今月の本の話題

2016.05.09

井辻朱美/真園めぐみ『玉妖綺譚』解説(全文)

シノワズリの香りと「玉」をめぐる物語の系譜
井辻朱美
 akemi Itsuji


 この物語の初稿(「第一回創元ファンタジイ新人賞」の応募原稿『夢現のはざま~玉妖綺譚~』)を読んだときに、何かとても居心地のよいソリッドさを感じた。もちろんこれは「ソリッド」な玉(石)から生まれる、「玉妖」なる精霊たちの物語ではあるのだが、世界観が、私たちの集合意識のあちこちに存在する基点と実にうまくリンクしている。そのために架空の世界でありながら、空中分解する危うさを感じさせず、想像力のウェブ上の確かな位置に繋留されている、はめこまれている、そういう手応えがあったのだ。
「石」「宝石」全体にまつわる神話的物語の系譜は世界中に存在するし、「賢者の石」を含む西欧の魔法学の流れもある。理科的に言っても、石は呪物ならぬコレクションとしても美しく、劣化することなくソリッドなものである。
 しかしもう少し巨細に眺めてみたい。この安定感、想像力としての正統性(オーセンシティ)は、どこから来るのか。

 最初に漂うのはシノワズリの香りだ。「玉(ぎょく)」という言葉も、中国伝来の玉(宝石・主に翡翠)への信仰をさし示している。
 この雰囲気をとらえた西欧作家の怪奇小説があったなと、最初に思った。確か柳のある風景画の中に入りこんでしまう話だった、と、グーグルに相談したり、怪奇小説傑作集を何冊もひっくりかえしたりしているうちに、あまりにもラストのセンテンスが思いうかぶものだから、ひょっとしたら自分の訳したものかもしれないと思いつき、三日ほど悩むうちに行き着いたのが、C・A・スミスの「柳のある風景」『イルーニュの巨人』創元推理文庫所収)だった。忘れきっていたのが情けない。
「柳のある風景」の主人公、夢想家のシー・リアンは、先祖伝来の、絹布に描かれた桃源郷さながらの風景をこよなく愛していたが、零落して家財を売りはらい、最後にそれも手放すことになる。見納めとばかり、絵の中の竹橋をわたる乙女を眺めているうちに、その世界に吸いこまれて、彼女とともに画中の人物になってしまうという結末である。
 この物語の「桃源郷」のイメージは、それがさらに絵の中に遠ざけられることと、そこを領する美しい乙女の存在によって、二重に強められている。もともと「桃源郷」は桃の林の彼方にある異界であり、武田雅哉の『桃源郷の機械学』(作品社)によれば、ひょうたんの中の世界、また壺中天とも結びつけられている。
 同じように『玉妖綺譚』に登場する玉妖は、独特の美しさを持つ“郷”をそれぞれに創りだすことができ、ヒロインの姉は自分の使役する玉妖の“郷”に赴くや、そのユートピアの甘美さに心を奪われ、帰る気をなくしてしまう。本書中のこの“郷”の設定は、「桃源郷」の異界性をさらにきわだたせるもので、いずれも美形ぞろいの玉妖たちの個性とあいまって、この世界を魅惑的に分節化している。
“郷”という場所、そして“郷”と現実との“はざま”(あまたの奇妙な異界妖が住む)の場所、そしてそこへつながる“門”のある装飾品店。こうしたトポスが織りなす地図は、「桃源郷」夢想の複合的発展形として、無意識の底をざわざわとゆすぶる。神話の原型イメージは、そのまま導入されるだけではゲームの設定にしかならないが、イメージが作者の中で生き物のごとく発芽し、偽足をのばし、枝葉を茂らせてゆくことで、原型がもともと蓄えていたファンタジーが発酵し、再活性化を始めるのである。
 ここでは影響関係や想像力のルーツを云々したいわけではない。イマジネーションの力動的なうねりがもたらす快感の意味、根源の神話との共振の力に揺さぶられるという話である。
 このあといくつかあげるイマジネーションについても、作者がそれらを知っていたかどうかとは、まったく別の話である。ただ、目に見えない人類の夢想のウェブ群があるとすれば、それらの網の上を軽やかにスキップし、また網目をくぐりぬけてゆくかたちで物語が機能し、息づいている――そんな(私的な)連想の道筋を語ってみたいのである。

 引き続きシノワズリ的な桃源“郷”魅惑について、触れておきたい話がある。中国本土ではないが、ベトナムにホンノンボなる、盆栽というのか盆景というのか、ふしぎなジオラマ・アートがある。日本の盆栽と違うのは、必ず水を張った鉢なり盆の中に作品が作られ、石や岩を配して峨々たる山へ盛り上げ、苔や木を植え、洞窟や階段を刻みこみ、さらには瀬戸物のミニチュア(フランスのガトー菓子の中に入れて焼くフェーブのようなもの)をセットして、隔絶した物語的な風景を――いわば壷中天を――作りあげている点である。ミニチュアは、碁を打つ老人、農夫、動物、『西遊記』の登場人物など種々雑多である。見たところ、少しばかり香港の「タイガーバーム・ガーデン」を思わせる無造作で不思議な風景だ。
 ホンノンボを手っ取り早く理解するには、『ふしぎ盆栽ホンノンボ』(宮田珠己、講談社文庫)を開いて、豊富な写真を眺めるのがよいだろう。宮田の文中にこうある。「(筆者注・中国佛山の盆景のように)ミニチュアまでが精密だと、かえって脆弱な印象を与えてしまうものだ。ラフだからこそ、全体をわしづかみにするような力強さ、闊達さが生まれ、風景が立ち上がってくる」(一七二ページ)。確かにこれらの箱庭世界は、わけのわからなさが魅惑的な謎をはらんで、「夢現のはざま」にあるようで見飽きない。
 玉妖たちがそれぞれ自分の石の中にこしらえている、独自の美意識をまとった世界“郷”も、こんなふうな閉じた悦楽に満たされている。女性の姿をした玉妖「かぐや」の“郷”は、ホンノンボの典型のような岩山と水との神秘的な世界であり、妖精が歌い、風が舞って、桜の木からは一瞬にしてすべての花が散り落ちる。初めてここへ招かれていったヒロインは、「酒に酔ったように頭の芯がぼうっと」なる。「とても清浄なんだが、鋭利なところがあるから酔っちまう」、そんなような場所である。
 現実世界での玉妖は、姿があっても触れることはできないが、それぞれの“郷”では生々しく実体を持つ。“郷”は彼らの想像力が作りだす一種のホンノンボなのだ。単に異界に住む存在ではなく、みずからの領域を持ち、本性が石であるゆえ「トポス」の司でもあるところが、物語にゲーム的な整序感をも与えている。

 このあたりで少し作品の概要に触れておこう。そもそも玉妖とは、“はざま”の竜卵石の中に宿り、人の気を受けて育ってゆく存在である。彼らと誓約を交わせば、主人になることもできる。そうでなくても石を持っていれば、彼らを招喚して、援助を受けることができる。中でも愛好家垂涎の的の竜卵石群は、コレクターの名を取って難波コレクションと呼ばれ、七つの石を擁している。翠嵐、陽景、ほむら、くろがね、かぐや、青秀、紫艶。それぞれの玉妖はこれらの名前の表記があらわすような色と性格と、たぐいまれな容姿を持つ。
 難波俊之夫妻の死後、散逸したこのコレクションを集め戻そうとする甥の難波彬良。亡くなった恋人の姿を写した玉妖を「五宝陣」の呪術の力で、生身の人間にしようとする広岡清輝。ほむらに恋するあまり“郷”に閉じこもったままの高崎百合之、姉の百合乃を救うため、くろがねと主従の誓約を交わし、驅妖師になったヒロイン彩音。その師匠のような装飾品店主の寺西要、驅妖師でありながら探偵事務所を経営する伊上亮輔。これらが主な登場人物であり、この第一巻は彼らと玉妖が織りなす短編ドラマの連作である。
 驅妖といっても、玉妖はもともと人に育まれるものなので、人間に敵愾心を持つわけではなく、ただ主人の意のままにならなかったり、力を失ったりして、駆除すなわち「浄化」されるのである。そのあたりも自然発生的な妖怪とは異なる。玉妖たちの人に近い喜怒哀楽、それでいながら人とは異なる冷たさ、その硬質の、というか石らしい内密感。この性格の対置もみごとである。

 それぞれの物語は本編を読んでのお楽しみとしたいが、「桃源郷」と並ぶ、もう一つのモチーフである「玉」をはらんだ日本の物語群もあげておこう。戦後の代表的な作品ならば、人と宝石を結ぶ絆を謎に取り込んだミステリ『虚無への供物』(中井英夫[発表時の筆名は塔晶夫]、創元ライブラリ)であろう。さすがに、こちらはあまり間をおかずに思い出すことができた。
 宝石商たる氷沼家では子どもが生まれると、誕生石に基づいた命名を行い、子どもはその宝石を受け継ぐことができる。物語の中心となる世代では、紫司郎の息子蒼司(ダイヤモンド)、紅司(ルビー)、菫三郎の息子藍司(サファイヤ)、朱実の息子黄司(トパーズ)そして、橙二郎の息子、緑司(エメラルド)といったぐあいである。
 彼らをめぐる連続殺人事件に、想像力の暴走めく謎解きと象徴的な意味付与を塗り重ねてゆく、探偵というより観客(読者)の立ち位置にある主人公たち。五色の宝石(を体現する人物)には、目黒、目白など五つの不動尊が、またポーの詩や小説、『不思議の国のアリス』が上書きされ、夢想の網は幾重にも投げかけられるが、事件の全貌は決してとらええない……
 古典にさかのぼれば「玉」である人の物語、馬琴の『南総里見八犬伝』も忘れることはできない。文字の浮いた水晶玉を持つ八人の青年が、その玉を機縁に出会い、玉の功徳によってさまざまの奇瑞を得つつ、妖怪、怨霊、悪漢を退けて里見のお家の復興に尽くす。さらに古くは謡曲の「海人」の伝説もあり、「玉」は私たちの想像力の圏内のあちこちに配置されているのである。
 そんななかに今回、本書『玉妖綺譚』が加わる。
 最後に、このシリーズが新たに「玉」に付け加えた魅力と思われるものをあげるならば、石である「玉」と生き物との連続性であろうか。神聖な宝石としての「玉」は不変であり、無欠であることで力を持つ。「玉」をタリスマン(護符)とするこれまでの物語では、そうあらねばならなかった。しかし自然界では鍾乳石にせよ、クリスタルにせよ、石はしだいに成長し、変化してゆくものだ。本書の「玉妖」は魔物や天使のごとき不老不死の固定した存在ではなく、竜卵石すなわち卵から生まれる動物であり、心臓にあたる「心芽」植物のように体内に発達させてゆく。これを驅妖師の剣で砕かれれば、消滅すなわち“浄化”される。硬質な石の精霊でありながら、生物のなまなましい可塑性をも見せる。しかも彼らは繭を編むように“郷”を創り、各部の風景を細胞分のごとく成長させてゆくのだ。このあたりが作者ならではの創見であろう。
 石の可変性、躍動性についての鋭い指摘がG・バシュラールにある。
 
――われわれの夢そのものの中では、硬さのイマージュは一様に覚醒のイマージュであること、換言するなら、硬さは無意識の状態にとどまることができず、われわれの活動を要求するものであることを、もっと精確な手段で証明できるだろう。(『大地と意志の夢想』

(2016年5月9日)




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