今月の本の話題

2013.11.06

大人になったらわかる『樽』の面白さ[2013年11月]

樽
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 クロフツといえば『樽』とフレンチ警部、『樽』といえば古典のベストテンに必ず挙がる名作――らしいけど厚くて大変そうだから読むのに気合いが必要(あるいは、昔読んだけど全然覚えてない)とおっしゃる方が多いのかもしれません。
 では、『樽』はミステリ読みとして避けては通れない課題図書としてのみ存在し続けることになるのでしょうか。
 いえいえそんなことはありません。
 新訳刊行となった今回、解説を書いてくださった有栖川有栖氏は次のように述べておられます。

「ミステリファン必読の書だった『樽』は時代遅れになり、古典好きにのみ愛されるマニアックな作品になってしまったのか?――断じてそうではない。
 本書を手に取られた方の中には、古典的名作と言われているから目を通しておこうか、という方もいれば、新訳されたのを機会に再読してみよう、という方もいらっしゃるだろう。いずれも読者にも、『樽』は楽しい時間を提供してくれるはずだ。この度、四十年ぶり(!)にじっくりと再読した筆者は、かなり興奮しながらこの小文を綴っている。」

 瀬戸川猛資氏が『夜明けの睡魔』で、『樽』のことを「15年早かったのでは?」と書いておられます。それは「クロフツが」という意味ですけれど、子供向きの本で推理小説の面白さに目覚めて文庫本を読み始め、学習雑誌の附録などに載っている「海外・国内ベストテン」に飛びついたらいきなり『樽』だった――という出会いなら、読む側も15年早かったのかもしれませんね。重厚長大なミステリの存在を知りドーヴァー海峡はじめ英仏の地名に馴染んでもいる大人であれば、苦もなく物語の流れに乗っていけるはずです。

 波止場で船荷を降ろす作業の途中(まさに表紙写真のような状況でしょう)、吊り上げられた樽が落ちて破損したことが話の発端です。
 この小説の主人公は樽であり、自らの意志で動くはずのない物体であるにもかかわらず、樽の中身をめぐって早々と警察の介入が始まっても容易に全貌を見せません。また、内容物が明らかになっても被害者の身許すらすんなりとは割り出せず、海を挟んで英仏の首都警察を翻弄するのです。
 三部構成の第一部と第二部で警察が洗い出した事実は、最終第三部で調査を担う弁護士と私立探偵に引き継がれ、「アリバイ崩し」に焦点が定まるのは第三部に入ってしばらくしてから(全体の四分の三ほど過ぎてから)なのです。332ページに至っても「アリバイのことはひとまず措【お】こう」の台詞があります。
 全編これ複雑なアリバイトリックに七転八倒する物語、という印象を持たれがちではありますが、アリバイ崩しは『樽』が内包する要素の一つ、とお考えください。
 荷を運ぶのに馬車を使うのが日常であったり、意外にのんびり食事をしたり(捜査中もちゃんと食べるし飲む)、なかなかに牧歌的な雰囲気が楽しく、先人に敬意を払うところも微笑ましい。
 例えば3章に登場する新米巡査ジョン・ウォーカー。散策中に他人を観察し、どういう経歴の持ち主か考えるのが習慣です。いつかはシャーロック・ホームズのようになりたいと希う若き巡査は、手配中のものと思しき四輪馬車に出っくわし、胸を高鳴らせつつ追跡開始。また、ある身体的特徴の馭者を捜すため新聞に広告を打ったところ、来訪者殺到でてんてこまいするくだりは「赤毛組合」を思わせます。「ルブラン」氏が二人登場するのは、フランス人の固有名詞に困ったという事情かもしれませんが。

 このたび巻末に収録なった海道龍一朗氏の「かくも甘美なる樽の中で」は、『樽』といわずミステリといわず本を読む方には是非目を通していただきたいエッセイです。十代の夏休み、海道少年を大人にした至高の読書体験が綴られています。
 そして解説執筆を機に(大人になってから)再読が叶ったとおっしゃる有栖川有栖氏の熱く優しい解説「樽よ、永遠なれ」。『樽』と『黒いトランク』の美しい相関もまた読者の視界を広げてくれることでしょう。
『樽』は断然面白い! 大人の皆さま、これから大人になる皆さま、どうぞ御一読くださいませ。


(2013年11月6日)




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