「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く径路の面白さを主眼とする文学である。」江戸川乱歩はこのように定義し、「その秘密は犯罪などには少しも関係のないものであっても無論差支ない。原則としては何らかの謎さえあればよいのである」と解説を加えています。

 そう、テーマが犯罪でなくてもいいことは《円紫さんと私》シリーズで教わりましたね。『空飛ぶ馬』で登場以降、作家北村薫が“日常の謎”の命名と確立に大きく寄与したことに異論はありますまい。そして『太宰治の辞書』の読後には、このジャンルを更に豊饒にしたのも北村薫であったと思われるのではないでしょうか。《私》と共に作家もたゆまぬ歩みを重ねているのです。

 シリーズ第四作『六の宮の姫君』あたりから著者と登場人物の一体感は色濃くなり、本書『太宰治の辞書』で時に両者の距離は皆無に近く感じられます。著者の子供だった《私》が肩を並べて歩くようになり、ともすると半歩先を行く印象。本書が《私》なくして書かれ得なかったことは、インタビュー記事などからも明らかです。
 なぜ紅茶をやたら甘くするのか、なぜチェスの駒が冷蔵庫に入っていたのか、色々な謎を刈り取っていた《私》は、謎を見つけ(または生み出し)育てるようになりました。守株の如く謎をただ坐して待つのではない、とはいえハンターと化して渉猟せずとも兎が向こうから飛び込んでくるかのよう。見つけるべきものを自ら仕込んでおくマジシャンとは異なるのですから、苦もなく謎をすくいあげているように読めるのは筆のなせる業でしょう。

 さまざまなシーンで謎を取りに行く《私》、つまり著者北村薫。意識的にというより自然に、謎の胚芽が身内に蓄えられていくのかもしれません。そして、溢れんばかりの水が表面張力を破る一本の藁によってほとばしるように、謎を湛えた物語が生み出されます。さらに、本書の成り立ちには運も大いに味方をしました。天下の大図書館で収蔵されている本の所在が不明だったという小説めいた偶然、あちこちで差し伸べられる導きの手、物語を完結させる出逢いの後日談。“有卦に入る”を地で行くように。

 人生は謎に満ちている。解明されている謎であってもそうとは知らずに巡りあい、異なる解答を得る場合さえあるのだから――《私》にとっても著者にとっても、謎との出逢いは日日に新なりということのようです。
 新潮文庫の復刻版から始まった《私》の旅は、読み手にとって大きな希望になりました。著者の内なる《私》にふさわしい謎が現れたら、そのときは……。

 本書には、本編に加えてある人物の前日譚「白い朝」、随筆二編と米澤穂信氏による解説(絶品です)が収録されています。御堪能いただけること請け合い。とまれ、ごゆるりと《私》との再会を果たしてください。

(2017年10月11日)



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