ウィーン大学病理学研究所の地下にはときどき頭がおかしい人間がうろついている。カルメンは自分の車に辿り着くと、リモコンキーを作動させた。黄色のウィンカーが二度点滅する。その瞬間、目の端で人影を捉えた。はっとして振り向き、腕を上げるよりも早く、カルメンはうなじになにかが刺さるのを感じた。

「わたしをどうするつもり?」
「あんたに麻酔薬を注射した……筋弛緩剤をちょっとね。もちろん鎮痛剤の投与はやめた。火傷の患者は、皮膚の三分の二を損傷されると、細胞呼吸ができなくなって死に至る。あんたがそうならないように手足をゴミ袋でくるんだ。着ているものには通気性はないが、撥水性はある。それにセメントによる皮膚のただれを防ぐ……いずれにせよ体の重要な部位はな……」
 男は鎖を放し、カルメンの背後にまわった。鎖の末端のにぶら下げてある鏡にヘッドランプの光が反射した。鏡の向きが変わって、一瞬、自分の顔がカルメンの目に入った。
 というより……自分の顔しか見えない!

「やめて。お願いだからやめて!」
「抗生物質を投与してある。それに折を見て、ビタミン剤を与える。それでもくる病を発症するのはさけられないだろうな」
「なんでわたしなの?」
「考えれば、わかるかもな」
「どうしてなのよ!」
 突然男の声の調子が変わった。わたべ歌を口ずさむ少女の声のように明るくなった。

「今日こそ フィリップ
 行儀よく すわっていられるね?」
 息子にいった
 父さん まじめな声
 母さん だまって
 ぐるりと 食卓 見回した
 ところがフィリップ 聞いてない
 父さんの言葉 そこのけ
 ぎっこん
 ばったん
 がたん
 ごとん
 椅子にすわって やりたいほうだい
「フィリップ どういうつもりだ けしからん!」

 そしてカルメンは突然、自分を誘拐した犯人がだれかわかった。

『夏を殺す少女』で人気を博した著者が今度は童謡殺人に挑む! オーストリア・ミステリの傑作登場!

(2016年1月7日)



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