今月の本の話題

2014.08.05

アメリカ心理ミステリにおける随一の鬼才 マーガレット・ミラー『悪意の糸』[2014年8月]

悪意の糸
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戦後名声を博したミステリ作家の中でも、読者を欺く技巧という点において、彼女と肩を並べる者はまずいない。まして凌駕する者は皆無である。ミラーはありがちな犯罪のシチュエーションから、徐々に読者を興奮の頂点へと導く。そして最後の数頁に至るや、さながら万華鏡のように、こうと決めてかかっていた結末とは全く異なる様相(パターン)を広げるのである。
Julian Symons“Bloody Murder―From the Detective Story to the Crime Novel:a History”(1972)

マーガレット・ミラーは、1915年カナダのオンタリオ州で生まれました。高校時代の同級生であったケネス・ミラー(ロス・マクドナルド)と結婚したのち、41年、The Invisible Wormでデビュー。55年『狙った獣』を発表しMWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞最優秀長編賞を受賞、83年には同グランド・マスター賞を受賞します。名実ともに高い評価を得ている、アメリカの推理小説界を代表する作家の一人といえましょう。
その作品の魅力として、読者を翻弄するサスペンス性や技巧的なプロット、最後の一行がもたらす驚き、などが真っ先にあげられますが、他に類を見ないという意味では、不意打ちのように現れて胸を衝く「表現」こそが、ミラーの作品が宿すデモーニッシュさを、何よりも引き立てているように思います。

『悪意の糸』は、出世作として知られる『鉄の門』『狙った獣』の間に執筆された、ミラーが試行錯誤を繰り返していたと思われる時期の作品です。望まぬ妊娠をした若い娘、彼女の行く末を気に掛ける女医、二人の周囲で不穏な計画を企てる男たち――と、スタンダートなサスペンス/ミステリの型通りにストーリーは進みますが、主人公シャーロットを翻弄する状況は、全く予断を許さない不気味さを湛えています。その状況を加速させる、登場人物ひとりひとりが抱える弱さが、極限状況で噴出する心の闇など、『狙った獣』以降のミラーに特徴的な要素がちりばめられた、まさに知られざる佳品といえましょう。
ミラーの描く世界は、基本的に荒涼としています。しかし、そこには詩的としかいいようのない美しさがあります。まだミラーの作品を読んだことのない方も、ぜひお手にとってみてください。シンプルで短い中に、他にはない「マーガレット・ミラーの世界」を楽しんでいただけると思います。
そしてミラーを愛する同志の皆さま、本当にお待たせいたしました。もう何も申し上げることはありません。
ご堪能下さい。


(2014年8月5日)




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