新刊『プラハの墓地』が都心の書店にそろそろ並び始めるか、というタイミングで届いたウンベルト・エーコ氏の訃報。エネルギッシュな方だったので、八十代とはいえ、まったく考えてもみなかった事態に驚きました。
 邦訳版をお目にかけられなかった、という無念な思いでいっぱいです。
 二十六年前、一九九〇年一月に『薔薇の名前』を刊行。その年の夏、国際交流基金の招待で来日され、社を訪れたエーコ氏は、驚いたことに、誰もが知るあの髭のエーコ氏ではありませんでした。予想と違うお顔にびっくりしていると、「スキューバダイビングをするのに髭は邪魔だったのでね」と意外なことをおっしゃいました。どう考えても書斎派の氏がスキューバダイビングとは。
八二年四月九日号のフランスの週刊誌「レクスプレス」『薔薇の名前』の見開きの紹介文を読んで以来八年にわたって、写真や似顔絵で慣れ親しんでいた、憧れの〈髭のエーコ氏〉が現われなかったことに、実は私は〈なあんだ、普通の人じゃない!〉と、ひそかに少々がっかりしたのでした。
 銀座のガス・ホールでの講演、目白のひっそりとした料亭での会食(レナータ夫人とお嬢さんと訳者の河島英昭先生他といった方々で、ゆったりとしたひとときを過ごしたのですが、遅れてこられたお嬢さんが食べ切れなかったものを、「Doggy Bag にしてもらいなさい」と父親らしい笑顔を一瞬浮かべておっしゃったのでした。ドギー・バッグという言葉が実際に使用されるのを聞いたのはあの時が、そういえば初めてでした)等、忙しかった数日間が思い出されます。計算してみると当時のエーコ氏は五十八歳。なんと今の私よりお若かった。
 日本を発たれる前日だったか、連絡があって、滞在中のホテルで一緒にお茶を、とお誘いがありました。いくぶん緊張気味にホテル・ニューオータニに伺って、レナータ夫人と三人で楽しいお茶のひとときを過ごしまた。
 各国語版の違いや印象などを話していたとき、「ドイツ語版はどうだった?」と尋ねられ、「素晴らしく美しくてとてもいい本だし、注も役に立ちましたが、でもあの注はちょっと必要以上に細かすぎる感じは否めませんでした」と答えると、我が意を得たりという表情をなさって、「ほらほら、ドイツ人はやりすぎなんだよ」と、ドイツ人であるレナータ夫人を肘でつついてクックッと笑われたのを思い出します。
 
 その翌年の秋、フランクフルトのブックフェアに行くと、エーコ氏がイタリアの版元のブースに現われたという情報が入りました。
 慌てて飛んでいくと、もう帰ろうとされているところで、ギリギリ滑り込みでご挨拶すると、「やあ、マリじゃないか!」と親しげに近寄ってこられて、周りにいる記者たちが写真をシャカシャカ撮りはじめました。こんな外国人の記者がいくら写真を撮っても、私に写真が届くわけではない、と必死で一人のカメラマンに自分の小さなカメラを渡し、「これで撮って、お願い」と頼んでツーショット写真を撮ってもらいました。来日の時の写真とともに、宝物になっています。と書いていざその写真を、と探すとすぐには出てきそうもありません。本の魔窟に暮らすなさけない編集者の宿命です。

 エーコ氏の死因は膵臓癌とのことでしたが、闘病の話はまるで知らず、そんななか聞こえてきたのは、昨年の秋、ずっと彼の版元であったボンピアーニ社が、かの悪名高き(!)ベルルスコーニ元首相に買い取られた(この買収で、ベルルスコーニ所有の版元が巨大化し、イタリアの出版物の35~40パーセントをカバーしてしまう大きさになってしまったというとんでもない事態に!)ため、ボンピアーニ社の名編集者や、何人かの作家たちとともに私財を投じて《テセウスの船》という名の出版社を設立したという話でした。
 この大変な活動を病気の身で繰り広げていらしたエーコ氏に敬意を表するほかありません。エーコ氏という偉大な舵取りを失った船は、これからどのように進んでいくのでしょうか?
 かつて『薔薇の名前』が本国で発売される前、版元は3000部くらいしか売れませんよ、と言ったそうです。それが世界で一千数百万部の大ベストセラーになりました。日本でも、当時の週刊誌「朝日ジャーナル」の"現代の大学生の生態"とでもいうような記事中に、「鞄の中には『薔薇の名前』」と書かれたり、当時一部に熱狂的なファンのいた漫画家・玖保キリコさんの月刊「ララ」の連載「シニカル・ヒステリー・アワー」に、鬱陶しいほど優等生タイプの登場人物・学くんがゴールデンウィークに「読みたかった本が読めて有意義だった」といかにもという感じで『薔薇の名前』をあげて、わがままでおおざっぱなツネコちゃんに「それ園芸の本? 図鑑?」と訊かれ「フランチェスコ修道会の修道士ウィリアムがベネディクト修道会の見習い修道士アドソを伴って……」と煙(けむ)に巻く場面が出てきたり、というほどだったのですから、知への憧れ、知の力を信じる気持が今よりずっと普通であった時代だった気がします。

 エーコ氏はエンターテインメントを知り尽くしていました。そしてその完璧な読み物は知にしっかり裏打ちされていました。
『プラハの墓地』もまさにそんな作品です。「決して楽しいだけのエンターテインメントではない」というアメリカの新聞書評が示すようにエンターテインメントとして見事に仕上がっているのてす。そして、あのお茶の時間に見せた、からかうような表情を思い出させるウィットに富んだ文章がそこそこにちりばめられた、本作のなかに込められたものをさらに読み取ろうが取るまいがそれは読者の自由です。決して読者に何かを強要することはありません。
 私自身にとっては久しぶりに、知の力、知への憧れをもう一度思い出させてくれた作品となりました。そして、氏の行動力――最後の力を振り絞ってまで、知と自由のために新しい出版社を船出させたその生き方――は、出版人のはしくれとしての私にも、活を入れてくださいました。ありがとうございました、プロフェッソーレ。心から感謝いたします。

――編集部 井垣真理
(2016年5月9日)



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