に至るまでには、ケアリーの作品を愛する大勢の方々からご支援とご助力をいただいた。ひとりひとりのお名前をここで挙げることはしないが、心から感謝していることをお伝えしたい。みなさま、本当にありがとうございました。

二〇一六年 八月十三日 古屋美登里



古屋美登里(Midori Furuya)
翻訳家。訳書にM・L・ステッドマン『海を照らす光』、イーディス・パールマン『双眼鏡からの眺め』(以上早川書房)、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』(ハヤカワepi文庫)、B・J・ホラーズ編『モンスターズ 現代アメリカ傑作短篇集』(白水社)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社文庫)、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』『兵士は戦場で何を見たのか』(以上、亜紀書房)ほか。


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