『俘虜記』『野火』といった戦争文学の名作、戦後最大のベストセラー『武蔵野夫人』の著者、大岡昇平。二十世紀後半にかけて日本文学を理論と実作の両面から支えた、名実ともに戦後日本文学の重鎮と呼ぶに相応しい作家です。

大岡氏は、偉大なる文学者であると同時に、熱心な推理小説愛読者でもありました。
ひとりの女性歌手の死を契機に引き起こる連続殺人を描いた推理長編『歌と死と空』や実際の事件を題材にした犯罪小説集『無罪』など実作だけでなく、イーデン・フィルポッツ『赤毛のレッドメーン』(現在は宇野利泰訳『赤毛のレドメイン家』で入手可)やE・S・ガードナー『すねた娘』といった海外推理小説の翻訳も手掛けています。文芸評論家・平野謙の追悼文でも、見舞いに訪問した際「マイ・シューヴァル=ペール・ヴァールーの新作を持って行った」と書いていて、生粋の推理小説好きの顔を覗かせています。
その大岡昇平の代表作のひとつが、第31回日本推理作家協会賞を受賞した長編『事件』です。ひとつの殺人事件をめぐる裁判の行方を克明に描出して、日本文学史上屈指の裁判小説である本作。大学の法学部で新入生の必読書の一冊にも数えられる、法を学ぶ人のための入門書にもなっています。
裁判小説の名作『事件』がこの度、新たな校訂を経て創元推理文庫にて甦ります。

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1961年7月2日、神奈川県の山林から女性の刺殺体が発見された。被害者は地元で飲食店を経営していた若い女性。翌日、警察は自動車工場で働く19歳の少年を殺人及び死体遺棄の容疑で逮捕する――。

被害者は一人、死因はナイフによる刺殺、そして犯人の自供もある……物語の中心となるのは、どこにでもありそうな「事件」です。しかし、そのありふれた事件をめぐる法廷でのやりとりが、どうしてこれほどまでに頁を繰る手を止めさせないのか。それ程の緊迫感と緻密さで、裁判の様子が描かれていきます。法廷で何が明らかになっていくのか、そして少年は本当に殺人を犯したのか――いつの間にか読む側も、その場にいる人々同様、裁判の行方を見守る立場に引き込まれていきます。
丹念な取材と調査のもと圧倒的なリアリティで以て裁判の過程を描破した本書は、同時に裁判によってしか到達できない「真実」とは何か、法とは何かを問い掛けます。

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大岡昇平『事件』を創元推理文庫で刊行するにあたって、過去の文庫版と違う点が幾つかあります。
最大の違いは底本です。『事件』という作品は、これまで著者の生前に四度書籍化されています(1977年新潮社、78年新潮社〈新潮現代文学〉、80年新潮文庫、83年岩波書店〈大岡昇平集〉)が、その度ごとに著者自身の手で改稿がなされているのです。
物語の大筋に異同はありませんが、改稿といっても単純な誤字の訂正に留まりません。例えば、終盤の裁判官たちの合議においては、未決勾留日数の算入に関して、新潮文庫版と岩波書店〈大岡昇平集〉版で正反対の発言に書き換わっているほか、改稿の度に裁判事や弁護士に相談、指摘を受けて、誤りのないよう手が入れてあります。
今回の創元推理文庫版は、著者の生前最後の版であり、「もはやこれを決定版にして、今後手を入れることはない」と自ら書いている岩波書店〈大岡昇平集〉版を底本にしました。更に、没後刊行された筑摩書房版〈大岡昇平全集〉にも収められている著者の訂正覚書の箇所も改めた、文庫決定版となります。

今回の文庫化にあたって、解説も新たに新保博久さんに寄稿いただきました。
生前の著者との思い出から始まる冒頭は、ミステリ好きの方にはちょっとしたサプライズとなることでしょう。大岡氏のミステリ好きが窺い知れるエピソードでもあります。
多くの資料から本作の輪郭のみならず発表前後の当時の情況も浮かびあがらせて、尚且つ今まで言及されることのなかった『事件』の構想の元となった作品まで辿ります。推理小説の観点から本作を研究した、本格的な解説です。

そして、今回の文庫版では、巻頭に作家・宮部みゆき氏のエッセイを特別収録しました。ミステリー文学資料館の館内報〈ミステリー文学資料館ニュース〉のリレーエッセイ「私の一冊」に寄せられた本文章は、『事件』という作品の魅力だけでなく、本作が宮部氏にとっても大切な一冊であることが伝わってきます。
エッセイの初出は2009年3月で、裁判員制度が施行されるのはこの二ヵ月後。「今こそ、もっともっと広く、多くの人びとに読み返されるべき」という宮部さんの文章には、普段「事件」とは縁のないと思って過ごしていた誰もが「裁く側」に立つことになるかもしれない現代にこそ、改めて本書の読まれる意義がこめられています。

(2017年11月17日)



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