『徒然草』の百九段に以下のような話がある。

 高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

 これは終わることの困難さを表現したもののようだ。確かに綺麗に終わることは意外と難しい。まだまだ大丈夫だと思って続けていると、思わぬケガをすることがある。

 さて囲碁では、お互いの了解で終局が決まる。終局に同意すると、ダメを詰める。ダメとは、囲碁の言葉で1目にもならないところを言う。余談だが、駄目と言う言葉はここから来ている。囲碁を打っていると、彼我の囲ったところが何目になるのか、お互いに数えている。これを形勢判断と言う。大差で負けていると判断すると、形勢逆転の勝負手を考える。挽回不可能と思えば投了する。これが礼儀である。いつまでも投げないで、ダラダラと打って、10目も負けているのは恥ずかしい。

 また囲碁は、地が多いほうが勝つゲームだが、地というものは一度で完成させることは出来ない。まず、勢力圏を広げなければならず、そのあとで、相手が勢力圏に打ちこんでくれば、戦いになる。そして、二線、三線の侵入も全て防いで、やっと最終的に地が完成する。そこでお互いに納得して終局となれば良いのだが、完成したと思った地に、相手はなおも打ちこんでくる。
 
 特に隅の変化は、百変と言われるくらい複雑怪奇である。対応を間違えると、何かが起きる。営々と築いたものが一手で瓦解する。布石は良かった。中盤でも形勢良し。しかし最後の最後で逆転される。囲碁を打つ人は、こんなことを何度も経験している。悔しいし、自分の弱さや不注意に悲嘆する。心臓にも悪い。逆の立場だと、これが嬉しくてたまらない。勝負は非情である。

 本書は、スリリングな隅の攻防に関する一冊で、読むだけでもためになり、詳しく研究すれば、逆転されることも激減し、反対に逆転のチャンスが増えたりして、勝率もアップすることは間違いない。かなり難解とはいえ、挑戦する価値は大いにある。本書を読んで、粘り腰のある碁打ちを目指しませんか。

(2017年8月21日)



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